はじめに
今朝の御言葉であるルカによる福音書 第19章11節から27節には、主イエスがお語りになった一つのたとえ話が記されています。それは小見出しにもあるように、「ムナのたとえ」と呼ばれているものです。この後の28節からは、主イエスのエルサレム入城から、主イエスのご生涯の最後の一週間が始まります。ご生涯の最後にエルサレムに入り、主イエスはそこで捕えられ、十字架につけられて殺されるのです。このたとえ話はその直前に語られたものです。冒頭の11節に、「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」とあります。主イエスがこのたとえを話されたのは、「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたから」だと言っているのです。
「神の国」とは「神の王としてのご支配」という意味です。神のご支配がいよいよ現れ、実現する、それが「神の国が現れる」ということです。人々は、主イエスがエルサレムに入ることによってそれが実現することを期待していたのです。ローマの支配を打ち破り、神の王国であるイスラエルを回復して下さる、そのようにして、神の国が現れ、実現する、そういう救い主の到来を人々は待ち望んでいました。そこに主イエスという人が現れ、神の国の到来を告げ、病人を癒し、悪霊を追い出しつつ、今エルサレムへと向っているのです。このイエスこそ待ち望んだ救い主ではないか、神の王国を実現して下さる方ではないか、そういう期待が、エルサレムを直前にしたエリコの人々の間にも高まっていたのです。神の国がもうすぐにも現れ、実現するのではないか、という期待が人々の間に高まっていたのです。このたとえ話は、そのような期待を抱いているエリコの人々に対して主イエスが語られたのです。
遠い国へ旅立つ
主イエスは次のようなたとえを語られました。12節、「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」と記されています。王の位を受けようとしているある立派な家柄の人、それは、実は人々が王として即位することを期待している主イエスのことを指しているのです。人々は、主イエスがエルサレムですぐに王となることを期待しているわけですが、このたとえ話においては、この立派な家柄の人は王の位を受けるために遠い国へ旅立つのです。王様になるのにどうして遠い国へ行かなければならないのか、不思議に思うかもしれませんが、これは当時の人々にとっては身近な話でした。つまり当時の地中海沿岸の世界は全体がローマ帝国の支配下にあり、一応、独立を認められた王国があったとしても、その王はローマ皇帝によって王位を認めてもらわなければ王となることは出来なかったのです。だから、ある国の王の位を得るために遠い国であるローマに行く、ということは、しばしばあることだったのです。そういう王を題材としたたとえ話を語ることによって、主イエスが人々に何かを示そうとされたのです。まず、期待された王となるには先ず、遠い国へ旅立たなければならないのです。遠い国に旅立った者は、しばらくこの地からはいなくなります。このたとえを通して、主イエスは、私はこれからエルサレムに入城するが、そこから遠い国へ旅立ち、あなたがたの間からいなくなる、と主イエスは言っておられるのです。エルサレムから旅立っていなくなる、それは主イエスがエルサレムにおける十字架の死と復活を経て天に昇り、父なる神のみもとに帰られるということを意味しているのです。それによって、主イエスはエルサレムから、いやこの地上からいなくなるのです。「遠い国へ旅立つ」とはそのことを意味しているのです。しかし、主イエスがいなくなるのは、王の位を受けて再び帰って来るためであり、必ず戻って来るのです。それは、世の終わりに主イエスがもう一度来られる、いわゆる主の再臨を意味しています。しかしその再臨による世の終わりまでにはかなりの時間がかかります。だから主イエスのご支配、神の国は、人々が期待しているように「すぐに」は現れない、世の終わりまではそれは未完成であり、それまでは主イエスがいない不在の時が続く、そのことをも、このたとえ話は語っているのです。
主イエスの不在の時
