11/12説教「神にかたどって造られた人」

天地創造のクライマックス
今朝は、まず創世記1章24節から28節の御言葉から学びたいと思います。先々週の10月29日の礼拝では、創世記1章1節から4節の箇所を取り上げましたが、創世記1章の天地創造の物語は、いつ、どのような時代状況の中で生み出されたのかについて語りました。天地創造の物語が書かれたのは、イスラエルが南北に分れ、北王国イスラエルはアッシリアにより滅ぼされ、残った南王国ユダも、バビロニアによって滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれてしまうという、いわゆるバビロン捕囚の現実の中で書かれたと言いました。それは紀元前6世紀頃と言われます。つまり、創世記の著者が描いている天地創造の物語は、国の滅亡とバビロンに連れて行かれ捕囚の生活という極めて厳しい現実の中で書かれたのです。その最も切実な状況の中で創世記の著者が出した答が、「初めに、神は天地を創造された」という言葉だったのです。混乱と空虚に捕らえられ、真っ暗な深淵に飲み込まれていくような世界であるけれども、しかし、それは神が創造されたもの、神のご意思によって創られたものなのだ。私たちが生きているのは神の御心と御力によるのだ、それが1節の「初めに、神は天地を創造された。」という言葉の意味です。それゆえに、闇に覆われた深淵、暴風吹きすさぶ嵐の中に、神の「光あれ」という御言葉が響き渡るのです。
天地創造は、神が、混沌であるこの世界に秩序を与えて整え、人間が住むことの出来る世界を造り上げて下さったこととして語られています。つまりこの世界は、人間のために造られたのです。生き物の創造も、人間から遠い所から始めて、次第に人間に近い所へと、という順序でなされています。つまり天地創造は、人間の創造へと向かっている、人間の創造がその頂点であり、その前に語られていることは全て、人間のためのお膳立てだったのです。天地創造の物語は、この世界の成り立ちやしくみを語っているのではありません。そうではなくて、神の、私たち人間への恵みと愛を語っているのです。そのクライマックスが、本日の箇所です。

「神にかたどり、似せて」
神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」また「神は御自分にかたどって人を創造された。」と語っています。神にかたどり、神に似せて造られた、そのように言われているのは人間だけです。そこに、人間の特別性が最もはっきりと示されてます。「かたどり、似せて」とはどういうことなのでしょうか。神が人間を「あなた」と呼び得る者として造って下さったということです。「あなたと私」という交わりが生まれ得るのは、両者の間にある共通性、類似点があるからです。全く異質な、全然類似点共通点のない者の間には、そのような関係、交わりは生まれようがありません。語りかけ、応答することができる、つまり人格的な交わりを持つことができる、ということこそ、神がご自身にかたどり、似せて私たち人間を造って下さった、神の似姿であると言うことができるのです。それは、人間というものの素晴らしさを語っており、人間をそのように素晴らしいものとして造って下さった神の恵みを語っています。人間は、神ではありません。あくまでも神に造られたもの、被造物です。けれども、他のどの被造物にもない、すばらしいものを与えられているのです。しかし、それは同時に、人間だけが、神を信じないで、神に背き、交わりを断ち切って生きることもできる、ということでもあるのです。いずれにしても、この点において人間は他の動物たちとは、はっきりと区別された存在であると聖書は語っているのです。このことを無視して、人間も動物の、ほ乳類の一つの種に過ぎない、とすることは、人間の現実に即した正しい見方とは言えないのです。私たちは人間である限り、「あなた」と呼び掛けておられる神の前に立つことを求められるのです。肯定するにせよ否定するにせよ、神との関係をどうするのかを問われるのです。

