1/7説教「喜びにあふれる」

はじめに
新年の初日から能登半島の大地震の大災害に見舞われ、亡くなられた方々を悼み、被災された多くの方々に生きる力が与えられるように、支援が届きますようにと祈ります。大災害は、その被害の甚大さは、日を追って分かってくることを今回も知らされました。地震災害は人ごとではありません。今、私は、神奈川教区の西湘南地区の教師委員の一人なのですが、丁度、地区の各教会への防災アンケートを審議していて、近々、各教会に送付することになります。各教会がどういう防災計画をしているか。防災訓練をしているか。水の備蓄や対応をどうするかをお尋ねすることになっています。それらを纏めて、私個人としては、教団の西湘南地区の22教会だけでなく、大磯町内の教会の教派を超えた防災協力体制も必要だと思っています。現に、12月24日に初めて行われた大磯クリスマスキャロリングの経験から、教会が協力し合うと、多くの人材と、多くの資材も与えられ、そして何よりもキリストの誕生を祝う賛美の歌声を響かせるという目的で、こんなにも盛り上がったという経験をしました。いずれこの地域でも起こる災害に対処する防災ネットワークを準備し、行政との協力体制を作ることも大切なことです。大磯教会にとって新しい年も多くの課題があります。地震・防災対策。そして、大きな課題としては牧師館の建設。コロナ禍後の礼拝と集会の新たな取り組み。子供の礼拝と教会学校。教会員の高齢者への支援。教会墓苑の整備とエンディングノートの活用。などなど、やることは沢山あります。しかし、まず何よりも聖日礼拝を整え、御言葉に聞くこと、祈ること、洗礼者や教会員が与えられること。それに撤することが教会の使命です。
新しい年を、私たちの弱さも強さも、不安も希望も、すべてを創造主であり救い主である主に委ね、戦争の脅威や、自然災害、環境破壊など人類の存亡を賭けた闘いを、すべてを御覧になっておられ、すべてを支配しておられる主への信頼の下に全てのことを進めることができるようにと願っています。さて、新しい年の初めに私たちに与えられた旧約聖書の御言葉は、詩編1編1節から6節です。まず、この御言葉の恵みに与りたいと思います。
いかに幸いなことか
詩編は、もともと幾つかに分かれて存在していた詩集を集めたもので、主としてダビデ時代からバビロン捕囚後の時代に至る数百年の間の歌が、集められたものと言われます。
新年の最初に、私たちに与えられている旧約聖書の御言葉は、この詩編第1編です。その最初は「いかに幸いなことか」と幸いの讃美をもって始まります。人生の方角を明確に指し示す道しるべとして、詩編1編は詩編全体の入口の扉という位置に据えられています。この冒頭の「祝福の挨拶」は、山上の説教(マタイ5.3以下)におけるイエスの「幸いなるかな」という言葉を想い起させます。1節、2節を読みます。
1いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
2主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
この言葉によって作者は、信徒の正しいふるまいを讃え、1節ではまずその否定的な面から、次に2節では肯定的な面から浮き彫りにしていきます。神を信ずる者と信じない者との著しい対照、違いを鮮明に描き出すこうした叙述の仕方が、この詩編全体を貫いています。宗教改革者カルヴァンは、この1節の解説で、「正しい生き方の第一歩は、悪しき者との交わりを退けることにある、さもなければ、彼らによって、われわれもまた汚れた者となるであろう」と解説しています。ところで、『新聖書注解』という注解書に興味あることが書いてありました。「幸いなこと」の元々の意味は、ヘブライ語の「アーシャル」という「真っ直ぐに歩む」という動詞から来ていると推察出来るというのです。つまり、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らないという消極的に悪に同化しないというばかりでなく、積極的に神に向って「真っ直ぐに歩む」姿勢をとることなのだと言うのです。2節において、この詩編の作者は、神を畏れるものを幸福な者と宣言するだけでなく信仰を持つということの意味を、律法への熱心という言葉で表しています。私たちの信仰生活にとっては熱心な礼拝生活ということでしょう。「主の教えを愛する人」は、日々喜びを抱いて「その教えを昼も夜も口ずさむ人」だと作者は語ります。心に喜びを抱いて神に近づき、その教えを大いに楽しみとする者でなければ、律法を学ぶにふさわしくないということを作者は歌っているのです。それは私たちに取っては、新旧約聖書に喜んで取り組む。「その教えを昼も夜も口ずさむ人」ということでしょう。3節を読みます。
3その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
