12/31説教「東方の学者たち」

はじめに
今日は大晦日でどこの家も忙しい一日であると思います。そして先週の聖日も、コロナ禍がほぼ終わって、久しぶりにクリスマス礼拝、クリスマスキャロリング、燭火礼拝と盛りだくさんな忙しい日になりましたが、祝福された一日でありました。キリスト者にとっては、一年の旅を終え、また新しい旅を始めるという実感は、このクリスマスです。教会のこよみで言えばアドベントから新しい一年の始まりということですが、私たちはやはり、イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスから、新しい一年を始めたいと思うのです。過ぎたこの一年間は、皆様にとってどういう年だったでしょうか。様々な思いを持っておられると思いますが、主に導かれた一年を感謝したいと思います。2023年の最後の聖日礼拝に与えられた新約聖書の御言葉は、マタイによる福音書2章1節から12節です。さっそく御言葉の恵みに与りたいと思います。

拝むということ
さて、マタイによる福音書2章1節、2節は次のように記されています。
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みにきたのです。」
この聖書の話の中で鮮やかに記されているのは、「拝む」という言葉です。私たちの生活の中で、「拝む」という行為は決して日常的ではありません。けれども、この「拝む」といことが、マタイによる福音書が伝えるクリスマスの重要な出来事には含まれているのです。11節にそれがまた出て来ます。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、」とあります。8節にもヘロデ王の言葉としてこの「拝む」が語られています。「わたしも行って拝もう」と。主イエスの前にひれ伏し、この方を拝む。ここにクリスマス、クリストのマス、キリストのミサ、キリスト礼拝があるわけです。「キリスト礼拝」としてのクリスマスこそまことのクリスマスだからです。
ところで、東の方から来た占星術の学者たちは、幼子を探し当て、宝物を捧げ、拝んだとマタイは記していますが、外にはどこにも彼らの事が語られている聖書個所はありません。彼らは東の方からはるばるやって来て、母マリアと共にいる幼子に会い、ひれ伏して拝み、宝の箱からその持ち物の最上の物を捧げ、そして帰って行きました。それ以後、彼らは聖書のどこにも出てこないのです。この一つの事を成し遂げると、彼らはもうなすべき全てのことをなし終えた人として退場していくわけです。私たちが生きるには、いろいろな事、いろいろなものが必要です。健康でありたい。もっと知恵があったらと思います。経済的にもっと余裕があればいろいろなことが出来ると思います。もっと平和で争いのない社会であって欲しい。家庭が穏やかであって欲しい。欲を言えば切りがないと知りながら、いろいろなものが欲しい。またそれを求めます。それが私たちだと思います。
しかし、本当に必要なものは何でしょうか。主イエスがあのベタニアの村で、マルタとマリアの姉妹に迎えられて、接待を受けた物語の中に、まさにその人々にとって本当に必要なものは何かをお語りになったところがあります。大変に印象深いところです。「必要なことはただ一つだけ」(ルカ福音書10章42節)と主イエスは言われました。この「必要なただ一つのこと」は、主の足もとに座って御言葉に聞くことでした。このクリスマスの個所で言うならば、「ひれ伏して幼子を拝む」ことではないでしょうか。

ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで
「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(1節)。マタイによる福音書はイエス・キリストの誕生をこのように語っています。ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムで生まれた、マタイは、主イエスの誕生については、「ヘロデ王の時代に」「ユダヤのベツレヘムで生まれた」。この二つのことにマタイはとても重要な意味を見ているのです。その意味を探っていきたいと思います。
先ず、ユダヤのベツレヘムで、ということから見ていきます。メシア、つまり神が約束しておられる救い主はどこで生まれることになっているのかと問われた祭司長、律法学者たちが、「それはユダヤのベツレヘムです」と答えています。彼らがそう答えたのは、次の6節に引用されている旧約聖書の言葉のゆえです。
「ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」
「ユダヤ」とはこの「ユダの地」のことです。「ユダの地ベツレヘム」から救い主が現れる、と旧約聖書に語られているのです。マタイは、救い主がどこに生まれることになっているかについて、旧約聖書、ミカ書の言葉を引用しています。ミカ書5章1節は次のように記されています。
1エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
ベツレヘムは、イスラエルの中で、小さな町ですが、ここはダビデ王の出身地です。小さい町ですが、そうであればこそ、町を守るのに自分の力などでなく、主に信頼するほかなかったでしょう。そして主は、その信頼に応えてくださるのです。キリスト者にとってミカ書5章1節は特別な意味を持つものとなりました。それは救い主イエス・キリストの誕生を預言する言葉となったからです。主イエスは、暗闇に閉ざされている人々に希望の光、愛の光、命の光を与えてくださいます。ここで目を留めていただきたいのは、マタイがミカ書5章1節を引用している中で、1箇所不正確なところがあることです。それはミカ書では「いと小さき者」となっているところが、マタイによる福音書では「決していちばん小さいものではない」と変えてあるのです。このような変更が加えられたのは、マタイ自身の体験に基づいているのかもしれません。徴税人マタイは、占領国ローマのために税金を徴収する者でした。その上、不当に取り立てて私腹を肥やしていたため、「罪人」と同列に置かれて人々に軽蔑され、差別されていたのです。ところが、主イエスと出会ってその弟子となり、十二弟子の一人に選ばれました。マタイにとって、自分は実際には小さい者であっても、キリストがこの世にお生まれになったということ、そのキリストと出会うことが出来たということは、決して小さいことなのではない。否、むしろ、それは途方もなく大きなことだったということでしょう。だから、主イエスの生まれたエフラタのベツレヘムは、かつては「いと小さき者」だったかもしれませんが、今や「決していちばん小さいものではない」と言えるものに変えられたと思ったのです。誰でも主イエスと出会うならば、同じように「決して小さい者ではない」といわれる恵みに与ることができるのです。
神は私たちを、能力や知恵、財産などによって選ばれませんでした。それらのものを持たない普通の人だからこそ選ばれました。マタイによる福音書によれば、主イエスの誕生に最初に立ち会ったのは、自ら選ばれた民と自認していたユダヤ人ではなく、異邦人である東方から来た占星術の学者たちでした。そして私たちが主イエスに導かれたのは、優秀だったからではありません。不思議なことにただ主に招かれ、教会に招かれたことに喜びを感じ、救いを体験した者たちです。まさに先立つ星に導かれて来たのです。主イエスの弟子たちも無学で普通の人だからこそ選ばれました。漁師の若者や嫌われていた徴税人たちです。それは、ただ主なる神に信頼したのです。主に信頼するとき、決して小さくない働きが神によってなされていくのです。

ヘロデ王の時代
ユダヤのベツレヘムという言葉に、そういう意味を見いだしていく時に、もう一つの言葉、「ヘロデ王の時代に」の意味も見えて来ます。主イエスは、ユダヤ人の王として、ご自分の国であるユダヤにお生まれになったのです。しかしユダヤはその時、「ヘロデ王の時代」だった。強大なローマ帝国の支配の下にありましたが、ヘロデという別の王がその地を支配していたのです。ヘロデは純粋なユダヤ人ではありません。イドマヤと言って、ユダヤ人と、旧約聖書に出てくるエドム人との混血による民族の出身です。そのヘロデがユダヤの王となっていたのは、当時この地を実質的に支配していたローマ帝国の後ろ立てによることでした。ローマはこの頃、初代皇帝、アウグストゥスの下で、地中海世界全体におよぶ支配を確立していました。そのローマ帝国にうまく取り入る形で、ヘロデはユダヤの王としての地位を維持していたのです。そういうわけですから、彼の地位は非常に危ういものでした。そのために彼は、自分の王としての地位を脅かす者、あるいは脅かす恐れのある者を極端に警戒し、そういう人々を次々に排除していきました。親族をすら次々に殺していったと言われます。そのように、自分の王位を守ろうと必死になっているヘロデのもとに、東の国の学者たちによって、ユダヤ人の王の誕生の知らせが届けられたのです。3節に、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」とあるのは当然のことです。そこで王は、祭司長、律法学者たちを集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問うたのです。彼らはたちどころに、それはベツレヘムですと答えました。彼らの頭の中には聖書の言葉が全て入っているので、すぐに答えることができたのです。そこでヘロデは、学者たちをベツレヘムに遣わします。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。しかしそれは、王として生まれた幼子を見つけ出して今のうちに殺してしまうための口実でした。ユダヤ人の王として生まれた方を拝み、礼拝するためにやって来た占星術の学者たちを、ユダヤの王ヘロデは、その新しい王を殺して自分の王位を守るために利用しようとしたのです。「ヘロデ王の時代に」という言葉は、主イエスはこのような王の支配下にお生まれになったことを語っているのです。

