2/4説教「いやしの御業」

はじめに
今朝のルカによる福音書4章38節から44節には、主イエスのいやしについて書かれています。人間の病気にはあらゆる種類のものがあることに驚きます。生まれながらの障害や体質的なものもあれば、事故や後天的、外部からのものもあります。世界は新型コロナウイルスに3年にわたって苦しめられましたが、今はインフルエンザが感染力を強めています。体の障害もあれば精神の障害、脳の障害もあります。また、高齢によるので、仕方ないといわれる自然の劣化によるものもあります。
福音書の中には、主イエスによっていやされた病人の話がたくさん出て来ます。聖書の教えるいやしは逆説的です。いやしなんか求めるな、神を求めよ。そうすれば結果としていやされる、ということだからです。旧約聖書のヨブ記を見ると、ヨブは、当代きっての義人で、神の目に正しい人でしたが、ある時から、度重ねて災厄を体験し、家族を失い、自分の健康すら失います。いやしを求め、なぜ自分がこれほどの悲劇に遭わなければならないのかと、ヨブは神に訴え続けたのです。しかし、ヨブが本当にいやされたのは、全知全能の創造主に出会い、その真理に圧倒されたときでした。ヨブはただ神を見上げたのです。いやしは神の一方的な恵みとして与えられるものであり、何かに対するご褒美ではありません。心の傷にせよ、体の病気や障害にせよ、いやされる場合もあれば、いやされない場合もありますが、どちらにしても、神がそうされているということです。さて、今朝の御言葉は、主イエスが病人をいやされた話しです。早速、御言葉の恵みに与りましょう。
三つの出来事
ルカによる福音書第4章38節から44節には三つの出来事を記されています。第一に、主イエスがシモンの姑をいやされたこと、第二に、主イエスが多くの病人をいやされたこと、第三に、自分たちから離れないで欲しい、と主イエスに願う群衆と、しかしそこから離れていく主イエスが語られています。このように今朝の箇所は三つの出来事に分けることが出来ますが、だからといってこれらがそれぞれ独立したばらばらの話である、というわけではありません。さらに、31節から始まる一つのまとまりの中でこのことは語られているのです。カファルナウムにやって来た主イエスが、カファルナウムから去っていく、その間に起こった出来事が31節から44節で語られているのです。
悪霊に取りつかれた男をいやす
先週の説教で語ったことですが、ガリラヤの町カファルナウムに下られた主は、そこにしばらく滞在し、安息日には人々を教えておられました。福音書はその言葉には「権威があった」と伝えております。主イエスの話は、ただ人生の知恵や本を通して学んだことを紹介するとか、理論や思想について講義をするといった具合ではなかったのです。人々がその話を聞いて非常に驚かざるを得ない「権威」が、主イエスの言葉にはあったのです。力と迫力をもった言葉を、会堂に集まった人々は聞いたのです。そして、その会堂にいた悪霊に取りつかれた男は、主イエスの言葉によって救われました。「黙れ。この人から出て行け」という権威と力とをもった言葉によって、悪霊を追い出していただき、無傷で救い出されたのです。この悪霊を追い出す出来事と並んで福音書が証しているのは、38節より始まる癒しの出来事です。
シモンのしゅうとめと多くの病人をいやす
安息日に主イエスは人々を教え、権威ある言葉をお語りになりました。カファルナウムの人々と一緒に礼拝を守られ、またそこで御国の到来を告げ知らせる福音をお語りになったのです。こうして礼拝を終えた後、主イエスは会堂を発ってシモンの家にやってこられました。安息日の午後に、説教者を招いて会食をするということは、当時は珍しくなかったことのようです。もっとも安息日には一定の距離、だいたい900メートルを越えるような距離を移動することは律法によって禁じられておりましたから、シモンの家は会堂から比較的近い場所にあったのでしょう。律法を犯すことなく会食ができるために、シモンの家はよくこうした集会に用いられていたのかもしれません。ここで出てくるシモンは、後に5章で主イエスの弟子とされるシモン・ペトロのことです。この段階ではまだ「人間をとる漁師」として召されていない、主イエスがどのようなお方であるかもはっきりと分かってはいない、そんなシモンであったことでしょう。ただ自分の家に今日の説教者が訪ねてきてくれる、会堂の皆さんと自分の家で会食してくださる、そこで今日のお話についてもっといろいろ聞くことができるかもしれない、そんな期待感やうきうきした気分の中で、主をお迎えしたのではないでしょうか。
