10/1説教「人を分け隔てしてはならない」

ハイデルベルク信仰問答との対話
今日から今年度の後半の始まりになります。今朝、私たちに与えられているテーマはキリスト教の倫理の問題です。始めに『ハイデルベルク信仰問答との対話』(G・プラスガー著)から、倫理問題についてプラスガーの言っていることを見てみます。彼は、教会が倫理的な勧めを行うことができるかどうかについて反省する前に、まず問わなければならないことは、そもそも私たちが行動するということをどのように神学的に考えたらよいかを語っています。
宗教改革に際して、マルティン・ルターは、信仰のみにより義と認められることを強調しました。つまり、中世の神学は、教えよりは実践を通して、善き業を行うことが罪を緩和し、神と人間との関係を改善するようになると主張していました。お金を払えば罪を贖ってもらえるとする免罪符販売は、人々を説得する雄弁な説明でありましたが、ルターの反発を招きました。すなわち、罪人が罪を贖う何らかの功績を示すことができなくても、神は罪人に義を宣告するとルターは言ったのです。さらにルターは、律法についてこう言いました。「律法というのは、私が神に受け入れられていないことを認識するために存在するのだ。なぜなら、私は一つとして律法を守っていないからである」と。聖書の中の律法、そして十戒も、私が自分を罪人として理解するために存在していると言うのです。ルターはなぜ、人間には善き業は無いことをそれほどに強調するのだろうか。それは、人間が、律法のほんの少しだけでも守っていると思ったら、すぐにも神の前で自分を誇ろうとする可能性をルターは危惧したからだと、プラスガーは言っています。
ではルターに従えば、善き業は重要ではないのだろうか。ルターにとって人との良き共存はどうでもよいものなのだろうか。決してそんなことはない!とルターは言うのです。ルターはただ、良い木が良い実を結ぶという前提から出発しているのです。つまりキリスト者は善き業を行う。それは、まさに彼が良い木が良い実を結ぶキリスト者だからである。そう繰り返しルターは強調したのです。重要なことはルターにとって、人間は神との関係において自由であるが故に、戒めなどここでは意味はないと言うのです。つまりキリスト者には「キリスト者の自由」があるというのです。そこで、ハイデルベルク信仰問答はどう言っているでしょうか。問64は次のよう語っています。 
問64 この教えは人間を無責任にし、良心をなくさせませんか。
答   そんなことはありません。まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人間が、感謝の実を結ばないことはありえないからです。
ここには「感謝」という概念が導入されています。問64は、まずルターの考えに近い表現を用いています。ルターは「良い木は良い実を結ぶ。それ故、善き業はいわばごく自然にキリスト者のものになっている」と語っています。この考え方はハイデルベルク信仰問答の中に、「実を結ばないことはありえない」という表現で受け入れられています。キリスト者なら、神に喜ばれる生活をしたいと願っています。つまり神への感謝という実を結ぶと言っています。続いて問86はこうです。
問86 私たちは自分の悲惨さから、まったく自分の功績もなく、恵みにより、キリストによって贖われているのに、なぜ、なお善き業をすべきなのでしょうか。
答   キリストは私たちをその血潮によって贖い、さらに聖霊によって彼の似姿へと新たにしてくださるが故に、私たちは善き業をすべきなのです。それは、私たちが、全生涯にわたって、その憐れみに対して神に感謝していることを示し、私たちによって神がほめ称えられるためです。こうして私たちはまた、自分自身の内に信仰があるのを、その実から確信するようになり、神に喜んでいただく生活をもって、私たちの隣人をもキリストに導くのです。
ここには、人間が義とされること、すなわち、キリスト者はイエス・キリストの十字架の死と復活を通して新しい人間になったという感謝が示されています。そして、新約聖書は神の似姿としてのイエス・キリストについて語っています。キリスト者はその似姿へと変えられていくのです。ハイデルベルク信仰問答の教えは、キリスト者の行動を、私は感謝をしているかどうかを基準に理解しているのです。

世の価値観を教会に持ち込むな
今朝、私たちに与えられた新約聖書の御言葉は、ヤコブの手紙2章1節から9節までです。この
ヤコブの手紙2章には、「世の価値観を教会に持ち込む人々」への戒めが語られています。当時、集会で富める者は丁重に扱われ、貧しい人は軽視されるという現実がありました。ヤコブは記します「私の兄弟たち、栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(2章1節)。ヤコブは具体例を引いて諭します「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、私の足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(2章2-4節)とヤコブは語っているのです。ここで一つ注意したいことは、当時の礼拝が、家に集まって、礼拝が献げられていたということです。私たちのように、礼拝施設として教会堂が建てられるのは、ローマ帝国においてキリスト教が公認された4世紀以降であります。それまでは、信徒の家に集まって、礼拝を献げていたのです。いわゆる家の教会であったのです。その集まりに、二人の人が入ってきました。一人は、金の指輪をはめた立派な身なりの人です。そして、もう一人は、汚らしい服装の貧しい人です。自分の家を礼拝の場として提供しているあなたは、この二人を席へと導かなくてはなりません。さて、あなたはどうするでしょうか、という問いです。このような問いかけは、教会堂で礼拝を献げている私たちには、また、席がまだまだ空いている私たちには、難しくはありません。「どうぞ、自由にお座りください」と言えばいいのです。しかし、家の教会では、椅子の数は限られています。さて、あなたはどうするでしょうか、と問うているのです。大磯教会の礼拝中に、ホームレスの方が汚い服装で入って来たら、私たちは眉をひそめるかもしれません。また、お金を無心に、また食べ物を期待して礼拝にやって来る人がいると、場違いだと思うでしょう。ヤコブの指摘は当たっています。私たちは世の価値観をそのまま教会内に持ち込んでいます。「それがキリスト者としてふさわしい行為なのか」とヤコブは問いかけます。おそらく、私たちも、立派な身なりの人に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と案内し、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うのではないかと言うのです。そうであれば、ヤコブは、「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになる」と言うのです。ここで「誤った考え」と訳されている言葉は、「悪い考え」とも訳せます。私たちが人を分け隔てするのは、私たちの悪い考えに基づいて判断を下した結果だというのです。ここで、私たちが注意したいことは、このヤコブの言葉が、主にある兄弟姉妹たち、つまり、主イエス・キリストを信じる者たちに対して語られているということです。しかも、人を分け隔てすることが、教会の集まり、礼拝において起っているということです。