「流れのほとり」とありますが、パレスチナでは、灌漑するために掘られた水路のそばに植えられた木をイメージするべきだと言われます。「植えられた木」という意味は、自然に生えたままの木ではなく植樹する人によってていねいに移植された木ということです。乾燥した大地では、そうした水路のほとりに植えられた木は生き生きと茂るのです。パレスチナにおいては自然の川は少なく、水は貴重であり、その流れは砂漠に花を咲かせ、植物に生命を与え、実を結ばせるのです。神の慈しみ深さを歌った美しい言葉ではないでしょうか。ここで作者の意図している考えは、信ずる者が神に聴き従い、生涯を通じて見出す真の価値のことを言っているのです。つまり、一人一人が丁寧に神によって植えられた存在だということです。私は、ここで、アフガニスタンで用水路を切り拓いた医師の中村哲先生のことを思い出します。中村哲先生は、1984年に医師としてパキスタンに赴任したあと、アフガニスタンの厳しい干ばつに遭遇し、医師では多くの人の命を救えないことを痛感して1600本の井戸を掘り、25キロ以上に及ぶ用水路を拓き、亡くなられるその時までアフガニスタンで支援活動を続けていました。つないだ人の命は、実に65万人と言われています。3節の最後に「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」という言葉があります。つまり、信ずる者は何を企てても成功すると歌っているこの表現からは、ただ神の御心に従って人生を歩むという、強烈な信仰の楽観主義が伝わってきます。
3節と鋭い対照をなしているのが4節の言葉です。「彼は風に吹き飛ばされるもみ殻」という言葉は、神に逆らう者の人生がいかに無価値であるかが述べられています。彼らの生活は、詩編作者の目には脱穀して、吹き分けのため、空中で吹き飛ばされるもみ殻のように空しいというのです。これに対し、神を信ずる者たちは、神から認められ、「義しき者たち」の共同体を築くと歌っています。この詩編1編は、神に対する真実な服従と信仰による望みを歌っており、御言葉に常に親しむキリスト者も、そのときが巡り来たれば実を結ぶ、ということを、忍耐強く待ち望まなければならないと語っているように思えます。私たちも新しい年を、主イエスの救いを信じ、流れのほとりに植えられた木のように、祝福されていることを確信したいと思います。
主イエスの名前による派遣
今朝の新約聖書の箇所は、ルカによる福音書10章17節から24節までです。主イエスがエルサレムへ向かう前に先駆けとして派遣した七十二人が、働きを終えて喜んで帰ってきたことを記しています。主イエスの十二使徒たちの他に、七十二人の弟子たちが派遣されたことは、私たち信仰者一人一人が、主イエスによってこの世へと派遣されていることを意味しているのです。
主イエスから遣わされて働いて来た72人が、最初の働きを終えて戻ってくる場面から、今日の物語は始まります。帰って来た72人の顔には、喜びの表情が満ちていました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(17節)と彼らは語ります。しかし、72人は何の心配もせずに出かけていったわけではなかったと思います。いや、むしろ主イエスのもとから離れて、遣わされていくことに戸惑いや恐れがあったに違いありません。なにしろ「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(3節)と主イエスも言っているのです。けれども、72人の人々は派遣され、自分たちも驚くほどの働きができたのです。伝道に必要なものは全て与えられて、何一つ不自由することはなかったし、そこで主が命じられていたように、病人を癒やし、神の国が近づいたことを力強く宣べ伝えることができたのです。さらには、悪霊に取りつかれていた人から、これを追い出すことさえもできた、というのです。ただ、ここで忘れてならないことは、72人が悪霊に取りつかれていた人から、これを追い出した時にいつも用いたのは主イエスの「お名前」であったことです。聖書において「名前」は重大な意味を持っています。「名前」は単にものを指し示す記号のようなものではなく、その名前を帯びているお方そのもの、本体そのものを表わしているのです。キリスト者とは、この主イエスのお名前を身に帯びた者と言ってもよいと思います。主イエスのお名前を呼ばわる時、主ご自身がここにいてくださる。主イエスのお名前を呼ばわる時、その御名をただ一つの武器として悪霊に立ち向かう時、彼らは知ったのです。戦われるのは自分たちではなく、主イエスなのだ、主が自分たちと共にいてくださり、力を奮ってくださるのだ、そのことを知ったのです。
名が天に記されている
しかし、ここにはまた、ある誘惑が伴ってくることも確かです。主のお名前を使えば、悪霊でさえ、思い通りになる。何も恐れるに足りない。72人がそんな思いになったとしても不思議はないでしょう。けれども主イエスはそこで但し書きを付け加えられました。20節です。
20しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。
