1/21説教「主の恵みの年を告げる」

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はじめに
今朝私たちに与えられました新約聖書の御言葉は、ルカによる福音書4章14節から30節までです。主イエスはガリラヤのナザレでお育ちになったのですが、いわゆる公生涯の初め、荒れ野で四十日間にわたり、悪魔から誘惑を受けるという試練の時を過ごし、それに打ち勝たれたということが、今朝の聖書の箇所の前に書かれています。先週の説教の箇所でした。そして、16節で、主イエスは、ご自分がお育ちになったナザレに行かれて「安息日にいつものように会堂に入られた」とルカは書き始めています。会堂というのは、ユダヤ社会で、シナゴーグと言って、人々の信仰生活や社会生活の拠点になっていた場所です。何かというと集まる場所で、礼拝の場所として、神の言葉を聴き、祈りをする場所であり、時には、現在の公民館のような働きもしていたと思われるし、教育も行われていました。
今日の舞台は、主イエスも小さい時から慣れ親しんでおられたに違いないナザレのシナゴーグが舞台です。それでは早速御言葉の恵みに与りましょう。

シナゴーグでの礼拝
主イエスの時代、12歳になるとユダヤの男の子は、もう一人前の信仰者として扱われていたので、主イエスも安息日、つまり土曜日になると、ここに来て、村の仲間たちと一緒に神を礼拝していたと思われます。シナゴーグでは、まず、何よりも聖書、今日でいう旧約聖書の、律法の言葉と預言の言葉を読み聞かせられ、その説き明かしを聴き、詩編を歌い、祈りをしました。現在の私たちの教会と同じようで、ここに、教会の礼拝の原型があると言われます。幼い時からシナゴーグでの礼拝に慣れておられた主イエスは、公生涯の最初を、まず、ここで説教をされることから始められたのです。
とにかくシナゴーグでの礼拝で大切なことは、まず聖書が読まれることでした。預言者イザヤの巻物が渡されたとありますが、恐らく、主イエスがイザヤ書の巻物を渡してくれるように、会堂司に要求なさったのでしょう。その点は現在の教会も同じです。二千年前の主イエスと同じように、私たちも、日曜日に、聖書を読み、御言葉の説き明かしを聴き、讃美歌を歌い、祈るのです。二千年前と同じ事が行われているということは驚きであり、すばらしいことではないでしょうか。
ところで、主イエスが宣教を開始された、つまり神の言葉を人々に語り始めたのは、ルカによる福音書3章23節によると「主イエスが宣教を始められたときはおおよそ30歳であった」と記されています。今で言えば牧師、司祭として働かれたということになるのでしょうか。ところで、それまでは、主イエスは何をしておられたのか。教会学校で子供に三択クイズを出すとすると、次のどれになるでしょうか。1.羊飼い、2.大工、3.漁師 さあどれでしょう。という質問です。・・・答えは2.大工です。大工と言っても、おそらく、家を建てる以外にも、家具や農具を作ったり修理する職人ではなかったかと言われています。
そして、主イエスが30歳になって、いよいよガリラヤ地方で、安息日にユダヤ教の会堂で、神の言葉をお話するようになりました。病気を癒やし、悪霊も追い払う活動もなさったので、それがたいそうな評判になっていたのです。4節に「イエスは、〝霊〟の力に満ちてガリラヤに帰られた」。その評判が周りの地方一帯に広まった。」とあります。ガリラヤ地方に住むたくさんの人々から尊敬され、すごい、素晴らしいと、大評判になり、その評判がイエスの故郷ナザレにも聞こえてきました。やがて、主イエスがナザレに帰ってきました。そして安息日になると、皆が集まる会堂においでになりました。主イエスに巻物の聖書が手渡されると、主イエスはイザヤ書の言葉を朗読して説教をされました。聖書といっても、今のようなコンパクトなものではありません。羊皮紙に書かれた巻物です。あらかじめ説教者が指定した巻物を、会堂司が持ってくるのです。

預言者イザヤの言葉
主イエスがお読みになった「預言者イザヤの書」は、イザヤ書61章の言葉です。1節から3節をもう一度お読みします。
1 主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み
捕らわれた人には自由を
つながれている人には開放を告知させるために。
2 主が恵みをお与えになる年
わたしたちの神が報復される日を告知して
嘆いている人々を慰め
3 シオンのゆえに嘆いている人々に
灰に変えて冠をかぶらせ
嘆きに代えて喜びの香油を
暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。
彼らは主が輝きを現すために植えられた
正義の樫の木と呼ばれる。
主イエスは、このまことに美しい、神による解放のわざを告げる言葉を朗読なさいました。そして、何と言われたか。主なる神の霊が臨み、油を注がれて神のみわざを告げられた者、それはまさにこの私に他ならないと、語り始められたのです。
主イエスは、人々の心に突き刺さるように告げられたのです。これはまことに勇気ある、大胆な言葉です。人々の心にある思い、人々が生きている現実に逆らい、主イエスはあえて言われます。ルカによる福音書に戻りますが、その21節に、「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。』と話し始められたのです。
すると、22節、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」。ここに、主イエスをほめた、と書かれていますが、これは、一見、良いことのように思われます。けれども、「ほめる」というのは、実は〝上から目線〟です。また、驚いたというのは、〝あのヨセフの家の息子が、こんなに立派になるなんて〟という驚きです。みんな主イエスの子供のころを知っています。一緒に遊んだ友達もいたでしょう。〝自分たちは、イエスのことをよく知っている〟という目で、どうしても主イエスを見てしまうのです。そのために、尊敬して主イエスの言葉を聞けないのです。上からの目線になってしまい、神の言葉〟を聞くということが出来なかったのです。