被造物を支配する者
そしてこの人間の特別な地位、栄光には目的があります。それは、26節の、「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」ということです。人間は、神によって造られた被造物を支配する者として立てられているのです。「神の形、似姿」はそういう意味をも持っています。人間は、神の代理として、この世界を支配し、治める者なのです。
しかし聖書のこの考え方は今日大変不評を買っています。人間が他の被造物、自然を支配するという聖書の、キリスト教の考え方が、自然破壊、環境破壊を生んでいるのだと言う人がいます。しかし、それは間違った考えです。神が人間を、被造物を支配する者としてお造りになった、それは、人間が、自分の好き勝手に被造物を破壊することができる専制君主の地位を与えられたということではありません。天地の全てをお造りになったのはあくまでも神であり、人間は、その神の下で、神との「あなたと私」という交わりの中で被造物を支配する者として造られたのです。ですから今本当に必要なことは、「神の形、似姿」として造られている本来の人間の姿に立ち戻ることです。そして神との生きた交わりの中でこの世界を、自然を、よく管理し、守っていくことこそが必要なのです。自然破壊、環境破壊は、人間が天地創造の神を忘れ、この世界の本当の主人、支配者を忘れて自分が支配者になろうとしたこと、全てのものを自分の欲望のために食い尽くしていく貪欲の虜になったことの結果です。つまりそれは人間が「神の形、似姿」を失ってしまった結果なのです。人間がそのように神の形、似姿を回復していくことによって、被造物は、自然は、神の良いご支配、管理の下に置かれ、祝福を受けることができるのです。

降りて来て下さる神
人間は神にかたどり、神に似せて造られているという教えは、神のもとで、神との交わりに生きる時にこそ、人間は本当に尊厳をもって生きることができるのです。けれどもこのことには、もう一つ別の側面があります。それは、神の謙遜ということです。神は人間をご自身にかたどって、ご自身と似た者としてお造りになった、それは、神がご自身を、私たち人間と似ている所まで、あるいは人間によって「あなた」と呼ばれるような所まで降りて来て下さった、ということでもあるのです。人間の素晴らしさとか尊厳とか言いましたが、私たちはもう一方で、人間の愚かさ、罪深さ、汚れ、弱さを、自分自身の、またこの世界の現実においていつも思い知らされているのです。私たち人間はそんなに素晴らしい、立派なものではありません。すぐに互いに傷つけ合い、殺し合っているのです。人を愛することよりも憎むことが多く、人の幸せを喜ぶよりも妬むことが多いものです。そのような私たち人間が、神にかたどって、神に似せて造られているなんて、そんな思い上がったことをどうして言うことができるか、と思わずにはおれないのです。

報復したい誘惑に打ち勝つ
森田美千代というキリスト教養育の研究が専門の先生が書かれた、最近出版された『お互いの心が内に燃えたではないか』(2022年9月出版・教文館)という本があります。その中に、森田氏の、あるミッションスクールでの学内礼拝の奨励原稿が載っていました。「報復したい誘惑に打ち勝つことを学ぶ」という文章です。印象に残ったので少し紹介します。
ソ連の亡命作家ソルジェニーツイン氏の次の文章を取り上げています。
ソ連の亡命作家ソルジェニーツイン氏が、その作品の中で、ひとりの教師が職を去るときに、この教師に次のように語らせています。「ぼくが教えていることにうそのところがあるということがわかりました。子どもたちに、定理だ、製図だ、宇宙だって、やたらにつめこんだが、子どもたちが将来うちあたる冷酷な心と打算に抵抗する術を教えなかったのです」。これはまた、迫害と試練の中で、ながく数学の教師として生きたソルジェニーツイン氏自身の告白でもあるだろう。人はなまじっか知識があるばかりに、冷酷な心に直面すれば、より冷酷に打算的になるよう誘惑される。その誘惑に打ち勝つ術を教えることこそ、真の教育・自己形成ではあるまいか、と。

