9/24説教「希望の源」

はじめに
先週の金曜日、9月22日の午後、大磯駅前の聖ステパノ学園において創立70周年記念礼拝・記念式典・そして音楽会がありました。私は大磯教会を代表して出席してきました。聖ステパノ学園には皆さんのクリスマス献金の中からわずかですが毎年献金させていただいていますし、近い教会として昔からの繋がりもあり、今年は特に、聖ステパノ学園のレリーフ広場でクリスマス・キャロリングの会場として使用させていただくので、喜んで出席させていただきました。講演の中で創立者、澤田美喜園長の業績に改めて感銘を受けました。敗戦後の混沌の中で望まれずに生まれた混血児を自ら愛を持って育て、キリストの愛をもって教育した創立者澤田美喜の志が、今は一般の教育機関になっていますが、信仰・希望・愛の教育方針が脈々と受け継がれて発展していることに関心いたしました。しかし、世界では、今もウクライナでの戦争の被害者として子どもたちが親から引き離され思想教育を受けさせられ親子の分断という悲劇があり、またアフリカの国々の内戦や、最近のアルメニアとアゼルバイジャンの紛争、またパレスチナでの何時までも続く憎しみの応酬など、人間の欲望と憎しみの連鎖に終わりが無いのではないかと思わされます。そういう中で、今朝私たちに与えられた聖書の箇所は、ヨハネの黙示録1章4節から8節までの箇所です。これを黙示文書として表わしたヨハネは、初期のキリスト教の迫害の最も激しい時代、ローマ帝国のドミティアヌス帝の迫害の時代に書かれたものです。そのいのちを賭けて礼拝を守り、信仰を伝えた聖書の箇所から今朝は御言葉の恵みに与りたいと思います。

七つの教会に送られた黙示文書
「黙示」とは、ギリシャ語の意味によると「覆っているカバーを取り除ける」ということです。だから、「イエス・キリストの黙示」とは、隠されている真実が主イエスによって余すところなく明らかにされた、ということです。著者ヨハネは、迫害を受けているすべての信徒に復活の主イエスを証しし、恵みと平和が来るように祈っているのです。黙示録は、迫害の中で命を賭けて礼拝した教会から生まれたものです。
ヨハネの黙示録は黙示文書と言われますが、手紙の形式で書かれています。差出人はヨハネという人です。教会の伝承によれば使徒ヨハネといわれますが、全く別の教会の指導者だというのが大方の見方です。また、受取人は「アジア州にある七つの教会」です。アジア州とはローマ帝国の政治区分で、今のトルコ共和国の内陸部にある小アジアを指しています。11節を見ると、アジア州にある七つの教会は「エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会」であったことが分かります。そして、2章から3章に渡って、それぞれの教会に宛てた手紙が記されているのです。受取人は「アジア州にある七つの教会」でありますが、黙示文書の特徴である象徴的な数字、完全数を用いています。7は完全数と言われているのです。つまり、完全数である7つの教会が受取人とされていますが、実はこの黙示文書が伝えているのは、ここに名前が挙げられている教会だけに限られないのです。すべての教会に宛てて書かれていることを意味しているのです。

