12/10説教「旧約における神の言」

はじめに
今朝は、待降節、アドベントの第二主日の礼拝です。今日、私達に与えられた新約聖書の箇所は、ヨハネによる福音書5章36節から47節です。31節の前にある小見出しに「イエスについての証し」とあるように、主イエスについての証しについて著者ヨハネは記しているのです。先週の礼拝説教でも、エルサレムの人々が、「イエスという人はメシアなのか」「どこから来たのか」という問を発していたことをお話しました。つまり、ここでも、イエスとは何者なのかという、人々、特にファリサイ派のユダヤ人のイエスに対する不信があるのです。そして、その背景には、5章1節以下に記されている安息日の出来事。つまりベトザタの池で38年間病床にあった病人を主イエスが癒やされたことに対するファリサイ派のユダヤ人の、主イエスに対する不信と迫害、その延長線上に、この主イエスの証しということがあるのです。ファリサイ派のユダヤ人にとって、安息日には労働をしてはならないという律法を破ったイエスを決して赦せないわけです。そういうわけで、今朝のこの箇所では、著者ヨハネは、主イエスの証しということに対して4つのことを語っています。「証し」とは、主イエスが地上に来られた神の子であることを示す、道しるべのようなものです。道路標識や立て看板によって正しい道を示すようなものです。すなわち、ここでは著者ヨハネが語る「キリストとは誰か」というキリスト論が語られているのです。少し分かりにくい文章ですが、アドベントの時期に、来たるべき救い主の誕生を迎える私たちが、あらためて考えることであろうと思います。早速、御言葉から主のメッセージを聞きましょう。
証しをする者
主イエスは31節で、「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」と言っておられます。もし証しが自分自身で言うだけなら、その証しは真実ではないと言っています。
人についてある判断をする時に、本人が「自分はこうです」と言っていることを聞くだけでは正しい判断を下すことはできません。自分で自分のことを語る言葉は信頼すべき証しとは言えないのです。証しは他の人によって、しかも複数なされるべきものです。「証し」という言葉は、元々法廷で使われる言葉です。裁判において判決を下すためには、複数の証言が一致しなければならない、ということは旧約聖書にも書かれています。申命記19章15節に次のように記されています。
15いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、そのことは立証されねばならない。
そのように律法には様々な取り決めが示されています。また申命記17章6節には、「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない」と記されています。これは新約聖書の中にも同じような指摘があります。例えば、ヘブライ人への手紙10章28節に、「モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます」と記されています。ユダヤ人の宗教的な慣例というものを、新約聖書にも、「戒め」として、或いは新しい律法として述べられる時の背景になっています。即ちユダヤ人社会では、また現代人である私たちにおいても、自分が自分の証人にはなれません。また家族の証言も信頼されないということは、常識でもあります。ユダヤ人社会では、伝統的な掟、律法によって、当事者を除く二人以上の証人を必要としました。その原則に従って、今朝のこのヨハネによる福音書5章31節以下の箇所で主イエスも語っているのです。そして、32節で主イエスは次のように語っています。
32わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。
少し回りくどい言い方ですが、つまり、主イエスが神であることを証言する別の証言者がいると告げています。これは主イエスの父なる神であることは、文脈から分かりますが、それだけではありません。主イエスが神の子であることは、そのことを証ししている者が他にもいる、ということです。その、主イエスを証ししている者たちのことが33節以下に語られているのです。
洗礼者ヨハネの証し
