11/26説教「イエス・キリストの霊」

はじめに
人は歳を取るにしたがって1年が過ぎるのが早く感じるようです。次週の礼拝12月3日からアドベントが始まります。教会の暦では1年の始まりはアドベントから始まります。また新しい年が始まるのです。しかし、この1年はいろいろなことがありました。愛する教会の姉妹が天に召されました。また、礼拝を共にしていた兄弟姉妹が病のため礼拝に出られなくなっています。しかし礼拝に新しい兄弟姉妹方も出席するようになったし、大磯町内の3教会が合同で大磯駅前でクリスマスキャロリングを行うという企画も着々と進んでいます。牧師館の建築計画がスタートしました。すべて私たちが想像しなかったことが起きています。すべては主なる神のなさることです。聖霊のお導きがあります、今、困難の中にあることも、主が必ず良い方向へと導いて下さっていると信じます。

主が恵みを与えられる年
さて、今朝は、私たちに与えられている旧約聖書の御言葉、イザヤ書61章1節から3節の言葉から、まず、恵みにあずかりましょう。この箇所は、イザヤと呼ばれる預言者、正確には第三イザヤと言われる預言者が、預言者職への召命について語っています。ここに語られている言葉は、ユダヤの民がバビロン捕囚から帰還して間もない時期、その期待を裏切られて失望落胆している民を前にして、イザヤが自らに与えられている預言者の職務を人々に明らかにしつつ語られたものです。バビロン捕囚から帰還した人たちが、目の当たりにするのは、破壊されたままになっている神殿、復興の進まない町の悲惨な姿です。バビロンに捕囚されずにエルサレムに残された貧しい人々は、町を再建しようとする意欲すら持てずにいました。帰って来た人々も最初は、再建の意欲に燃えていましたが、あまりにも変わらない状況にだんだん意気消沈していきました。ユダヤに帰還した後の新たな希望への期待が大きかっただけに失望も大きかったのです。預言者イザヤには、主なる神の言葉が新しい事態を切り開く期待と、事態の転換が求められたのです。町の中には、貧しい人、打ち砕かれた人、捕われ人が多くいました。この「捕われ人」というのは、捕囚にされた人のことではありません。捕囚の問題は、この時代にあっては、それはもはや過去のことになっていました。時代は進んでいたのです。ですから、ここで言われる「捕われ人」とは、多くの負債を抱え、それを返せずにいたために、捕らえられ、獄に入れられた貧しい人々のことです。当時貧しい人たちは、畑を耕すだけで精一杯の生活でした。おまけに干ばつなどのために、しばしば不作に悩まされていました。そのたびに多くの借金をし、荒れた土地さえ手放さなければならなかったのです。無一文になり負債の残った人は、捕われて奴隷として働かされるという悲惨な生活を味わっていました。イザヤは、そのような中で、どのようにその現実が変わるかを語ったのです。主が彼らの現実をどのように変えられるのか。主の言葉が語られる時に引き起こされる現実の変化を語りました。「貧しい人」にとって喜びは、貧しさが無くなることです。打ち砕かれた者にとっては、その現実が変わることです。捕われ人にとっては、そこから解放され、もとの地位に戻り、負債が無くなり、自由の身になることです。嘆きが喜びに変わることです。暗い心が神を賛美する喜びの明るい心に変わることです。主の正義が行われ、町に輝きが戻ることです。イザヤは、このように貧しく苦しむ人に、よい知らせを伝えるために自分が預言者として立てられたと言っているのです。そして、「主が恵みをお与えになる年」にそのような転換が起こる、と彼は語っています。「主が恵みをお与えになる年」という言葉で具体的にイメージされているのは、ヨベルの年のことです。レビ記25章1節に、ヨベルの年は50年毎にやってきて、その年には全住民に開放の宣言が与えられ、おのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰ることができると言われています。ここには、主の恵みとして起こる、全く事態を逆転させる奇跡として起こることが語られているのです。そして、2節でこう言っています。
主が恵みをお与えになる年
私たちの神が報復される日を告知して
嘆いている人々を慰め
と言っていますが、「私たちの神が報復される日」という意味は、征服者に対してなされる復讐の意味ではありません。終末の日になされる、すべてのものが回復される救いが強調されているのです。それが主の業として起こる、事態を逆転させる奇跡として起こると預言者イザヤは語っているのです。

