11/19説教「万物を造られた神」

はじめに
今朝は、使徒言行録からパウロが異邦人の町アテネで語った伝道説教の箇所から学びます。使徒言行録は使徒たちが聖霊を受けて伝道した様子が鮮やかに描かれています。特にパウロを中心とする地中海を渡っての異邦人伝道の紀行文のようでもあります。従って実際にその場に立ってみると納得いくという事もあります。私はイスラエルやパレスティナへは行ったことがないのですが、ちょうど今朝の御言葉に出てくるアテネのパルテノン神殿やアレオパゴスの丘を実際に見たので情景が分かる気がするのです。パルテノン神殿のある高台からアレオパゴスの丘を見て、おおよそ二千年前に、使徒パウロがアテネの哲学者たちに演説したことを想い描いて感激した思い出があります。早速、御言葉の恵みに与りましょう。

知られない神に
ギリシャ北部の町、ベレアからアテネにやって来たパウロは、そこに偶像がいっぱいあるのを見て憤り、会堂ではユダヤ人をはじめ神を敬う人たちと、また広場では毎日そこに居合わせた人たちと議論して、イエスが救い主であることを宣べ伝えました。すると、耳新しいことを聞いたり、話したりして過ごしていたアテネの人たちは、その新しい教えがどんなものか知りたくて、パウロをアレオパゴスという評議場に連れて行き、そこで彼の教えを聞こうとしました。これがいわゆるパウロのアレオパゴスにおける哲学者たちへの演説です。22節、23節をご覧ください。
22パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。23道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。」
この「アレオパゴス」とは、アテネで、古来から裁判の行われてきた場所で、アテネの主要な行政機関を含む評議所でした。今の日本で言えば国会みたいなところです。そこでパウロは演説を始めたのです。パウロはアテネの町が偶像でいっぱいなのを見て激しく憤ったのですが、そのパウロが人々に語る前では、その憤りをあらわにしてけんか腰になったり、頭から彼らを偶像礼拝者だと切り捨てるようなことはせず、落ち着いた口調で、敬意を払いながら、穏やかに語り出すのです。「アテネの皆さん。皆さんは何て宗教心にあつい方々なのでしょう・・・」と。このような語り方は、通常、パウロがユダヤ人たちに語る時の語り方とは明らかに違います。同胞のユダヤ人に語る時には、まず旧約聖書から説き起こし、そこで預言されている救い主メシヤこそ、あなたがたが十字架につけて殺したあのナザレ人イエス・キリストです。ですから、その罪を悔い改めて、イエスを救い主として信じ受け入れなさい、という論法ですが、今回は違います。なぜなら、そこで聞いている人たちはギリシャの人々、すなわち、異邦人だからです。彼らは旧約聖書についての予備知識を持っていませんでしたから、頭から旧約聖書のメシヤがどうのこうの言ってもわからないのです。そこでパウロが注目したのは、彼らのあつい宗教心でした。あついと言っても別に燃えてるわけではありませんが。その熱心な宗教心です。
ここで言われている宗教心とは、いわば人間であるなら誰しもが持っている普遍的な心の有り様です。それがどんな宗教であるかにかかわらず、だれもが持っている信仰心のことです。ある人にとってはそれが神という形をとらず、ある哲学や価値観であったり、権力であったり、あるいはお金であったりするわけですが、しかし、いずれもそれを動かしているのは人間に与えられた宗教心なのです。先週の礼拝説教で、創世記1章を学びました。1章26,27節にはこう記されています。
26神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって人を創造された。男と女に創造された。
とあります。神が人を造られた時、「神のかたち」に造られました。「神のかたち」とは、神と対話できる「あなたとわたし」という関係のことだと言いましたが、一般的には、自分を超えた超越者と対話する理性や道徳性、そして宗教性ということです。多くの日本人も神社で願い事を祈ったり、先祖への供養をしたりします。つまり、「お祈りする心」と言ってもいいでしょう。人はみんなそういう心を持っているのです。ですから、私たちの存在を超えたお方、私たちを造られた方に向かい、手を合わせ、祈る、交わる、ということを通して、真の満足を得ることができるわけです。私たちの心は、この神に向かい、神に祈り、神との交わりを通して、真の平安を得ることができるのです。それは私たちがこの「神のかたち」に造られているからです。そしてパウロはまさにアテネの人々のそうした宗教心に訴えたのです。
そのきっかけは「知られない神に」と刻まれた祭壇でした。パウロがアテネの町を歩いていると、彼らがこの「知られない神に」と刻まれた祭壇を拝んでいるのを見ました。この「知られない神に」という祭壇について、古代ギリシャの作家であるディオゲネス・ラエルティオスという人が「哲学者の生活」という著書の中で、この「知られない神に」と刻まれた祭壇について、次のように説明しています。
「紀元前600年ごろ、恐ろしい疫病がアテネを襲ったのです。町の指導者たちは、彼らの祀る数多くの神々のうちのいずれかが怒ってその疫病を起こしたのだと信じたのです。そこで神々にいけにえを捧げたのですが、何の効力もなかったのです。そのときエピメニデスという人が立ち上がり、その原因は恐らくアテネの人々が知られない神を怒らせたために違いないと主張したのです。彼は、アテネに羊の群れを解き放ち、その羊が横たわるすべての場所で、そこで知られない神にいけにえを捧げるよう命じたと言います。そうして「知られない神」のための祭壇が至る所に築かれ、その神にいけにえが捧げられたのです。すると疫病は治まったという言い伝えが
あるのです。」
私たちもコロナ禍の始まった頃の恐怖を思い出します。今は、ほぼ収まったかに見えますが、三年前のコロナの恐怖を思い出します。ニュース映像で、インドの墓地の映像でしたが、収容しきれない遺体を家族があちこちで焼いている映像や、ニューヨークの街中で、火葬しきれない遺体をコンテナ車に沢山収容している映像を見てやり切れない思いを持ちました。
パウロがアテネを訪れたとき、その祭壇の一つがまだ立っていたのでしょう。人々はそれを熱心に拝んでいたのです。ギリシャ人たちはどんな神であろうとも、それに関心を示さないとその神を怒らせてしまうと考えたのです。こうした思いは、私たち日本人もよく抱くのではないでしょうか。神という存在がどういうものなのかはわからないが、とにかくその怒りから免れるために何でもいいから必死に拝もうというわけです。ですから当時このアテネには三千にも及ぶ宗教施設があったと言われていますが、プラスして、このような「知られない神に」の祭壇があったわけです。まさに神々のラッシュアワーです。これはもう宗教心と呼ぶより、アテネの人たちの宗教的不安の現れであったと言えるでしょう。彼らは何でもいいから、とにかく神の怒りから免れるために拝もうとしていたのです。
それに対してパウロは何と言ったでしょうか。そのように「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」と言いました。神は知られない方なのではなく、知りうる方だとパウロはアテネの人に語ったのです。