そこで第1の証しは洗礼者ヨハネです。ヨハネはイエスを指し示す人物です。33節から35節に記るされています。先ず語られているのは洗礼者ヨハネのことです。ヨハネによる福音書において、洗礼者ヨハネは、主イエスを証しするために来た人として描かれています。1章の6節から8節に「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」とあります。そしてこの洗礼者ヨハネが主イエスについて証しした言葉が1章29節です。「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』」。洗礼者ヨハネは、主イエスこそ世の罪を取り除く救い主であると証ししたのです。しかし主イエスはここで、そのヨハネの証しでは十分ではないと言っておられるのです。ヨハネは確かに真理について証しをしました、しかし、主イエスは人間による証しは受けない、と言っておられるのです。それは、人間であるヨハネが語った証しだけで,主イエスが神の子であることが十分に分かるわけではない、ということでしょう。35節には「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」とあります。「燃えて輝くともし火」とは、燃え尽きるまでしばらくの間輝く光ということです。ヨハネの証しを聞いた人々は、「しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」のです。しかしそのヨハネは殺され、その証しは今はもう得られません。けれども36節にはこうあります。「しかし、わたしにはヨハネの証にまさる証しがある」。しばらくの間輝いただけだったヨハネの証しにまさる、人間の証し以上の証しがあると言っているのです。
主イエスのみ業による証し
第2の証しは御子イエスを遣わされたお方、つまり神が、主イエスのなさる業、つまり主イエス
の十字架の救いの業において証ししています。その証しとは何かが36節の後半に語られていま
す。
父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのも
のが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
ヨハネにまさる証しをしているのは人ではなくて、主イエスがなさっている御業です。その御業
とは、主イエスが行っておられる奇跡のことです。ヨハネ福音書ではそれは「しるし」とも呼ばれています。主イエスはこれまで幾つかの奇跡を行ってこられたことが記されています。5章の
最初に記されている、三十八年間病気で起き上がることができなかった人を癒した奇跡もそうです。これらの奇跡は、父なる神が主イエスに行わせてくださった御業であって、それらが、主イエスこそ神の子であり、父なる神が主イエスを救い主としてお遣わしになったことを証ししているのです。
父なる神による証し
第3の証しは神ご自身です。誰も神の声を聞いてはいないし、見たこともありませんが、神の臨在を信じるのです。さらに37節には、「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」とあります。主イエスをお遣わしになった父なる神ご自身が、主イエスがご自分の子であることを証ししておられるのです。この父なる神の証しはどのようにしてなされているのでしょうか。それは主イエスの復活においてだと言うことができます。主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪の償い、贖いを成し遂げて下さいました。十字架にかかって死んだこの主イエスを、父なる神が復活させ、新しい命、永遠の命を与えて下さいました。主イエスを捕えた死の力を打ち破って、永遠の命を生きる者として下さったのです。このことによって、父なる神は、主イエスがご自分の愛する子であることを証しして下さったのです。
聖書の証し
第4の証しは聖書です。聖書は一貫して歴史の中に主イエスが時の中心として存在していることを証ししています。今朝の説教題は「旧約における神の言」としたわけですが、聖書自体が主イエスを証ししているのです。主イエスがなさった御業、しるし、奇跡が、聖書によって証言されており、主イエスとは誰であるかを証ししているのです。39節に「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」とあります。聖書こそが、主イエスとは誰であるかを証ししているのです。ここでの聖書とは私たちにおける旧約聖書です。ユダヤ人たちは、旧約聖書を熱心に読み、研究し、そこに記されている神の掟、律法を守ることによって救いが、永遠の命が得られると思っています。その旧約聖書に、被造物である人間が自分を神としてはならないと語られているので、ご自分を神の子と言っている主イエスを受け入れないのです。しかし旧約聖書は、罪に落ちてしまった人間は自分の力で救いを獲得することができないこと、救いはただ神の恵みによってのみ与えられること、律法は神の恵みによる救いにあずかった者が神に感謝して生きるために与えられたものであると語っています。また神がその救いを全ての人々にもたらすためにメシア、すなわち救い主を遣わして下さるという約束も語られています。そして犠牲の動物が屠られ、その血が注がれることによって民の罪が赦されるという旧約聖書における儀式は、独り子主イエス・キリストの十字架の死による贖いを指し示しているのです。ですから旧約聖書を正しく読むならば、神が遣わして下さる救い主イエス・キリストの証しを読み取ることができるのです。