眠り込まないで主を待つ
ヨハネの黙示録は、1節に書かれておりますように、「すぐにも起こるはずのこと」、つまり、まじかに迫った終末の時を、神がその僕たちに示すために、イエス・キリストにお与えになり、そして、キリストが遣わされた天使を通して僕ヨハネにお伝えになったものとして書かれています。少しややこしい手順で、ヨハネに伝えられています。つまり、神からキリストへ、キリストから天使へ、天使からヨハネへ、ヨハネから教会へという丁寧な順序を踏んでいます。
ヨハネは、キリストの信仰のゆえに、パトモス島という小さな島に島流しにされていたと書かれていますが、そこで復活のキリストからのメッセージを手紙というかたちで書いたのです。そして、アジア州にある7つの教会に宛てて書いたのです。当時の人にとって「七」という数字は完全数であり、すべてということを意味しますから、ヨハネの黙示録は、私たちの地上の教会のすべてに向けられた、キリストの言葉だと言うことは既に話した通りです。
ところで、加藤常昭牧師の説教集の中で、エミール・ブルンナーという神学者の説教集の話しが紹介されていました。そのブルンナー説教集の中に、1つだけ黙示録の説教が入っていて、その中で、ブルンナーは、「現代は黙示録に対する関心を持っている時代である。黙示録は将来が見えない混沌の時代において、しばしば手に取られ、また、それについて語られてきた」と語っています。このブルンナーのヨハネ黙示録の説教は、ちょうど第二次世界大戦直後の混沌の中にあったヨーロッパにおいてなされたものです。実際にその頃に黙示録についてすぐれた書物がいくつも生れたと言われます。彼は、黙示録というのは危機に遭遇すると読みたくなるみ言葉であると語っています。しかしまた、この書は、読み方を間違えると危険な書物であり、気をつけなければならないとも語っています。チェルノブイリ原発の事故の際にもヨハネ黙示録の言葉を引用して預言の言葉と解釈されたり、東日本大震災の津波の映像を見て黙示録を想像し「神の怒りが始まった。悔い改めよ!」と声高に唱えた人もいました。
このヨハネ黙示録を手がかりに将来のことを読み解いて見せたりすることは、ブルンナーが心配していた危険なことになるのです。しかし、私たちも気をつけないと、同じような過ちをおかす危険があるのです。黙示録の黙示という言葉は、啓示と同じような意味ですが、隠された神の言葉です。この黙示録という言葉が、しばしば用いられ、映画の題になったりもします。黙示録に刺激され、黙示録の言葉を解き明かすと称して、これからの世界の出来事を予言してみせる。我々の不安に乗じて将来を言い当ててみせる。そういう人々を登場させる働きをしてしまうような間違った読み方もあるのです。
私たちが信じている三位一体の神は、将来の出来事を私たちに見せては下さらないのです。一人一人に起こることを、こまごまと見せてはくださいません。そのような知恵を神は私たちに与えてくださいません。それだけに私たちは、緊張して備えなければならないのです。マタイによる福音書に出てくる「十人のおとめ」のたとえのように、油の用意をしていなかった愚かなおとめたちのようであってはならないのです。眠気がさして、眠りこんでしまってはならないのです。私たちは、毎日の生活の中で、しばしば神の存在を問いかけ、疑い、失望したりします。まるで神が居られないかのように、嘆いてしまうのです。

エッサイの株から若枝が育つ
4節、5節に記されているように、ヨハネは、神と聖霊とイエス・キリストの三者から「恵みと平和があなたがたにあるように」と七つの教会に挨拶を記しています。3という数字も、黙示録ではよく用いられる数字です。神と聖霊とイエス・キリストの三者、これは三位一体の神を表わしていると理解することができます。また神は、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と言い表されていますが、これも3です。私たちが、今礼拝している神は、「かつておられ、やがて来られるお方です」。次に聖霊ですが、聖霊は「玉座の前におられる七つの霊」と言い表わされています。ここでも完全数である7が用いられています。これは神の霊が完全で満ち溢れていることを表わすと理解できるのです。これは、聖霊が七つあるということではありません。
今朝私たちに与えられた旧約聖書の御言葉は、イザヤ書11章1節から5節までですが、2節にこう記されています。旧約聖書1078ページです。
2その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
ヨハネ黙示録1章4節でヨハネが語っている「玉座の前におられる七つの霊」というのは、このイザヤ書11章2節の主の霊の七つの働きを表わしているのです。ここから取られた表現なのです。そして、来るべきメシヤには主の霊、聖霊がとどまり、聖霊に満たされるとイザヤは語っています。しかし、それは救い主である主イエスだけでなく、主イエスを信じるキリスト者も同じなのです。主イエスを信じるキリスト者には、聖霊が注がれます。私たちも聖霊の力を受けることができるのです。聖霊の働きはまず第一番目に「主の霊」であると言うことです。第二番目にそれは「知恵の霊」です。そして、第三にそれは「悟りの霊」です。そして第四目にそれは「はかりごとの霊」、第五番目は「能力の霊」、第六番目にそれは「主を知る知識の霊」、そして第七番目に、それは「主を畏れる霊」です。これは聖霊の七つの働きを表現しているのです。イザヤ書11章1節には次のように記されています。
1エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
とあります。エッサイというのはダビデの父親の名前です。息子ダビデは有名な王様でしたが、エッサイはそうではありませんでした。「ダビデのことは知っているけれども、エッサイのことは知らない。」という感じだったのです。それだけではありません。このエッサイは羊飼いをしていました。当時、羊飼いというのは社会的に低い人たちの仕事とみなされていました。ですから、エッサイの株から新芽が生えたというのは、むしろ軽蔑的な表現だったのです。しかし、イザヤはダビデから出たとは言わないで、父親であるエッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、と語りました。イザヤは有名なダビデの名前を使いませんでした。あまり知られていない父の名前を使いました。それはやがて来られるメシヤがダビデの家系から生まれるみどり子でありながら、そのようにへりくだった状態で生まれて来られるということを示すためだったのです。そしてこの株とは切り株のことですが、木が切り倒された後に残るのが切り株です。ユダの国は切り株のような状態でした。イザヤの時代もアラムとエフライムに攻撃を受け、その後、アッシリヤによって攻め込まれ、奇跡的にその危機から救われたけれどもバビロニアによって滅ぼされ、捕囚の民となり、70年の時を経てエルサレムに帰還できたのは神の憐れみによることでした。しかし、それでも彼らはまた神に背いたので、ペルシャ、次にはギリシャ、その後にはローマと、ずっと異国によって支配されることになり、そして、主イエスを迎えることになるわけです。それはちょうどシーンと静まりかえった森の中で、木々が切り倒されて切り株しか残っていないという全く絶望的な状態でした。そのような静まりかえった中に、それを打ち破るかのようにしてキリストが生まれたのです。それがエッサイの切り株から新芽が生えるという意味です。神は、焼けこげて、もう命さえもないかのような切り株から新芽を生えさせ、そこから若枝が出て実を結ぶようにしてくださいました。だれもが絶望している時に、誰もが期待していないような中で、神の救いが現れたのです。もう何の命も、何の望みもないと思われるような中に、神の救いが始まったのです。このことは私たちに希望を与えます。もしかするとあなたの人生も切り倒され、何も残っていないかのような切り株のような状態かもしれません。しかし、神はその切り株からも新芽を生えさせ、若枝を出させ、実を結ぶようにしてくださるのです。どんなに切り倒され、さげすまれても、神は決してあなたを見捨てるようなことはなさいません。必ず回復させてくださ        
るのです。