真実の礼拝の喜び
占星術の学者たちは、アラビア人かメディア人かバビロニア人かは分かりませんが、彼らがユダヤ人ではなく異邦人であったことは確かです。占星術という訳は適切かどうかは疑問ですが、彼らは、天体の動きを観測する、この当時の最先端の学者たちでした。日々、星を見て研究していたのです。今で言えば宇宙科学者かもしれません。神の民の地であるユダヤからは遠く離れた自分たちの国、文明の進んだ国で、ふとしたことから、ユダヤ人の王の誕生を知ったのです。そんなこと自分には関係ない、と思っても不思議ではないのですが、しかし彼らは、自分たちの日常の生活を離れて、お生まれになったユダヤ人の王を礼拝するために旅立ちました。そこには、主なる神の不思議な導きがあったとしか言いようがありません。その神の導きを表しているのが、彼らが見た「星」です。彼らは星に導かれて、ということは主なる神に導かれて、主イエスのもとに来たのです。それは、教会に行ったことがない、聖書を読んだこともない人が、ふとしたことから教会や聖書のことを知り、行ってみようと腰を上げてやって来るのと同じです。そこにも、主なる神の不思議な導きがあるのです。そのように旅立った彼ら学者たちは、ユダヤ人の王は当然、王の都であるエルサレムにおられると思ってやって来ました。しかしエルサレムにいたのは、まことの王の到来を常に恐れ、自分の王座を守ることしか考えていない、偽りの王ヘロデでした。また、神の民であるはずのユダヤ人たちも、自分たちのまことの王の誕生を喜ぶどころかむしろ不安を抱くばかりでした。そのような神の民の姿に彼らは幻滅し、失望を覚えたでしょう。しかしその彼らをあの星が再び導いてくれました。つまり主なる神ご自身が彼らを、ベツレヘムの幼子イエス・キリストのもとへと連れて来て下さったのです。9、10節にこうあります。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。彼らは喜びにあふれた。それは、ヘロデやエルサレムの人々が不安を覚えたのと正反対です。自分が人生の王であろうとしている者には、主イエスの誕生は恐れや不安しかもたらしません。しかし主なる神の導きによって、主イエスと出会い、主イエスを自分のまことの王としてお迎えし、そのみ前にひれ伏して礼拝する者は、喜びにあふれるのです。彼らは、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。この三つの宝にはそれぞれ意味がある、と説明がなされることもありますが、しかし大事なことは、彼らが、自分にとって最も大切な宝を主イエスに献げた、ということです。それは、自分自身を献げたということです。彼らは自分の一番大切なものを献げることによって、主イエスを自分の王としてお迎えしたのです。この学者たちは東の国の王でもあったという伝説も生まれました。黄金、乳香、没薬は彼らの王としての権威の印だと考えることもできます。自分自身が王であった彼らが、王としての権威の印を主イエスにお献げして、自分が王であることをやめて、まことの王である主イエスの前にひれ伏したのです。それこそが真実の礼拝です。それによって彼らは大きな喜びにあふれたのです。私たちも、星に導かれて主イエス・キリストと出会い、そのみ前にひれ伏して真実の礼拝を捧げ、自分が王であることをやめて主イエスを王としてお迎えする時に、彼らと同じ喜びにあふれることができるのです。

ノエル、ノエルと歌うイギリスのキャロル
先週のクリスマス礼拝の後、午後3時から大磯駅前の聖ステパノ学園のレリーフ広場で大磯町内の3教会を中心に一般の町民、市民も参加して初めてのクリスマスキャロリングが開催できました。人々の平安と世界の平和を願うクリスマスの企画でしたが、合唱に参加した人と観客を会わせて100人を超える人が集まってくれたことは大きな喜びでした。混声合唱で5曲歌いましたが、その最初に歌った讃美歌が、この後歌う讃美歌258番「まきびとひつじを」です。この讃美歌はイギリスのキャロルです。キャロルというのは、もともとは、宗教的な歌詞をもった楽しい踊りの歌であったようです。輪になって踊る、そのための歌だったようです。聖書の出来事を、自分たちの身に起きる出来事として、声を張り上げて喜び歌ったものです。イギリスの農民たちの信仰が伝わってくるようです。ノエル、ノエルというのはナタリス、意味は「誕生日」が語源で、クリスマスのことです。民衆はイエス・キリストの誕生に立ち会った羊飼いの物語も東方の博士たちの話しもごっちゃにして喜び歌っています。彼らにとっては自分たちの村こそがベツレヘムなのです。主イエスは、私たちの真ん中にお生まれだ、と彼らは信じたに違いありません。インマヌエルの主は我らと共にいつも私たち一人一人と共におられるのです。この一年、主は大磯教会の礼拝の中心におられたのです。新しい年も、世界中の人々が平和であるように祈りましょう。お祈りします。

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