2/11説教「漁師を弟子にする」

はじめに
今朝のルカによる福音書5章10節にある「人間をとる漁師」という言葉は印象的な言葉です。私が小学生の頃、教会の日曜学校に通うと、必ず一枚の小さなカードがもらえました。聖書のことばと絵か書いてあって、羊飼いとか、イエス様が病人をいやしているところとか、聖書の中の場面が子供が喜ぶような絵で描かれていました。それをもらうのが嬉しく、何枚も溜まりました。その中に、漁師が小舟から網を打っている絵がありました。それが今朝の聖書の箇所のカードです。クリスチャンは聖書の話しを自分に当てはめたりするものです。私は福音書の中の職業を意識しました。主イエスの職業は大工でした。家を作ったり、農機具を作ったりもしたでしょう。またペトロやヨハネのイエスの弟子には漁師がいましたし、マタイやザーカイは徴税人でした。律法学者や東から来た博士は学者です。特に東から来た博士は、今で言えば天文や宇宙科学者かもしれません。主イエスの弟子にはいませんでしたが、羊飼いは今の酪農家や養豚業、養鶏業者かもしれません。百人隊長は自衛隊の幹部でしょうか。大人になってもその意識はあり、私は市役所時代、税務の関係が多かったし、税の徴収の仕事もしていたので、自分をマタイやザーカイのような徴税人になぞらえていました。今でも、木に登って主イエスに声をかけられたザーカイの話しが好きです。大磯教会のあるこの地は、海岸近くの漁港近くの教会ですから、主イエスが最初に福音を語ったガリラヤ湖に面したカファルナウムの会堂になぞらえられるかもしれません。今朝の聖書の話しは、ガリラヤ湖の湖畔で漁師の青年たちを弟子にした主イエスと青年たちの話しです。早速、御言葉の恵みに与りましょう。
ペトロはイエスを知っていた
ルカによる福音書5章1節から11節は、シモン・ペトロを始めとする何人かの漁師たちが、主イエスの最初の弟子となったことを語っている所です。最後の11節に「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とあります。すべてを捨ててイエスに従った「彼ら」とは誰だったのでしょうか。ここに名前が挙げられているのは、シモン・ペトロと、10節にあるゼベダイの子のヤコブとヨハネです。ただ、シモン・ペトロはこの第5章で初めて主イエスと出会ったのではありません。シモンが既に主イエスを知っていたことが示されているのは4章38節です。先週の説教の箇所ですが、主イエスはある安息日にカファルナウムの町の会堂での礼拝において教えを語り、悪霊に取りつかれた人を癒されました。その礼拝の後、シモンの家にお入りになったと記されています。ですから、シモンが主イエスを家に招いたということかもしれません。シモンはカファルナウムの会堂において既に主イエスの教えを何度か聞き、感銘を受けたのです。安息日の礼拝の後、自分の家に主イエスを招いてさらに教えを聞き、もてなしをしようとしたのでしょう。しかし生憎この日、シモンのしゅうとめが高い熱を出して苦しんでいました。彼の家に来られた主イエスは彼女の病気を癒して下さったのです。このようにルカによる福音書は既に、シモンが主イエスの教えを聞き、自分の家に招き、身内の病気を癒していただいたことを語ってきたのです。それが、今朝の箇所の出来事への備えとなっているのです。
主イエスの方から
舞台はゲネサレ湖畔、ガリラヤ湖とも呼ばれる湖の岸辺でありました。シモンとゼベダイの子ヤコブとヨハネは、明け方の漁から帰って来て、岸辺で網を洗っていました。夜の方が魚がよく取れるのでしょう。夜通し働いていたのです。ところが何も捕れませんでした。プロの漁師ですから、魚がいそうなところはよく分かっていたはずです。しかし、網を降ろしても、この日は一匹もとれなかったのです。みじめな思いをしていたのです。シモンは、今は早く網を洗って、ただ眠りに着きたかったに違いありません。ところが、そういうシモンのところに、主イエスは、自分から出向いていって、「舟を貸してほしい」とお願いされました。
主イエスは、大勢の群衆に対して、少し離れたところから話しをするために、沖の方へ舟を漕ぎ出させて、舟から岸に向かって話しをされようとしたのです。シモンは主イエスの頼みとあれば、断るわけにはいきません。しゅうとめの熱を下げてくださった恩人でもあり、もちろん尊敬もしています。それで舟を出しました。結果的に、主イエスに一番近いところで、説教を聞くことになりました。しかし、これはペトロが選んだものではありませんでした。いわば、主イエスに無理矢理、そこに置かれたのです。そこにあえて、居させられたと言ってもいいでしょう。シモンが主イエスを選んだのではなく、イエス・キリストがシモンを選んだのです。
圧倒的な恵み