アルファであり、オメガであるお方
最後に8節をお読みします。
8神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
「アルファ」とはギリシャ語のアルファベットの最初の文字です。また、「オメガ」とは最後の文字です。ですから、その意味は、「わたしは初めであり、終わりである」という意味です。神はすべてを始められた方、創造された方であり、すべてを終わりにされる方、完成されるお方なのです。神は歴史の唯一の支配者なのです。このことは、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者」という言葉によっても言い表されています。ここで「全能者」と訳されている言葉は、「万物の支配者」とも訳すことが出来ます。歴史を貫いて万物を支配しておられるのは、主なる神であります。そのことをヨハネは迫害の中にある教会に思い起こさせようとするのです。私たちの現実に遭遇することは悲惨なことであったり、無慈悲と思われることであったり、神はどこにおられるのか、と思うような現実であるかもしれません。しかし、今、そのようにしか思えない現実があろうとも、「わたしはアルファであり、オメガである」と言われる神が、この歴史に起こるすべてのことを御支配しておられるのです。そして、その終わり、完成は、主イエス・キリストの再臨によって到来するのです。
105歳で召天された日野原重明医師は「老年期は衰退の時ではなく成熟の時だ」とある本の中で書かれています。老年期は人生の総まとめの時、統合する時と言われますが、言い換えれば「成熟の時」です。それでは、成熟に向けて老年期をどう過ごすのか。日野原先生は3つのことを伝えています。これは老年期に限ったことではありませんが。
第1は、「新しく創めること」と言います。とんでもない今の現状維持で一杯だという人もおられるでしょうが、新しく創めることが充実した老年期を過ごす秘訣だと言っています。神は私たちに能力・賜物を最大限に生かすことを求めておられます。日野原先生も98歳から俳句を始めておられます。人間の脳は生涯、三分の一しか使っていないと言います。私たちは神から与えられた賜物を最大限生かしてきたでしょうか。新しいことを始めることによって神の恵みの広さ、深さを再認識出来るのです。最後まで挑戦して成長し続けることによって私たちは成熟していくのです。
第2は、「耐えること」と言います。老年期には、身心の衰え、辛さ、不自由を覚えます。愛する人との別れもあります。不安や心配、辛さに耐えなければならないことが多くなります。しかし、苦難に耐える模範はイエス・キリストです。主イエスが十字架の苦難に耐えられたことによって救いがもたらされました。苦難に耐えることによって自分を支えてくれている人の存在が見えてきます。また、見えない神が自分を支えておられることも見えてくると言います。
第3は、「愛することと祈ること」だと言います。聖書は「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と教えています。私たちを深く愛してくださっている神の愛に満たされ、その愛に応えて神を愛し、人を愛することは、人生の最後まで課せられた課題だと言っています。若い時のような愛は難しいけれども、年老いても愛することは出来ると言います。微笑むこと、人の話を良く聞くこと、うなずくこと、「大丈夫だよ」「ありがとう」「すばらしい」などの暖かい言葉をかけることによって愛を伝える事が出来ると言っています。
「ヨハネの黙示録」はヨハネ自身の考えやこれから世界で起こることに関する想像が記された書物ではありません。ヨハネは神から書くように言われたことを書き記しました。それゆえ、彼は神の御言葉とキリストの証について語るのです。ヨハネの黙示録は、人間の精神が作り出したものではなく、神が私たちに語るべきだと思われたことがらです。人間の際限ない好奇心を満たすためではなく、人々が黙示の内容を信じ、それに基づいて正しい判断を下すようになるためでした。それゆえ、ヨハネは自分に示された黙示をすべての人が読むように促しているのです。

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