今日、あなたがたが耳にした時、実現した
イエス・キリストは、このイザヤ書61章1節、2節の言葉をご自身の宣教と結び付けて、その約束がご自身の到来によって成就された事実を明らかにされました。ルカによる福音書4章21節で、主イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言っています。この聖書の言葉が語られ、聞かれる所では、即ち、主イエスの名による宣教の業がなされるところでは、その言葉が、すなわち、「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という主の声を聞くことが出来るというのです。そして、主イエスが実現したと宣言しておられるので、私たちは、聖書の言葉を聞いている今、この瞬間に実現しているとの宣言を聞くのです。この主の言葉が語られる場は、まさに、この礼拝の場なのです。
イスラエルの民は、まだ再建されない神殿で、あるいは会堂の中で、次の3節の言葉を聞いたのです。
3シオンのゆえに嘆いている人々に
灰に代えて冠をかぶらせ
嘆きに代えて喜びの香油を
暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。
荒れた混沌の中にいる彼らの現実を、そのように変えられるという主の恵みの事実を彼らは聞いたのです。礼拝において起こるのは、そのような恵みの出来事です。牧師の語るつたない話しには力は無くても、聖書の言葉の喜びの香油が、嘆き悲しむ心でやってきた人に注がれるのです。その香油の芳(こう)ばしい香りをかぎながらその一週を喜びの中で過ごすことができること。そこに礼拝において表わされる主の恵みの力があります。暗い心に換えて賛美の衣をまとわされ、私たちは主の日から始まる一週間を、主を賛美しながら歩むものにされるのです。礼拝とはそのような喜びの日々への始まり、導入の日として主の祝福の下におかれています。それだけではありません。私たちはその礼拝に与ると、喜びの使者として、3節後半にある言葉、「主が輝きを現わすために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる」存在として、世に遣わされるのです。パレスチナには綠の木々は少なく貴重なのです。シオン(エルサレム)の住民は神に選ばれた貴重な民とされていました。豊かな正義が行われる「樫の木」として遣わされるのです。町に希望を与える堅固な家を立て、何よりその中心となる教会を立てる働きに、主の民を用いてくださるという主の約束がここに語られているのです。
しかし、何千年も後の今、パレスチナでは、現実問題として悲惨な戦いで多くのアラブ人、ユダヤ人が殺されています。子どもたちが多く殺されています。預言者イザヤが遣わされていた紀元前8世紀の時代と変わらぬ悲惨な現実があります。私たちの住む世界は、この1世紀だけを見ても二つの世界大戦を経験しました。第一次世界大戦は第二次世界大戦以上に悲惨な戦争とも言われますが、第二次世界大戦はより多くの戦死者を出しています。その反省の下に国際連合が出来、国連ビルの建物の礎石にイザヤ書2章4節の次の言葉が刻み込まれたのです。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし / 槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず / もはや戦うことを学ばない。
預言者イザヤの語るこの言葉が虚しく響かないようにと祈らざるを得ません。
いよいよこの年の歩みもわずかになってきましたが、たとえその歩みが十分でなかったという答しかできないとしても、私たちは失望することはありません。この年を「主が恵みをお与えになる年」として覚え、少なくとも礼拝の中で主を喜びとしたとするならば、暗い世の中で、教会の伝道もままならず、具体的な成果はまだ見えなかったとしても、「嘆いている人を慰め」「嘆きに代えて喜びの香油」を注ぐ主の恵みにあずかることができたはずです。主がそのように私たちの現実を変えてくださる、ここに私たちの真の慰めがあり、ゆるぎない平安の根拠があります。このことを信じることが何より大切なのです。事態や状況がなかなか好転しないように見えても、決して慌てず、落ち着いて静かにして、主の約束を信じ続け、そのようなものとして歩み続けることが大切なのです。