知られない神を知る
24節以降で、パウロは、この「知られない神」がどのような方なのかについ説明しています。まず24節、25節です。
24世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。25また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。
そのようにパウロは語りました。
皆さん、まことの神は天地を造られ、そこに住む者にいのちの息を与えられた方です。私たちの手を握り、私たちを守り、ご自身との契約の民としてくださる方なのです。この方が主です。ほかにはいません。まことの神は、この天地を創造され、それを堅く立て、人の住みかにし、これを形造られた方なのです。
ここに登場しているストア派の学者、哲学者たちは汎神論といって、この世界、自然そのものが神であると唱えましたが、まことの神はそのような方ではないのです。まことの神は万物を造られた方であり、ほかのいかなるものにも依存することなく、神ご自身だけで存在することができる方なのです。ましてパルテノン神殿がどんなに荘厳であっても、この神をお入れすることなど決してできません。それほど偉大な方なのです。
26節をご覧ください。
26神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節をきめ、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」これは、どういうことでしょうか。「時代」は、世界地図の色分けと、国境の変化で決まります。世界の歴史のどの時代にどの国が勢力を伸ばし、どの時代にどの文化が世界を風靡したかという歴史の流れも、実は神が支配しておられるのです。今も世界中で境界紛争が絶えません。境界争いと民族間争い、アテネのエピクロス派は、神は人間世界には煩わされない方で、我々とは全く無関係な存在だと説きましたが、神はそのような方ではありません。この歴史の始めからずっと人類の歴史に関わりをもっておられ、ご自身のご計画にしたがって導いておられるのです。それは旧約聖書のイスラエルの歴史を見れば分かることです。神はこの世界を創造されただけでなく、今も歴史を通して導いておられる方であって、この時代に生きる私たち一人一人のささやかな人生の歩みにも、心を寄せ、関わっていてくださるのです。それはまさに28節でパウロが言っているとおりです。
28皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』
『我らもその子孫であると』と、言っているとおりです。

