1/14説教「神の子イエス」

はじめに
新年を迎え、新しい年のスタートを切ったわけですが、初日から能登半島の大地震があり羽田での飛行機事故があり、また各地で火災も発生しています。また政治の世界でも政治資金の問題が大きく報道されています。前途多難という感じでありますが、一方で株価は30数年ぶりの高値で景気は良いようです。人間の予想を超えた出来事が起こるということをコロナ禍の時に思い知らされましたが、今回もそうです。ところで、私が大磯教会において初めて礼拝説教をしたのは、今から15年前の2009年1月11日の聖日礼拝でありました。当時、私は愛知県豊橋市にある教会の信徒で、会社員でしたが、キリスト教の教師資格を得て、招聘してくれる教会を探していました。始め名古屋を中心とする中部教区の中で、二つの教会からの招聘の話しがありました。その一つが今回の能登半島地震の被害にあった地区の教会でした。都合により決まりませんでしたが、赴任していたら地震に遭遇して復旧作業で追われる立場であったと思いました。結局は、全国連合長老会の人事の中で、鳥羽和雄牧師が80歳で隠退され後任牧師の招聘人事の中で私に話しがあったわけです。招聘の前に一度説教をしてくださいという依頼を受けて、説教をさせていただいたのが15年前の1月11日でした。その時礼拝に出席していた長老の話によると、私は相当緊張していたということです。60歳という遅咲きの牧師の卵で、初めて他の教会で説教したということで緊張していたのでしょう。大磯教会にふさわしい教師かどうかを審査されたようなものです。それから毎週説教するようになったわけですから、訓練されたこともあるし、要領を心得てきたということもあるでしょう。牧師は常にどこにいても聖書の解き明かしを語るのが使命です。それが葬儀説教であっても聖書の説き証しを行います。来週の18日(木)の大塩惠美子姉妹の葬儀の場合もそうです。私たちと共に大磯教会で礼拝を捧げていましたが、高齢者介護施設に入所され長い間礼拝に出席できませんでした。最後に棺の中でありますが、信仰の兄弟姉妹と共に説教が語られ最後のお別れをしたいと思います。さて、前振りが長くなりましたが、今朝、私たちに与えられている新約聖書の御言葉は、ルカによる福音書4章1節から13節です。早速、御言葉の恵みに与りたいと思います。