イエス、洗礼を受ける
今朝、私たちに与えられている新約聖書の御言葉は、マタイによる福音書3章13節から17節までです。ここには主イエスが、宣教を始める前に洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けることが記されています。福音書の著者マタイが、主イエスと洗礼者ヨハネとの対話から伝えていることは、神のご意志に従い、正しいこと、つまり人々に洗礼を受けさせることです。そして、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたというこの記事が伝えることは、神の子としての服従の道の第一歩ということを示しているのです。そして、私たちが主イエスの名による洗礼を受けることが、主イエスと共に罪に死んで、主イエスと共に新しく生まれることにあずかることになったのです。主イエスが洗礼を受けられたことで、洗礼が新しい意味を持ちました。それまでの悔い改めの洗礼ではなく、主イエスの十字架と復活にあずかる洗礼として一回限りの洗礼となりました。心に神を信じているなら、洗礼を受ける必要はないと考える人もいますが、罪のない神の独り子が、洗礼を受けるためにヨハネの前に低くこうべを垂れた姿を思い起こすならば、洗礼は不要だとは言えなくなるでしょう。
主イエスが、父なる神の御旨に従って洗礼を受けると、御霊が鳩のように降りました。ここで父と子と聖霊という三位一体が完成します。主イエスが復活した後、弟子たちに現れ、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言って天に昇られました。私たちは、その洗礼を受け継いでいます。主イエスが洗礼を受けられたのは、私たちが救いにあずかるためであることを覚え、私たちが受け継いでいる洗礼を忘れないように、復活の記念としての主の日である日曜日に礼拝を捧げ、御言葉の説教と聖餐によって主を覚えるのです。
神の恵みの選び
一昨日、11月23日の勤労感謝の休日に、神奈川連合長老会の長老執事研修会が3年振りに対面で行われました。会場は横浜指路教会で行われ88名の出席者がありました。大磯教会からも3名が出席しました。講演者は横浜指路教会牧師の藤掛順一牧師です。テーマは「神の恵みの選び」ということですが、日本基督教団信仰告白の中で語っている「キリストを信じる信仰によって義とされる」といういわゆる「信仰のみによる義認」の教えの前に「神の恵みによる選び」が語られている意義について主に語られました。私たちはともすると「信仰義認」を誤解しているところがあるのではないかと言うのです。洗礼を受けてクリスチャンになったことで、自分がより上等な、立派な人になったかのように感じ、まだ洗礼を受けていない人のことを「ダメな人」として「上から目線」で見るところがある、「クリスチャンは立派な人、未信者はそれより劣る人という感覚に陥ってはいないか?」そういうことを世間の人は敏感に感じ取っている。それが伝道の妨げになっていることがあるのではないか。教会は敷居が高いと思われている一因ではないだろうかと言っていました。神が私たちを選んで信仰による救いにあずからせて下さったのは、ただ恵みによるのです。私たちの側には救われるに値する立派さは全くないのです。これは教会についても言えることです。同じ神を信じる国民同士が自分の方が選ばれた民だと選民意識や教会独善主義のように争っている現実があります。自分の善い行いや立派さによってではなく、神の選びによって神の民とされた私たちは、神と隣人を愛して、神の恵みに感謝して伝道の使命に生きて行くのです。そのことを支え励ますのが「神の恵みの選び」である、という内容でした。
主イエスが定めて下さった洗礼
ヨハネから悔い改めの洗礼を受け、私たちの悔い改めの先頭に立って下さった神の独り子主イエスは、十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦し、救いを実現して下さいました。そして、私たちをその救いにあずからせて下さるために、ご自身の洗礼を定めて下さったのです。そのことが、この福音書の最後の所、28章18節以下に語られています。復活して永遠の命を生きておられる主イエスが、弟子たちを全世界へと遣わすに際して言われた言葉です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。これこそヨハネが、わたしの後から来る方が聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる、と言っていた洗礼です。そして、洗礼を受けた主イエスに、父なる神は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(17節)と宣言して下さいました。主イエスが定めて下さった洗礼を受けることによって、神は私たちにも、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言して下さっているのです。祈ります。

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