13節にこうあります。「そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」とあります。王の位を受けるために旅立とうとしている主人が、十人の僕たちに、自分が旅に出て不在である間になすべきことを命じたのです。その命令を受けた僕たちがどうしたか、がこのたとえ話の中心的内容です。主人が王となって帰って来るのを待っている僕たち、それが、主イエス・キリストを信じる信仰者の姿です。私たちは今まさに、主イエスが十字架と復活とによって天の父のもとに帰られてから、その主イエスが世の終わりにもう一度来られる再臨までの間の、主イエスの不在の時を生きています。主人が旅に出て不在の間、主人の言い付けを守って働いている僕、それがこの世を生きるキリスト者の姿なのです。この「主人の不在の間」ということが、私たちの信仰における重要なポイントです。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、この世界と私たちに対する神の救いの恵みとそのご支配は既に確立しています。そして天に昇り、父なる神のみもとに帰られた主イエスも、今、決してこの世に不在なわけではありません。聖霊のお働きによって、世の終わりまでいつも私たちと共にいて下さるのです。しかし父なる神のご支配も、主イエスが共にいて下さることも、今この世においては、誰の目にもはっきりと分かるような仕方で確立してはいません。この世の目に見える現実においては、神に敵対する様々な罪の力が働いているし、今まさに世界各地で戦いが始まっています。そのような状況の中で、今は目に見えない主イエスがもう一度来て下さり、そのご支配を現わして下さり、それによってこの世が終わり、神の国が完成することを信じて、主イエスの僕として生きていく、それがこの世を生きる私たちキリスト者の信仰生活なのです。
似たようなたとえ話
福音書には似た話があります。今朝のムナのたとえは、マタイによる福音書24章14節以下ではタラントンのたとえとして主イエスは語っておられます。ある人が僕に財産を預けて旅に出かけ、帰って来て僕たちにその使い道を尋ねたことは同じです。しかし、二つのたとえには違いがあります。第一に預け方と金額が違います。1タラントンは60ムナですから、1ムナを100万円としても1タラントンは6千万円です。マタイによる福音書のタラントンのたとえでは、高額な金額を、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンと、それぞれの力に応じて預け、どのように生かしたかを問われているのです。大事なのは実りの多少ではなくて、神から与えられているタレント、つまり才能を生かして用いたかどうかなのです。それに対して、今朝のムナのたとえでは、タラントンに比べればかなりの少額ですが、10人に1ムナ(100万円)ずつ渡しているのです。皆同じものを与えられているのです。ですからこのムナは、能力、才能を意味してはいません。ここでは、ムナは信仰にたとえられています。私たちは能力や才能に関係なく、等しく信仰を与えられたのです。問題は主イエスが再び来られた時にどのように報告するかということです。そして3人目の僕が注目されています。彼は言いました。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」と。主人が恐ろしかったので、預けられた1ムナを生かさず布に包んでしまっていました。主人は彼から取り上げ、多く持っている者に更に与えられたと言うのです。このムナのたとえでは、同じ1ムナから、ある者は10ムナを、ある者は5ムナを儲けました。この場合は元手が同じですから、儲けの違いは用いた者の力の違いということになります。そして主人は、10ムナ儲けた者には10の町の、5ムナ儲けた者には5つの町の支配権を与えています。同じ1ムナを用いてあげた成果の違いがこの酬いの違いにもなっているのです。つまりムナのたとえにおいては、私たち信仰者に神から皆同じものが与えられているけれども、人によってそれをどう生かし、どれだけの実りを生むかが違っている、ということが見つめられているのです。
信仰の価値に疑いを抱いた三人目の僕
主イエスの不在の時であるこの世において、この1ムナをどう用いていくか、が私たちに問われています。この1ムナの、つまり信仰の価値を認めて、それを真剣に受け止め、そこに示されている神の約束を信じて生きるなら、そこには豊かな実りが与えられます。それが10ムナを儲けた人の姿が示していることです。しかし与えられている信仰の価値に疑いを抱き、神による救いの約束を中途半端にしか信じることができず、自分の力に依り頼みながら生きるならば、実りも半分にしかなりません。それが5ムナ儲けた人の姿であると言えるでしょう。つまりこの二人の違いは、力量や努力の差と言うよりも、与えられている信仰の価値をどう見ているかの違いなのです。
