10/29「キリストによる創造と和解」

はじめに
今年度の大磯教会のテーマとしては、週報の裏面にある通り「何を信じるか~信仰告白を学ぶ」ということです。今朝の新約聖書の御言葉、コロサイの信徒への手紙1章15節から20節のキリストの賛歌とよばれる箇所から、世界の創造と第二の創造と言われるキリストの十字架による救いについて学びたいと思います。二千年前のキリスト教会において、すでにキリストを称えるために「キリスト賛歌」のような賛美の歌が教会で用いられていたというのは驚きです。そういう当時のキリスト者に馴染みのある讃美の歌の中から、パウロは補足的な加筆を加え、コロサイ教会の信徒への手紙の中にそれを用いているのです。今朝はそのキリスト賛美の御言葉から恵みに与りたいと思います。

創造と再創造
コロサイ教会というのは、今のトルコの位置になりますが、地中海に面したエフェソの町から160キロほど内陸部に入った都市で、毛織物工業の中心地で交易上重要な街道に面していました。この教会はパウロが設立した教会ではなく、1章7節に書かれているパウロと同じ福音宣教者エパフラスが自分の故郷に設立した教会と言われています。この教会の信徒にはユダヤ人もいたのですが多くは異邦人であったといわれます。パウロはなぜこのキリスト賛美の歌を引用したのかというと、前半の部分でこの世の造り主で支配者であるキリストについてキリストがナンバーワンであり、すべての源であること、また後半で贖い主なるキリストについて、やはりナンバーワンであり、源であることが、はっきり歌われているからなのです。
聖書全体に一貫して流れていることは、神の創造が、神の働きの完了ではなくて、次に人類の救いという再創造が準備されているという流れがあり、これが歴史における神の意思によって導かれるということです。創世記に記されている最初の人アダムは、「神の創造」を象徴している人であり、第二のアダムと言われるキリストは、人間の罪からの救いである「再創造」を象徴しているのです。最初の人アダムは土から造られ、地に属する者であり、第二の人は霊によって造られ天に属する者です。そして神は創造を終えられ、御自身の働きをパタッと止められたのではなく、歴史の中で創造は再創造に向かうようになっていて、そして最後に神の国が完成されるのです。ですから神は、万物を創造してから悠久の時を経て、今も休まず再創造のために万物を統治し、保持し、働いておられ、最終的な安息へと向かっているのです。

創造の源泉であるキリスト
ところで、パウロがこの手紙を書いたのは、当時、コロサイの教会に広がりをみせていた異端の教えに気を付けるように警告するためでした。この異端は様々な宗教の混合物でした。コロサイ教会を訪問する偽りの教師たちによって、ギリシャ哲学を通して聖書が解釈し、キリスト教とチャンポンになって、聖書に書かれている内容を超えて、いろいろ新しい事柄を付け加えるというところに問題がありました。たとえば、神が悪を創造されるはずがないので、悪に満ちているこの世は、神の創造ではなく、天使によって創造されたとか、ある霊的存在によって創造されたと考えたりしました。確かに戦争やテロや大量殺人が起きている世界は、これは神の創造と考えたくない気持ちはあります。また理不尽なことの多い社会は神の創造と考えたくない人間の弱さはあります。しかしこれは所謂、霊肉二元論と言われるグノーシスという思想です。異端の考える第二のことは、イエス・キリストを神の独り子ではなく、神と人間の間にいる数多くの媒介者である天使の一人であると考えたりしたのです。これは、神・キリスト・聖霊が一体であるとする三位一体の教理を否定するわけです。仲保者であるキリストが神ではなく、神の道具に過ぎなかったというふうに主イエス・キリストを格下げしてしまいました。このような教えに対して、パウロはどのように反論し答えたのでしょうか。賛美の前半部分である1章15節から17節は次のように言っています。
15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
つまり、イエス・キリストは全てのものが造られる前に「造られた」被造物ではなく、父なる神から「生まれた」お方であるということです。15節で「すべてのものが造られる前に生まれた方です」と、「造られた」という言葉と「生まれた」という言葉の使い分けに注意を払っているわけです。少し神学的でややこしい話しになりますが、ここで歌われている「すべてのものが造られる前に生まれた方」とは、「長子」(長男)とか、「初子」と訳されますが、「最初の者」という意味の言葉です。また栄誉としてのナンバーワンとか、あるいは、すべての源と説明されています。つまり御子イエス・キリストは、創造において「長子」となられたと賛美の歌は歌っているのです。そして16節は「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。」とあるように、創造主である御子が、何者にもまさって優れていることが強調されているのです。そして16節から17節にかけて「御子において、御子によって、御子のために」という言葉が続いていますが、ここで言われているのは、天地万物の創造は、父なる神だけの御業ではないということです。父なる神の考えられた青写真に従って、御子の中で、御子を通して、御子のために、そして聖霊と共に万物が創造されたということです。神がなされた世界の創造とは、父なる神だけの働きではなく、三位一体なる神の働きであるということですが、特に言葉として現れる主イエスが創造に関与していることに強調点が置かれています。このことは、今朝の旧約聖書の御言葉である創世記1章に書かれていることと符合しています。