けれどもシモンには一つ気がかりなことがありました。彼のしゅうとめが高い熱にうなされていたのです。もう何日高熱に苦しめられていたのでしょうか。彼女は長いこと床に臥したまま動けずにいたのです。彼女は高熱によって自由を奪われ、落ち着いて、正常に考える力を押さえつけられ、悪霊に捕らえられたような状態になっていたのです。彼女はこの日のために前々からはりきって食事の準備をしてきたことでしょう。安息日の当日に大きな仕事をすることは禁じられていましたから、以前から準備をしておく必要もあったわけです。ところが当日は高熱にうなされて、訪ねてきてくれた皆さんをもてなすことができないのです。なんと残念な思いをしていたことでしょう。彼女は無力感にうちひしがれて天を仰いで横になっていたに違いありません。間もなく、シモンのしゅうとめが高熱に苦しんでいる事情が主イエスのもとに伝えられるところとなったのでした。「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」(38節)と記されております。彼女が自分で「早くあなたがたのお世話ができるようにこの熱を下げてください」とお願いすることはなかったのです。もしかしたら彼女はそんなお願いをする力も出せないし、意味のある声を発することさえできない状態だったかもしれません。その彼女のために、周りの人々が、主イエスに願い出たのです。彼女に代わって、主イエスに頼んだのです。主イエスはその願いにお応えになって彼女の枕もとに立って熱を叱りつけました。すると熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなしたというのです。彼女の自由を奪い、彼女を捕らえ、押し付けていた力が、主の言葉によって力を奪われ、その権威の前に服従したのです。ちょうどこのすぐ前で、権威あるお言葉によって男から悪霊を追い出された時のように、熱を追い出されたのです。
一人一人に手を置いていやされた
40節には、「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」とあります。ユダヤ人の一日は日没から始まります。この日は安息日でしたから、「日が暮れると」というのは、安息日が終わったということなのです。それで、人々が、病気で苦しんでいる自分の家族や友人を主イエスのところに連れて来たのです。遠いところからも病人をつれてたくさんの人々がやってきたのです。安息日には医者も医療行為を行うことを禁じられていたでしょうから、人々は主イエスに律法を破るような行為をさせたくないばかりに、地平線を見つめながら、日の暮れるのを今か今かと待ちわびていたのでしょう。ここでも病人たちが直接主イエスのもとに来たのではありませんでした。いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちを主イエスのもとに連れてきたのです。病人を抱いたり、おぶったり、担架に乗せたりしながら、主のもとにお運びしたのです。ここには家族や親戚、病人の周りに生きている人々の執り成しがあります。「イエスはその一人一人に手を置いていやされた」とあります。主イエスは病気で苦しむ人々に手を置き、祝福し、聖霊の働きを祈って下さったのです。手を置くことは、一人一人と向き合うことによってしかできないのです。主イエスは一人一人と出会い、それぞれの抱えている問題を聞き、つまり一人一人との人格的な出会いの中でいやしを行なわれたことを示しています。後の5章で出てきますが、あの中風の人を床に乗せて運んできて、屋根をはがして床ごとつり下ろした男たちの信仰を思い出させられるのです。
十字架の出来事を指し示す
まことに主イエスのいやしと悪霊払いの業は、主ご自身がわたしたちの患いと病を、わたしたちに代わってお引き受けになってくださる、あの十字架の出来事を指し示しているのです。あの十字架の出来事と復活、そして父なる神の御許へと高く挙げられるという出来事で決定的となる神のご支配が、もうここで始まっているのです。神の支配が始まりつつあるのをもっとも敏感に感じ取るもの、それは神に敵対する悪霊です。それゆえに悪霊は主の前でわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行ったのでした。悪霊は主イエスがメシアであることを一番よく知っていたのです。けれども、主は悪霊を戒めてものを言うことをお許しになりませんでした。ここではまだ、わたしたちの患いと病を、神への反逆の根本にある問題まで深く掘り下げて引き受けてくださった、罪の赦しの十字架は、まだ隠されているのです。
主がわたしたちの罪のために苦しんでくださった、そのようにして神の御前に最高の執り成しをしてくださったのです。その恵みの出来事を知らされた者として、主イエスを神の子として信じ、告白することをこそ主イエスは待っておられるのです。十字架にかかってわたしたちの神に対する反逆をすべて身に負ってくださった主、復活して、新しくわたしたちを遣わしてくださる主、霊においてわたしたちのいるところに臨んでくださる主、このお方が神の前に執り成してくださるがゆえに、わたしたちも執り成しに生きるようにと招かれているのです。