この話には、三人目の僕が登場します。彼は、主人から預けられた1ムナを布に包んでしまっておいたのです。その僕は主人から厳しく叱られ、持っている1ムナも取り上げられてしまいます。あのタラントンのたとえにも、同じ三人目の僕が出てきます。1タラントンを預けられたその僕は、やはりそれを用いることなく、土を掘って隠しておいたのです。この三人目の僕の姿は何を示しているのでしょうか。タラントンのたとえにおいては、神から与えられているタレント、能力、才能を生かすことなく、用いなかったということになります。しかしこのムナのたとえにおいては、それは主イエスを信じる信仰です。この三人目の僕はその1ムナを全く用いなかった、つまり信じなかったのです。主イエスを信じる信仰に価値を見出さず、主イエスがまことの王としてやがてもう一度来られるという約束を信じなかったのです。それを信じないというのは、実はそれを望んでいない、ということです。それは彼が、主人に対して良い思いを持っていないからです。この僕は主人が厳しい、恐ろしい人だと思っているのです。だからそんな人に王になってもらいたくないのです。
主イエスの不在の時を信仰に生きる
今朝の聖書箇所の直前に徴税人ザアカイのことが記されています。徴税人ザアカイは、なんとかして主イエスを見ようとしていちじく桑の木に登りました。そのザアカイの下で主イエスは立ち止まり、彼の名を呼び、「急いで降りて来なさい。今日私はあなたの家に泊まる」と宣言して下さったのです。主イエスのその語りかけに従って急いで降りて来て、喜んで主イエスを迎えたことによって、救いがザアカイの家にもたらされたのです。ザーカイは自分に与えられた1ムナをかけがえのない大切な価値あるものとしてそれを生かしたのです。彼の信仰は豊かな救いの実りを生んだのです。もしもザーカイが、主イエスとの出会いを求めて叫ばず、主イエスを見ようともせず、また呼びかけられても自分が登っている木から降りて来ようとしなかったならば、ザーカイに救いはなかったのです。1ムナを布に包んでしまっておいた、とはそういうことなのです。
私たちは今、主イエスの不在の時を生きていると言いました。この世の現実においては目に見える形においては神の国は実現していません。むしろウクライナ、パレスチナの悲惨な戦争、憎しみの連鎖、そして気候変動による災害こそが目に見える現実です。しかし私たちはその中で、主イエスの十字架の死と復活によって私たちの罪の赦しと新しい命の約束が既に与えられています。そして神はその約束を主イエスの再臨において必ず救いの完成をもたらして下さるのです。私たちに一人一人に預けられている1ムナの信仰を大切にして、「主の再び来りたまふを待ち望」みつつ信仰生活を送りたいと願うのです。
小心者のギデオンを主は用いられた
今朝の旧約聖書の御言葉は、士師記7章1節から8節(旧約392頁)までです。ここに登場するギデオンという若者は、とても臆病で、小心な人でありました。小心者の代表とも言えるギデオンが、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れたのです。ごくごく平凡な人が、しかも、とりわけ小心者のギデオンが神を信じて、歴史を動かすものとして用いられているのです。主なる神は、その夜、ギデオンに現われて言いました。「起きて敵陣に下って行け。わたしは彼らをあなたの手に渡す。」と。そして、その戦い方というのはこうです。ギデオンは精鋭300人を三つに分けて、それぞれ全員に角笛と空の壺とを持たせて、その壺の中に松明を入れさせました。そして一斉に角笛を吹きならし、手に持っていた壺を割って左手にたいまつを堅く握りしめ、右手には吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主のために、ギデオンのために剣を」と叫んだのです。この奇襲によって、敵はあわてて逃げだしました。また、主は陣営の全体にわたって敵の同士打ちが起こるようにしました。なんという奇妙な戦いでしょうか。イスラエルの武器は、角笛と松明だけです。武器らしきものはなにもなくて、戦いに勝利したのです。神はわれらとともにいるのです。戦う人数が問題なのではありません。数に対しては数で当たるというのが常識ですが、神の考えは異なるのです。私たちは働き人がひとりでも多くいることのほうがより有利だと考えますが、神の考えは異なります。人間的に見て、「これなら大丈夫だ」というものも、主の戦いの場合には実際には役に立たないものなのです。神の方法は人間的にみるならば、無謀としか思えません。ギデオンの話から教えられる教訓とは何でしょうか。数が多ければ。優れたことだとする考え方に対する問いかけがあると思います。少数であることの価値。自分に与えられた使命をやり遂げようとする意志を持ちつつ、神の時が来ることを待ち構えている生き方をしているだろうか。それぞれが神の問いかけを聞きつつ、それに従いたいと願うのです。 祈ります。