私たちはこの「聖書」に新約聖書も含めることができます。これまで見てきた主イエスについての証しは、洗礼者ヨハネによる証しも、主イエスご自身が行っておられる御業、奇跡も、そして主イエスの復活という父なる神による証しも、全て新約聖書に語られています。新約聖書はその全体が主イエスについての証しです。つまり旧新約聖書全体が、主イエスを証ししている第四のものなのです。この聖書を通して私たちは神のみ言葉を聞くことができます。神が私たちに語りかけて下さり、独り子主イエスによる救いにあずからせ、私たちをもご自分の子として下さり、キリストの体である教会の一員として下さるという恵みの御言葉が聖書に語られているのです。その御言葉を聞くことによって私たちは、恵み深い父なる神のお姿を信仰の目で見ることができます。主イエスとは誰であるか、主イエスと神との関係はどうなのかという根本的な問いへの答えは、聖書の証しによってこそ示され、与えられているのです。
聖書の研究
主イエスは、ファリサイ派のユダヤ人に、39節にある言葉、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」と語っています。ユダヤ人はモーセ以来のト-ラーと呼ばれる「モーセ五書」を厳密に解釈し研究しています。その他に「タルムード」とか「ミドラーン」という律法を細かく解釈して、それが集積して文書の形に定着してきたものを、研究し、そして実例を挙げつつ、教訓をそこから引き出して行くという方法を採っています。ここで主イエスがファリサイ派のユダヤ人たちに言っている「聖書を研究している」といっているのはそういうことです。しかし、「そうしたからと言って、永遠の命がわかるわけではありません」と主イエスは言われているのです。しかし、主イエスのうちにはたらく神と、その救済の歴史に気づかない聖書の読み方は、永遠の命に与り得ないのです。永遠の命を与えて下さるのは主イエスに他ならないからです。
旧約、新約聖書を一貫している歴史の中に、主イエスが時の中心として存在しています。ですから、それを指し示す旧約聖書とそれを振り返る新約聖書が存在するのだと、キリスト者は理解しているのです。そしてその時の中心にイエス・キリストが立っておられるのです。ですから、旧約聖書の中に、イエスにおける救済、救いの歴史を見出さない聖書研究をいくら詳細に研究しても、永遠の真理、永遠の命には達しないのです。その中に永遠の命を発見することはできません。すなわち神を理解することはできないということを、このヨハネによる福音書を通して、著者ヨハネは私たちに伝えているのです。すべてはイエス・キリストの誕生で一変したのです。クリスマスの喜びはそこにこそ在るのです。聖書はイエス・キリストを証言しています。それゆえに、聖書は神の言葉なのです。
私たちも主を証しする
このヨハネによる福音書は主イエスのご生涯を目の当たりにした第一世代の人々が世を去り、教会の証しの中で歩んでいたキリスト者たちが、ユダヤ人たちに問い詰められる状況の中で書かれました。「あなたがたは何を根拠にして、イエスを救い主と信じるのか」と問われたのです。その時、教会はこう答えたのです、「ご自身の独り子をお遣わしになることによって、神が証しをしてくださったから、私たちはこの証しに基づいて、主イエスをキリスト、救い主と信じるのです」と。私たちも同じです。神が御子についてなさった証し、神の証しがあり、今も聖霊によって神がこの証しをしてくださるゆえに、私たちもあの弟子たち、第一世代と同じ証し人となることができるのです。神の出来事の目撃証人となることができるのです。あの弟子たちと同じように主イエスと出会えるのです。この偉大な神の証しに仕える限り、人の証しはたとえささやかであっても、主によって豊かに用いていただける光栄ある奉仕となるのです。出会ってくださる主のもとへと人を導き、主イエスをご紹介する証しを託されるのです。主イエスの十字架によって叛きの罪を赦された時、私たち人間の証しも、本当に神の栄光を求め、神の証しに仕える証し人として主に喜ばれ、用いていただけるのです。心からの喜びを持ってイエス・キリストのお誕生を迎えたいと願うのです。祈ります。

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