パンの誘惑
1節に「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を〝霊〟によって引き回された」と記されています。ヨルダン川で主イエスは何をなさったのか。それは、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったのです。その時、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた」と3章22節に記されています。主イエスが洗礼をお受けになった時から、聖霊に満たされ、聖霊なる神のご支配と導きによって、公のご生涯をお始めになりました。そして悪魔は40日にわたって主イエスを誘惑しました。その間、主イエスは何も食べず、この期間を過ぎた後に、空腹を覚えられました。主イエスもお腹を空かせたのです。ひもじい思いをされたのです。渇きを覚えられたのです。わたしたちと同じように、命を繋いでいくために食物を必要とされる体を持たれたのです。40日も食物を食べなければもう限界でしょう。聖書の言葉として素直に理解していたのですが、素朴な疑問として水は飲んでいたのでしょうか。能登地震のニュースが伝えるところによると、水が欲しい、水が足りないと多くの方々が訴えています。そして食べる者が無いと。災害や遭難という緊急時には、そのことが切実なことだと分かります。しかし、日本においては、水、食料の支援はしばらくすると届くようになります。次はトイレとか、住むためのさまざまな環境です。
悪魔はかしこくも、ちょうど 40日を過ぎ、空腹も絶頂に達した時を狙って、誘惑の声を発するのです、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)。「それは神の子にとっていともたやすいことに違いなかろう」、と言うのです。「簡単なことではないか、すぐにやってのけることができるはずではないか」、「そんなこともできない救い主とはいったい何なんだ」、「そんなこともできない神の子に、皆がついていくと思うのか」、「そんなことさえできない神の子が与える救いとはいったい何ほどのものなんだ」。そんな誘惑の声を主イエスにあびせかけたのです。そもそも悪魔が主イエスに対して誘惑しているのは、相手が主イエスだからです。悪魔は、「神の子」である救い主としてこれから活動を開始しようとしておられる主イエスを、神の子としての歩みをさせないように、救い主としての働きを挫折させようとしているのです。
しかし、この声は、わたしたちにもしょっちゅう聞こえてくるのではないでしょうか。「お前が信じている救いとはいったい何ほどのものなんだ。石ころ一つパンに変えることさえできないではないか。空腹を満たすことさえできないではないか。そんな救いからどうして人生を支える力を得ることができるのか」。今の日本は確かに空腹感とは縁遠い食べ物の豊富な国かもしれません。けれども人々の中にはどうしても満たされない、空しさが広がっているのではないでしょうか。最初の誘惑への主イエスの返しの言葉は、旧約聖書の申命記8章3節の次の言葉です。
3主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
主イエスはこの悪魔のささやきに対して、「人はパンだけで生きるものではない」という御言葉をもって立ち向かわれました。この言葉がある旧約聖書の申命記には、この言葉に続いて「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ということが語られています。もしここで「そうですか、それならば」と言って主イエスが石ころをパンに変えられたら、主イエスはそれだけの人で終わってしまったことでしょう。せいぜい石ころをパンに変えて自分の飢えをしのいだり、お腹を空かせた人の飢えを満たしてあげるだけの超能力者で終わってしまったことでしょう。主イエスはしようとすればそのような奇蹟を起こせなかったはずはありません。けれどもそれをすればご自分が本当にお与えになろうとしている救いが意味のないものになってしまう、わたしたちの欲望を満たすために役立つ僕でしかなくなってしまうのです。主イエスはここで踏みとどまらなければならなかったのでした。
主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある。と申命記を引用して悪魔に立ち向かいました。飢えに苦しんでいる世界の人々に対して、主イエスが石をパンにかえて、この世の食料事情を解決し、世界から飢えを無くしてくれれば、皆救われるのではないかと私たちは考えてしまいます。主イエスも、飢えに苦しむものと同じ苦しみを味わっているのだから、「石をパンにかえる」ことにすれば、今、「私の空腹のみならず、世界の人々の空腹を満たすことが出来る」とお考えになったかもしれません。しかし、その時、「これは違う」と主イエスは思ったはずです。それは本当に人を救うことにはならないと考えられたのです。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」との言葉は、神の言葉を聞くことだけが良いことで、パンを食べることがいけないことであると言っているのではもちろんありません。申命記8章では、エジプトを脱出した後の、イスラエルの民の40年間の荒れ野の歩みが思い出されて書かれています。神はその旅の間、彼らを、マナと呼ばれる、天からのパンによって養い、支えてくださったのです。申命記8章4節には「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」と記されています。つまり神はご自分の民に、必要なパンを与え、また必要な衣服を整えて、いつも養ってくださるのです。神は私たちに備えてくださるのです。
教会以外のところでは、一般的な使い方として、「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、パンに代表される物質的な、外面的なものではなく、内面的で、精神的なものを求めて生きなさい、というように使われることが多いのです。しかし、そうではありません。そうではなくて主イエスは、神はあなたがたにパンをお与えくださる、あなたがたが生きるのに必要なものをすべて備えてくださる。しかし神の恵みはそれに尽きるのではない。神はそのことを通してむしろもっと大きな恵みを、その口から出る一つ一つの言葉によってあなたがたを生かし、導くという恵みを与えようとしておられるのです。

悪魔に魂を売る
第二の誘惑において、悪魔は主イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せたとあります。そして、「もしわたしを拝むなら、その権力と繁栄の全てを与えよう」と言いました。この誘惑のポイントは、悪魔を拝め、ということです。悪魔を拝むなら、この世の権力と繁栄が得られるのです。この悪魔の誘惑も、主イエスが神の子であるゆえの誘惑なのです。しかし、このことは、「ファウスト」を始めとしていろいろな文学作品の題材ともなっています。いわゆる「悪魔に魂を売る」ということです。その前提にあるのは、この世における権力や繁栄、富は悪魔がそれを司っており、悪魔に魂を売ることによってそれらを手に入れることができる、という感覚です。そこには、この世の権力や富の持つ悪魔的な性格、それにとりつかれると人間性が損われ、人に対する愛や思いやりを失い、残酷なことをも平気でするようになるという、これは人種や民族を超えた人類に普遍的な経験が生きていると言えるでしょう。そういう意味では、この第二の誘惑は私たちも受けるものであると言うことができます。主イエスはその誘惑を、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という申命記6章13節のみ言葉によって退けました。権力や繁栄という悪魔的な力の虜になることから逃れるための唯一の道がここに示されています。主なる神を拝み、つまり礼拝し、神にのみ仕えることです。神を礼拝することによってのみ私たちは、権力や繁栄という悪魔的な力の誘惑から逃れることができるのです。本当に拝むべき方を拝んで生きることによってこそ、拝むべきでない、私たちを奴隷とする力を拝むことから解放されるのです。