 森田氏は言っています。最後の「人はなまじっか知識があるばかりに、冷酷な心に直面すれ
ば、より冷酷に打算的になるよう誘惑される。その誘惑に打ち勝つ術を教えることこそ、真の教
育・自己形成ではあるまいか、」という文章は、大変なことを言っている文章であることに気づ
きました。と言っています。その理由はこうです。
たとえば、ここに冷酷な人がいるとします。そして、ここにその人からいじめを受けている人
がいるとします。「さあ皆さん、この二人のうちでどちらが聖書の教えに遠いでしょうか。答は
前者、つまり冷酷な人ですね」という図式が、私の中にあまりに定着しすぎていたように思えま
す。ところが、今お読みいたしました文章は、後者の人、つまりいじめを受けている人に焦点を
あてている文章であると思います。前者(冷酷な人)に焦点をあてることは、今までに多く
の人によってなされてきたことでありますし、そして前者(冷酷な人)に焦点をあてることは、
ある意味で簡単なことであります。しかし、後者(いじめを受けている人)に焦点をあてるとい
うことは、聖書をわがこととして読んでいなければ出て来ない発想だろうと思います。
悲しいことに、二人以上から構成される人間集団では、どんな集団でも、そこには冷酷な人、
冷淡な人、いやがらせをする人、悪口を言う人、いじわるをする人、利用する人などが、必ずい
ます。その時に、私たちはどうするでしょうか。みなさんも私も、いろんな知識をもっていま
す。そのいろんな知識があるばっかりに、相手からいやがらせを受けたり、冷たくされたり、悪
口を言われたり、利用されたりすると、相手以上に私自身が相手に、いやがらせをしたり、冷た
くしたり、悪口を言ったり、利用しかねません。そういう誘惑にかられます。私たち人間は、相
手の冷酷な心に直面すれば、相手の冷酷な心を凌駕する冷酷な心で仕返しをしかねない、やっか
いな生き物であります。その誘惑に打ち勝つ術を、ほんとうにわがものにしていかなければ、私
たちの人生は虚しいものであり、生きていることにはならないと思います。その誘惑に打ち勝つ
ことを学ぼうとする場が、毎日の礼拝ではないでしょうか。と言っています。様々ないじめや個
人の場合の状況が思い浮かびますが、これは国同士の問題や思想、宗教の違う勢力の争いも思い
浮かびます。この罪を私たちの誰もが避けることができないのです。

降りて来てくださる神
バビロンで捕囚生活を送り苦しみ悲しみに打ちひしがれている、希望を失い絶望に陥っていた紀元前6世紀のユダヤの民がと同じように、罪にまみれた惨めな私たちのことを、神は、ご自分に似ている、共通点がある、あなたがたは神の形。似姿なのだと言って下さるのです。神がそこまで、私たちのところに降りてきて下さっている、近くに、共にいて下さっているという慰めの宣言として語られているのです。それゆえにこのことは、神の独り子イエス・キリストが、真の神でありながら、私たちと同じ人間としてこの世に来て下さり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことと相通じるものです。神は私たち人間と関わりを持ち、「あなたと私」という交わりに入ってくださる、そのようにご自身を低くし、ついには独り子の命までも与えて下さる、その恵みによってなされたことなのです。神にかたどって、神に似せて人間が創造されたという教えには、そのような神の大いなる恵みが示されているのです。

古い生き方を捨てる
今朝、私たちに与えられている新約聖書の御言葉は、エフェソの信徒への手紙4章17節から24節までです。22節から24節までを読みます。
22だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨
て、23心の底から新たにされて、24神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基
づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

ここでも、人が神のかたちに似せて造られたと告げています。キリストのもたらす救いは、罪によって善い業ができなくなっている神のかたちの歪んだ人間を、新たに神にかたどって造り直し、新しい人として、神の命じる善い業を行なえるようにということです。キリストを信じ、その真理に従って生きていく信仰を与えられるということは、客観的に神がキリストを通して与えていてくださる恵みに、わたしたちが信仰をもって応答し、罪に汚れた古い人を脱ぎ捨てるという意思を表し、行動を起こしていくということに繋がらねばならないのです。そして、私たちが
主イエスから真実を学ぶということは、地上を歩まれた主イエスが人としての真実をその肉体をもって表されたことを学ぶということです。そして私たちはその学んでいる現実の姿を、神にかたどられた新しき人キリストを着るという意志と行動をもって表すということです。私たちは、キリストを着る者として古い自己を脱ぎ捨て、キリストを着る者に相応しい業を行なって歩む者となります。キリストは私たちをそういう素晴らしい存在へと変えてくださっているのです。私たちは、この恵みに生かされている喜びを、表わして行きたいと思うのです。祈ります。

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