神は天地を創造された
創世記1章1節から3節をもう一度お読みします。
1初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
ここでは、三位一体の神の創造の御業が、はっきりと書かれていて、パウロの主張と符合するわけです。創造の業は「言」をもってなされたというのが聖書のメッセージです。主イエスが受肉されてこの世に来られる前にも、主イエスは御言葉として存在しておられ、神の創造の御業を行われたのです。ヨハネによる福音書の冒頭の有名な言葉「初めに言があった。言葉は神と共にあった。言は神であった。」と語っている言(ロゴス)はイエス・キリストのことです。また、コロサイの信徒への手紙の1章17節を見ますと、神は、御子にあって、万物を今も支えていると語っていますが、すべての均衡が絶妙なバランスで崩れずに保たれているのは、御子が万物を支え、保持してくださっているからなのです。
人間の堕落と贖いの御業
このような創造の御業が起こされ、そして、その後も神の摂理によって万物は統治され、保持され、支えられているわけですが、このすべての神の働きに主イエスは、長子として参与しておられるということを見てきました。ところが、アダムが罪を犯したために人類は堕落し、アダムによって管理されていた被造物も、神の許しの中ではありますが、虚無に服するようにされてしまいました。従って万物の造り主がこの世に来られた時、何と、この世が造り主に対して敵対するということが起こったのです。万物は主イエスのために創造されたのに、万物は主イエスに仕えるため、礼拝を捧げるために創造されたのに、創造主であり、産みの親である主イエスのことを、世は認めることも、受け入れることもしませんでした。世は堕落してしまい、罪と死の力が支配するところとなってしまい、創造主によって造られた被造物が創造主と断絶されてしまったことを示しています。このような中で主イエスが十字架につかれ、復活され、贖いの御業を成し遂げてくださいました。

滅亡と捕囚のなかでの創世記の成立
ところで、創世記1章の天地創造の物語は、いつ、どのような時代状況の中で生み出されたのか。それが書かれたのは紀元前6世紀頃と考えられています。ダビデ、ソロモンの時代は過ぎ去り、北王国イスラエルはアッシリアにより滅ぼされ、残った南王国ユダも、紀元前587年にバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれてしまう、いわゆるバビロン捕囚が起こるのです。創世記1章は、この現実の中で書かれました。2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と描かれているのは、国の滅亡とバビロン捕囚という現実なのです。つまり、創世記の記者が描いているのは、今の自分たちの、目の前の現実だったのです。これは他人事でしょうか。私たちが今見ている現実は、こんな恐ろしい身の毛のよだつところではない、と言えるでしょうか。確かに今の日本にとっては豊で便利な時代を生きています。平和と繁栄を謳歌しているように見えます。しかしその陰で、いろいろなものが崩れ去りつつあります。地球温暖化は世界の環境を破壊しつつあり、ウイルスはパンデミックを起こし、ウクライナでもパレスティナでも血が流され続けています。多くの人が傷つき倒れ、憎しみが憎しみを生み、どんどん増幅されているのです。それが私たちの目の前にある現実ではないでしょうか。聖書が語っているのはこの極めて切実な、せっぱつまった問を私たちに投げかけているのです。そしてその問に対して創世記1章の著者に与えられた答が、「初めに、神は天地を創造された」という言葉だったのです。混乱と空虚に捕らえられ、真っ暗な深淵に飲み込まれていくような世界だけれども、しかしそれは神が創造されたもの、神のご意思によって創られたものなのだ。私たちが生きているのは神のみ心とみ力によるのだ、それが1節の意味です。それゆえに、闇に覆われた深淵、暴風吹きすさぶ嵐の中に、神の「光あれ」という御言葉が響き渡るのです。