医者よ、自分自身を治せ
「この人はヨセフの子ではないか」とナザレの人たちが言ったことは何を意味するのでしょうか。そこには、甘えが引き起こす一つのズレがあります。それはひいきするのが当然、という意識です。主イエスは、ナザレの人々の内にあるその意識を見抜いてこう言いました。
「きっと、あなた方は『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない」(23節)
「医者よ、自分自身を治せ」ということわざは、〝医者の不養生〟という言葉を連想させるかも知れません。つまり、医者は他人の病気は治すが、自分が不養生で病気になりがちだから、まず自分に注意して、自分を治せ、という意味に解釈しそうです。けれども、そうではないのです。このことわざは、他の町ではなく、自分自身の故郷で、まず病人を治せ、という意味です。つまり、隣の町のカファルナウムで行った病気の癒やしや奇跡のわざを、もっと特別な関係にある故郷の町で、それ以上にするのは当然だ、という意識があるのです。主イエスは、人々の中に、そのような特別な関係にあるという、ひいきを期待する特権意識のようなものがあることに気づかれたのです。そして、その期待を否定されたのです。

解放と自由
主イエスの福音の中心となる言葉は、解放と自由です。捕らわれている人に解放を、圧迫されている人に自由を与えるのです。「目の見えない人に視力の回復を告げ」も、目が見えないという束縛からの解放であると言えます。主イエス・キリストは、私たちの解放と自由を実現して下さるのです。主イエスによって私たちは、私たちを捕え、束縛しているものから自由になるのです。このことこそ、主イエスの福音、主イエスによってもたらされる救いの中心なのです。私たちを捕え、束縛しているものとは何か、また主イエスはどのようにして私たちを解放し、自由にして下さるのか、ということです。今私たちは、主イエス・キリストによって与えられる救いの中心が、私たちの解放、自由なのだということをしっかりと心に刻みつけておきたいと思います。主イエスを信じてその救いにあずかるとは、何らかの道徳や掟を守って生きる者になることではなくて、あらゆる束縛から解放されて自由に生きる者となることなのです。信仰者の歩みとは、主イエスによって与えられる本当の自由を学び、その自由を生きていくための戦いです。この自由に生きることは決して簡単ではありません。洗礼を受け、信仰者として生きている者たちも、ともすればその自由を失い、私たちを虜にしようとしている様々な力や人間の思いの奴隷になってしまいます。自由に生きることほど難しいことはないのです。けれども主イエス・キリストは、私たちを何かの掟で縛ろうとは決してなさらず、あくまでも解放と自由を与えようとなさるのです。なぜならそれこそが本当の救いであり、本当の恵みだからです。主イエス・キリストは、神が恵みによって与えて下さる本当の救いを実現するためにこの世に来て下さいました。人間が努力して何らかの道徳を守っていけば救いにあずかれるのなら、主イエスがお生まれになる必要はなかったのです。しかし私たちが罪の支配から本当に解放され、自由に生きるためには、神の独り子が人間となり、そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることが必要だったのです。

主の恵みの年を告げる
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主イエスは言われました。主イエスがこの世に来られ、活動を開始なさったことによって、福音の約束が実現したのです。しかしこの「今日」とは何時のことなのでしょうか。私たちはこの「今日、あなたがたが耳にしたとき」という言葉を、主イエスがナザレの会堂で説教をなさったこの日、という意味に捉えるべきではありません。むしろこれは私たち一人一人への語りかけであると読むべきです。つまりこの聖書の言葉は、今から千九百何十年前に主イエスがナザレに来られた日に実現したのではなくて、今日、私たちが、この主イエスの宣言を耳で聞き、主イエスこそ私たちに解放と自由を与えて下さる救い主であられると心で信じ、その信仰を言い表わす、その時に実現するのです。つまり私たちが信仰を告白して洗礼を受けるその時に、主イエスが宣言して下さった解放と自由が私たちに実現し、私たちが生きている今この時が、「主の恵みの年」となるのです。新年の初めから能登の地震の大きな被害や様々な事故、終わらない戦争と新たな戦争への不安、誤魔化しの政治への不信、教会の兄弟姉妹との分れ、自分の将来への不安、健康に対する大きな不安、子供の成長への不安、私たちは今、不安に満ちた思いを皆持っているのです。重苦しい不安がこの社会を覆っています。私たちは様々な恐れに捕えられ、不安にかられて見つめるべきものを見つめることができなくなり、様々なこの世の力によって圧迫されています。しかしそのような私たちのもとに、神は、独り子イエス・キリストを遣わして下さり、福音を告げ知らせ、主イエスによる解放と自由とを実現して下さり、主の恵みの年を告げて下さっているのです。インマヌエルの主が、私たちの所に来て下さったので、私たちは、主の告げて下さる恵みの年へと、勇気をもって歩み出していくことができるのです。祈ります。

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