へりくだる者の祝福
今朝の旧約聖書の御言葉は、イザヤ書57章14節から19節までを読みました。この箇所の著者はいわゆる第三イザヤといわれる預言者です。第三イザヤの活動は、捕囚から解放された後、神殿再建がまだなされない時期です、バビロニアからの帰還者は貧しく、困窮の中にありました。希望に燃えて帰ってきた帰還者には失望落胆の思いがあったのです。第三イザヤはそのような人々に向かって、それでも、なお希望を語るのです。主が開かれる未来に目を向けるよう人々を励ます使命を彼は強く自覚して、これらの預言を語っています。14節の「盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。」という言葉は、同じイザヤ書40章3節の 「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と語った第二イザヤの言葉と関連して述べられています。しかし、「道を備えよ」という意味は、この第三イザヤにおいては、停滞する祖国の再興と神殿の再建へ向けての「道備え」ということが、課題として預言者と民の前に横たわっていたのです。再建を妨げている「つまずきとなる物を除く」ことが大きな課題としてありました。その「つまずき」とは、17節の「貪欲」の罪のことを指している可能性があります。それらを取り除けないままでいる帰還民の現実、帰還後のイスラエルの現実に対して語られていることになります。神の怒りによって裁かれて衰えているか(16節)、神に背いて己が道を行ったなれの果てであるか(17節)、その現実に違いがあっても、その現実を前にして、人は打ち砕かれて、悔い改め、正しい道に立ち帰っていけるかというと、必ずしも誰もがそのようにできるわけではありません。そのようにしてしか事態に対処できない現実がそこにあったのです。第三イザヤは15節後半で次のように語ります。
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。(15節後半)
この事実のうちに希望と慰めがあります。そのつまずきの原因がどうであれ、神の前にへりくだり、打ち砕かれた心で神に向かおうとする「霊の人」と共に、神は共におられる。神はいつもその人の側にいて共におられる、ここに大きな希望があり、慰めがあります。そして、このように考えることは、新約聖書の十字架の低きに下るという神理解へとつながるものです。イスラエルが神の御心に目を留めず、繰り返し罪を犯し、神を拒む生き方のなれの果てが、神殿の崩壊、国の滅亡、捕囚という現実として彼らの前に存在しました。しかし神はいつまでも怒りを示し続け、姿を隠されるのではありません。イスラエルに対して実に慰めに満ちた言葉、神の無限の愛を示す言葉を語るのです。18節に次のように示されています。
わたしは彼の道を見た。
わたしは彼をいやし、休ませ
慰めをもって彼を回復させよう。
民のうちの嘆く人々のために
主なる神はずっと彼らの苦しんでいる現実を見ておられたのです。だからその道を見たといわれます。ただ見たというのでありません。神ご自身が心を痛めて彼らを見ておられたのです。そこには、相変わらず打ち砕かれて悔いるということもせずにいた者もいました。しかし神は、そういう存在も含めて、心を痛め、ご自分の民の一人一人の歩む「道」を見たというのです。そして、「わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために」と主は言われるのです。その一人びとりに向かって、神のいやしと、休息と、慰めを語っているのです。
聖書が伝えることは、常に、神を見上げ、神を信頼しなさいということです。いやしを求める人に対して伝えていることは、あなたも罪人だが、罪人のあなたを神は愛されているということです。そのためにイエス・キリストは、十字架につけられたのです。私たちに必要ないやしは、神ご自身と出会うことです。聖書の記しているいやしとは、神との関係の回復に他ならないからです。そして、聖書が明確に約束しているのは、将来、再臨のイエスによって世界は回復され、福音を信じて受け入れたすべての人々も回復されるということです。この究極的ないやしに目をとめる時、私たちは大きな力を与えられるのです。それが、聖書がいやしについて私たちに教えていることです。祈ります。

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