 これはギリシャの詩からの引用です。「私たちは神の中に生き、動き、存在している」というのは、紀元前600年ごろのクレタの詩人エピメニデスの詩から引用したものです。パウロはこのような詩を引用しながら、神は、私たちひとりひとりから遠く離れておられる方ではなく、ごく近くに、いや、私たちのただ中におられることを伝えたかったのです。皆さん、神は私たちから遠く離れた存在ではありません。まことの神はこの天地を造られた偉大な方であり、その方は同時に、私たちのただ中におられるのであって、私たちはその神の中に生き、動き、存在しているのです。とパウロは語っています。

神を探し求める
神がこの世界とその中の万物を造り、すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてく
ださり、いろいろな民族を造り出して地上に住わせ、その境界を定めて下さったことには目的が
あります。それは27節の「人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれ
ば、神を見いだすことができるようにということなのです」。神が私たちに命を与え、導いて下さっているのは、私たちに神を探し求めさせるためであり、そして探し求めれば神を見出すことができるようにして下さっているのです。つまりパウロは、私たちは正しく探し求めるならば、神を知ることができるのだ、と言っているのです。正しく探し求めるならば、です。アテネの人々は、自分たちの優れた哲学によって神々のことを考え、知ろうとし、そしておびただしい偶像を造り出しました。しかし彼らの行きついた先は、「知られざる神に」だったのです。つまり人間があれこれ考えて神のことを知ろうとするのでなくて、神がご自身を示して下さるみ言葉によって神を見つめ、それによってこの世界や人間を見つめ直していくならば、私たちは神を知ることができるようになるのです。
主イエスは言われました。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれる、と言われました。私たちは、本気で求めているのか。本気で捜しているのか。問われている気がします。だれであっても求めるならば受け、捜す者は見いだし、たたく者には開かれるのです。
神を知るために
今朝は28節までしか読みませんでしたが、32節から34節で、こう記されています。
パウロが主イエス・キリストの復活のことを語ると、ある者はあざ笑い、ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言って去っていきました。キリストの復活などということは、理性的で哲学的なアテネの人々にはとんでもない馬鹿げた話にしか思えなかったのです。それゆえに、最初はパウロの話に興味を持った人々も、復活のことを聞くと、多くの人は去って行ったのです。キリストの福音が語られても、このように無視されたり、反対されたり、さらには迫害を受けるということはどこにでもあります。アテネにおいてのみそうだったのではありません。私たちもまた、主イエス・キリストとその救いの恵みを少しでも人に宣べ伝えようとする時に、必ずこのようなことを体験するのです。無視されたり、馬鹿にされたり、「いずれまた」と体よくあしらわれたりするのです。34節に「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた」とあります。多くの人々から相手にされず、適当にあしらわれてしまったパウロでしたが、しかし彼が語ったみ言葉によって信じる人もいたのです。神のみ言葉が語られる時には、必ずこのようなことが起こります。たとえ数は少なくても、それを受け入れ、信じて、悔い改める人が生まれるのです。そのみ言葉によって神と出会い、そのみ言葉が語る恵みを受け入れる人へと変えられるという、神のみ業としか言いようのない奇跡が起こるのです。その奇跡が、今この礼拝に集っている私たち一人一人に、新たに起ろうとしているのです。神は私たちに、今、悔い改めることを求めておられます。私たちはその求めにどう答えるのでしょうか。「いずれまた」と言って逃げてしまうのでしょうか。しかし「いずれは」と言っている限り神は私たちにとって「知られざる神」であり続けるのです。今という時を捕えて、悔い改め、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活とによってご自身を示して下さっている神を受け入れることによってこそ、私たちは神を本当に知り、信じることができるのです。祈ります。

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