悪霊があなたがたに服従する、ということを弟子たちは経験しました。それは彼らの人生において、主イエスを信じて従い、主イエスの先駆けとして派遣されて神の国の福音を宣べ伝えていく中で体験したことです。信仰者の人生にはこのような素晴らしい体験、大いなる喜びが与えられます。けれども主イエスはここで、本当に喜ぶべきことはそれではない、と言われています。「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と。信仰者は地上の人生において、悪霊を服従させるようなすばらしい体験をすることができます。しかし、たとえそのようなことが無かったとしても、私たちに与えられる本当の喜びはそれによって左右されないのです。本当の喜びは、私たちの名が天に書き記されていることにこそあるのです。名が天に記されている、それは、神が、ご自分の救いにあずからせる者として私たちの名を書き記して下さっている、ということです。神のリストに信仰者の名が書き記されているということは、もはやそれは消し去られることはない、ということです。地上の人生においてはどのようなことがあっても、信仰の歩みにおいて害を加えられ、たとえ志半ばで命を失うようなことがあっても、また人生の闘いに敗れて、望んでいた成果をあげることができなくても、あるいは死の病床の直前に洗礼を受け主イエスに従った者でも、主なる神は、この人は、私の民、私の救いにあずかる者だ、わたしのリストに書き記されている者だ、と宣言して下さるのです。つまり、私たちの信仰とは、主イエスの十字架と復活によって、神が私の罪を赦して下さり、私の名を天に記して下さったことを信じることです。そこにこそ、信仰者に与えられる本当の喜びがあります。この喜びが与えられる時、私たちの地上の人生において何があっても「あなたがたに害を加えるものは何一つない」という約束が真実であることを知ることが出来るのです。私たちの本当の喜びの根拠は、決して失われることのないこの神の恵みです。主イエスの賛美
21節以下には、主イエスが聖霊によって喜びにあふれて「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と父である神を賛美する言葉が記されています。21節の冒頭に「そのとき」とあるように、この賛美の言葉は20節までの所と結びついています。あなたがたの名が天に書き記されている、という大きな喜びを告げて下さった主イエスが、聖霊に満たされて、私たちの喜びをご自分の喜びとして喜び、神をほめたたえておられるのです。
主イエスがここで賛美しておられるのは、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」ということです。「これらのこと」とは、18節から20節に語られてきたこと、その中心は、あなたがたの名が天に書き記されている、ということです。そのことが、知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示されたのです。つまり、自分の力に依り頼み、自分の力で何とかできると思っている者、しようとしている者には、名が天に記されている恵みは隠され、分からないのです。「幼子のような者」、それは、自分の無力を知っている者、いやもっと正確に言えば、自分の力ではどうにもならない、という現実の中で途方に暮れている者です。私たちは、いつまでたっても「知恵ある者や賢い者」にはなれず、「幼子のような者」としてずっと生きてきたと思っているかもしれません。でも、そのような者であるからこそ、主イエスは選んでくださったとすれば、これ以上の感謝はありません。自分ではなく神を誇り、神の栄光を現せる者として用いられたとすれば、これ以上の喜びはないのです。この恵みを私たちに示し与えて下さるのは主イエス・キリストです。22節以下の主イエスの言葉は、少しややこしい文章ですが、要するに、父なる神と独り子イエスとが一体であり、独り子イエスに私たちの救いに関する全てのことが任せられており、主イエスが父なる神を私たちに示して下さることによって私たちはその救いにあずかることができる、ということです。この主イエスを信じ、主イエスに従い、主イエスの先駆けとしてこの世へと派遣されて歩むことの中でこそ私たちは、自分の名が父なる神の天のリストに記されていることを確信し、その喜びの内に生きることができるのです。
あなたがたの見る目は幸いだ
最後の23節、24節は、再び弟子たちに対する、また私たちに対するお言葉です。
23それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。24言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
「あなたがたの見ているもの」とは、主イエス・キリストが示して下さった父なる神の恵み、あなたがたの名が天に記されている、という事実です。主イエスを信じる者は、知恵ある者、賢い者には隠されているという、この事実を見ることが許されているのです。それは本当に幸いなことです。本当に喜ぶべきことは、地上で起きていることではないということです。わたしたちの周り、地上で起こることにはいいこともあれば悪いこともあります。そこで一喜一憂するのではなく、主イエスはわたしたちがどこに目を注げばよいのかを教えています。見つめるべきは、目に見える出来事の背後で働かれる父なる神です。「あなたがたの名が天に書き記されていること」、神に覚えられていることを喜びなさい。そこにこそ、喜びの根拠があると言われるのです。
この新しい一年も、私たちは、私たちの名が天に書き記されている恵みを覚え、まだこの喜びを知らない人々に、この喜びを伝えるべく、72人の弟子たちのように、遣わされるものでありたいと思います。 祈ります。

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