再創造の源泉であるキリスト
コロサイの信徒への手紙1章15~20節の賛美の後半部分は18節からです。18節は「御子はその体である教会の頭です」という言から始まっています。御子はアダムの時のように、全人類の頭ではなく教会の頭となられたとあります。教会の頭なるキリストというのはここからくるのです。御自身の花嫁である教会を贖われたのです。18節後半を見ると、「御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた者」とありますが、主イエスは、最初に死者の中から生まれた方、つまり復活された方でありますけれども、ここも創造の時と同じように、時間的に一番早く復活したというよりも、栄誉としての、ナンバーワンとか、根源とか源となられたという意味です。主イエスは、罪と死の力に勝利されて、御自身に属する者たちを復活させる、生かす霊となられました。人類の肉体の祖先はアダムですが、信仰によって新しく生まれ変わった者たちにとっては、祖先はアダムではなく、第二のアダムであるイエス・キリストに入れ替えられました。なぜなら、旧い人はキリストと共に十字架に死んで、霊によって新しく生かされるようになったからです。キリスト者は、地に属する者ではなく、天に属する者として、生まれ変わったのです。主イエスの贖いの恵みとは、旧い人に死んで、新しい人に再創造することです。

贖いの代価が完全に支払われた
20節には、御子の十字架の贖いによって、その尊い血が生け贄として流されたことによって、贖いの代価が完全に支払われ、敵対関係から神との和解に入れられて、平和がもたらされたと書かれています。罪に対する神の怒りを完全になだめるような、罪の贖いの代価という、途方もない大きな代償を支払うようにできたのは、生け贄として献げられた命がまさに神の子の命だったからです。その流された血潮は、それほどの絶大な力を持っていたからです。この点の解釈をめぐって、コロサイ教会を惑わした偽りの教えと、パウロの説く福音とでは、根本的な違いがありました。ギリシア哲学の影響を受けた偽りの教えでは、キリストを、神と人の間の媒介者として認めるものの、それは神の使い捨ての道具としてしか認めず、キリストの十字架において、罪の贖いがなされ、再創造が起こされたという事はどうしても受け入れられませんでした。このことは、今に至ってもユダヤ教もイスラム教も同じくイエス・キリストを救い主として受け入れていないことは残念なことであります。それに対してパウロは、神の子、受難の僕であるメシアの死を通して、贖いの代価が完全に支払われたと主張したのです。神の子が低められ、神の子が試みにあわれ、打ち砕かれ、辱められ、嘲られたのは、キリスト者が神と和解され、平和が与えられるためでありました。罪が赦され、癒されるためであり、キリスト者を神の子として受け入れ、再創造するためであったと主張したのです。 私たちの愛する主イエス・キリストは、万物の創造において長子として参与され、再創造においても長子として参与されました。そのことが意味していることは、御子キリストが今も変わらずに万物を統治し、保持しながら、神の安息に向かって贖われた教会である私たちを導いてくださっているということです。

ハイデルベルク信仰問答26問
最後に、ハイデルベルク信仰問答の問26は、造り主なる神と創造について次のように語っています。
問26 「私は父であり、全能者にして、天と地との造り主なる神を信じます」という時、あなたは何を信じているのですか。
答   私は、私たちの主イエス・キリストの永遠の父が、その御子の故に、私の神であり、私の父であることを信じています。神は天と地を、その中にあるすべてのものと共に無から創造し、今もなおその永遠のご計画と摂理によってこれを保持し、統治しておられます。この神に私は依り頼み、神が体と魂に必要なものすべてを私のために配慮してくださっており、この世にあって私に課されたあらゆる重荷をも最善のものに変えてくださることを疑いません。
この信仰問答の素晴らしいことは、神が天と地を無から創造されたという答の後に、すぐに、こう言っていることです。
「神は今日もなお統治しておられる。神は今日、私のことをも配慮してくださっている。そして、人生において良くないことを、最も良いことへと変えてくださるだろう。神は世界全体を御手の中に保持しておられる。
これはまさに創造者なる神に対する信仰告白なのです。私たちの生活も、世界の有様も今、混沌の中にあります。しかし、神は私たちのことを配慮してくださることを信じる者でありたいのです。 祈ります。

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