神を試す誘惑
悪魔が主イエスに行った第三の誘惑は、神殿の屋根の端から飛び降りてみろ、というものです。これも神の子イエスだからの誘惑です。
主イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」という、これも申命記6章16節の言葉によってこの誘惑を退けられたのです。つまり主イエスがここで拒んだのは、「神を試す」ことです。悪魔のこの誘惑は、神を試させようとする誘惑なのです。神を試す、それは、本当に神がおられ、自分を守り導いて下さるのか、神を信じ依り頼んで本当に大丈夫なのか、ということを、試して確かめようとすることです。そして自分で確信が持てたら、大丈夫と安心できたら新しく歩み出すことができる、ということです。しかし、信仰において大切なことは、神に信頼して自分を委ねることです。試して、確かめてからではなくて、信じて、一歩を踏み出すのです。しかし私たちには、なかなかそれが出来ません。どうしても、神を試したくなるのです。確かめて安心したくなるのです。主イエス・キリストがこの世に来て下さったのは、そのような私たちのためです。
神の子である主イエスが、人間となってこの世を歩んで下さり、そして悪魔のこの誘惑を受け、聖霊の導きの中でそれに打ち勝って下さったのです。私たちはこの主イエスを信じ、この主イエスと結び合わされて、この主イエスと共に生きていくのです。そのことによって、私たちも神の子とされます。神の独り子である主イエスが人間としてこの世に生まれ、人間として生きて下さったのは、主イエスを信じる私たちも、神の子となり、神の父としての愛に信頼して生きるようになるためです。一人の人間としてこの世を生き、同時にまことの神の子として悪魔の誘惑を退けて、神の子としての力をご自分のためではなく私たちの救いのためにこそ用いて下さり、この世界の本当の支配者である神に信頼して歩み通して下さった主イエス・キリストを信じることによって、私たちもまた、悪魔のあらゆる誘惑を退けて、神に信頼して自らを委ねて生きていくことができるのです。

悪魔の誘惑に立ち向かいつつ
私たちの歩みは、常に悪魔の誘惑にさらされています。主イエスにおいても、荒れ野の誘惑に失敗した悪魔は、しかし「時が来るまで」、つまり一時的に主イエスを離れただけだったと最後の13節にあります。悪魔は再び襲ってくるのです。その時とは、主イエスの十字架の苦しみと死の時です。ルカによる福音書22章3節に「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」とあります。この時、悪魔はユダの中に入り、そのユダの裏切りによって主イエスは引き渡され、十字架に架けられたのです。公の生涯の初めに、主イエスは悪魔の試みを退けることによって、ご自分が神の子であることを明らかにされただけでなく、ご自分が成し遂げようとしている救いを示されました。それによって悪魔は「時が来るまでイエスを離れた」のです。しかし主イエスによる救いは荒れ野の40日間において成し遂げられたのではありません。時が来て、悪魔がユダに入り、神の子イエスが十字架で死なれたそのとき、主イエスによる救いは成し遂げられたのです。神の子イエスの死によって、悪魔が完全に勝利したかのように思えたところで、私たちへの神の愛は極みに達し、神の恵みが満ち溢れたのです。荒れ野の誘惑を退けた主イエスが、神の子としての歩みを、十字架の死に至るまで歩み通して下さったことによって、私たちにも、神の子として悪魔の誘惑を退けて生きる道が開かれているのです。私たちは、主イエスが荒れ野で悪魔から三つの試みを受けた物語を通して、この主イエスによる救いに目を向けることへと招かれているのです。 祈ります。

TOP