貧しい者こそ神の国を受け継ぐ
ヤコブは語ります「私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい者を辱めた」(2章5-6節)。ここでヤコブは主イエスの山上の説教を想起しています。主イエスは語られました「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる・・・しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」(ルカ福音書6章20-24節)。「貧しい者こそ約束された神の国を受け継ぐ人であると主は言われたではないか」とヤコブは語ります。他方、「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所に引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか」(2章6-7節)。それなのになぜ金持ちを優遇し、貧しい人を辱めるのか、とヤコブは言っているのです。初代教会はまだ教会堂などなく、家庭に集まって礼拝していたという状況はありますが、そこでは、えこひいきがあったことをヤコブは率直に例にあげて教えているのです。これは現代的な問題でもあるのです。
神は、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者をあえてお選びになりました。ここで、忘れてはならないことは、私たちもそのような者であったということです。世の無に等しい私たちを神はお選びになりました。それは、私たちが自分を誇ることなく、主イエス・キリストを誇るためなのです。

えこひいきしてはいけない
ヤコブは1章12節で、次のように語っています。
12試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
ヤコブは、国外に散っているユダヤ人キリスト者に対して、さまざまな試練に会うとき、それをこの上もない喜びと思いなさいと勧めました。なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になることができるからだというのです。神はそのために真理の御言葉によって、私たちを新しく生まれさせました。ですから、人間的には不可能であっても、神の御霊によって忍耐することができると言っているのです。大切なのはその真理の御言葉を聞くだけでなく、それを実行することだというのです。その御言葉の実践の一つとして勧められていることが、人をえこひいきしてはいけないということです。この「えこひいきする」という言葉は、顔を持ち上げるという意味の言葉から来ています。その人の社会的身分や財産、この世的な影響力を不当に重視することによって人を偏って見てしまうことです。聖書はこのような態度を一貫して非難しています。たとえば、レビ記19章15節では次のように記されています。
15あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある
者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。
ここでは単に強い者におもねるだけでなく、弱い者を偏ってかばうことも戒められています。おもねるとは、気に入られるようにふるまうという意味ですが、強い者にペコペコするだけでなく、弱い者に気に入られるようにふるまうこともよくないというのです。たとえ相手が強い者であっても、弱い者であっても、正しく接するようにと教えているのです。それは神が義なる神であられるからです。ですから、その神を信じて歩む者にも公平さが求められているわけです。人を差別してはいけない、偏見を抱いたり、えこひいきしてはいけないということです。
その理由は、私たちは栄光の主イエスを信じる信仰を持っているからです。キリスト者とはそのような者です。神はこんなに罪に汚れた者を赦してくださり、「インマヌエル」すなわち「神は私たちとともにおられる」という約束を実現してくださいました。私たちはこの主イエス・キリストを信じる信仰によって神の栄光を持つ者となったのです。であれば、もはや人の栄光とか、富の栄光といったものは色あせてしまいます。どんな服装であるとか、お金持ちであるとかで人を差別してはいけないのです。
えこひいきしてはいけない、もう一つの理由は、この世の貧しい人たちを神が選んでくださったということです。主イエスの山上の説教の第一番目の祝福は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものである。」(マタイ5章3節)というものでした。主イエスの目は絶えず貧しい人たちに注がれていたのです。それは富んでいる人はどうでもいいということではなく、貧しければ貧しいほど、信仰による豊かさを求めるからです。しかし、富んでいれば神よりも富を求めるようになります。本当に不思議なことですが、神はこの世の知恵ある者ではなく、普通の人、いや無いに等しいような者を選ばれたのです。
アブラハム・リンカーンは、「神はこんなにたくさん普通の人を造られたのだから、普通の人を愛しているに違いない」と言ったようですが、本当にごく普通の人を、いや無に等しい者をあえて選んでくださいました。それは、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者にするためです。

偏見の無い真の王
イエス・キリストは、この世のあらゆる偏見、すなわち身体的偏見、能力的偏見、社会的偏見をもって人を見ることなく、御国の視点から、神の憐れみの視点から人々を見ていた御方です。自分の利害に関係する人にこびたり、へつらったりすることなく、また自分の敵対する者に対しても遠ざけることなく接触されました。イエス・キリストは、この世において人々の偏見にさらされました。「おまえが神であるなら、十字架から降りてみよ。おまえがキリストなら・・。」と。偏見という罪の痛みを味わわれました。主イエス・キリストこそ、御国における真の王であり、神と人とを結ぶ祭司であり、神の心を伝える真の預言者なのです。 祈ります。

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