シモンらが主イエスのお言葉通りに沖へ漕ぎ出して網を降ろしてみると、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうに」なりました。そこでもう一艘の舟に助けを求めたところ、二艘の舟に魚がいっぱいになり、その重さで沈みそうになったとあります。このもう一艘の舟に、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが乗っていたものと思われます。プロの漁師である彼らが一晩中苦労して様々な工夫をしても何もとれなかったのに、主イエスのお言葉通りにしたところ、二艘の舟が溢れるほどの大漁になったのです。シモンたちがこの大漁によって体験したことは、第一に、主イエスがお語りになる言葉の持つ力です。神の言葉は人間の語るどのような言葉よりもはるかに大きな力を持っており、また人間のあらゆる知識、常識を超えてみ業を行うことのできるということを彼らは体験したのです。そして彼らがこの大漁によって体験したもう一つのことは、主イエスの言葉に従うところに与えられる神の圧倒的な恵みです。
しかしシモンは、主イエスをお乗せして漕ぎ出し、さらに、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言ったのです。その結果、この奇跡的大漁が与えられました。彼らはそこに、主イエスを通して与えられた神の大いなる恵みを体験したのです。それは、魚の重みで舟が沈みそうになったということが象徴的に示しているように、自分のちっぽけな舟には入り切らないような圧倒的に大きな恵みが押し寄せてきて、その重さで舟が沈みそうになる、そのように自分の人生を揺さぶられるような恵みを彼らは体験したのです。主なる神の圧倒的な恵みの体験が、彼らが主イエスの弟子となるための備えとなったのです。
恐れることはない
いったい何が起ったのでしょう。シモンは生ける神と出会ったのです。自分がまさに生ける神の前に立っていることを知ったのです。それはいわば神の光が差し込んでくるようなものです。うす暗い人生に、神の光が差し込んでくると何が見えてくるのか。それは汚れです。自分の罪です。初めて自分がいかに不遜で傲慢に生きているかが見えてくるのです。シモンは、イエスの足もとにひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8節)と言わざるを得ない自分であることが見えたのです。
しかし、そこでシモンは驚くべき言葉を耳にしたのです。それは恐らく彼が生涯忘れることのできなかった主の御言葉であったでしょう。主はひれ伏したシモンに「恐れることはない」と言われました。「恐れることはない」。それはイエス・キリストを通して語られた神の宣言です。「恐れることはない」という言葉が神の側から語られるとき、人はもはや「主よ、わたしから離れてください」と言う必要がなくなるのです。「恐れることはない」という言葉が与えられるとき、神の現実の前に恐れおののかざるを得ない罪人が、再び頭を上げることができるのです。いや、シモンはただ頭を上げることが許されただけではありません。主イエスはさらにシモンに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節後半)と言われたのです。シモンはやがてその本当の意味を知ることになります。なぜならシモン自身、主によって生け捕りにされた者だからです。実りのない労苦の虚しさにうめいていた彼の人生に、主イエスが神の言葉を携えて入ってこられたのです。そして、彼を捕え真に生きる者としてくださったのです。さらにそのような主イエスの働きへと、彼は召されたのです。
罪深い者
けれども、ここが肝心な所なのですが、シモンたちは、この恵みの体験によって弟子になったわけではないのです。この奇跡的大漁、神の圧倒的な恵みの印を見たシモンは、主イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫んだのです。これは深い恐れの表明です。シモンは、自分が今主イエスと共に舟に乗っていることに深い恐れを覚えたのです。それは、自分が罪深い者だからです。「わたしから離れてください」「私は罪深い者ですから、あなたのみ前に立つことなどできません」ということです。なぜ御前に立つことができないのか、それは相手が神だからです。罪深い者は、生ける神のみ前に立つことはできないのです。つまりシモンはここで初めて、自分が生けるまことの神のみ前にいることに気付いたのです。そしてそのことが分かると同時に、自分が罪深い者であることに気付いたのです。彼はこの時まで、平気で主イエスの前に立っていました。主イエスを家にお招きし、また自分の舟にお乗せして、間近に座ってみ言葉を聞いていました。「他ならぬあなたのお言葉ですからやってみましょう」と言ったのです。それは、主イエスのことを、神の言葉を語ってくれる、立派な、尊敬すべき先生ではあっても、まことの神であられるとは思っていなかったということです。しかし今、この奇跡的大漁を体験したことによって、彼は、今、自分はまことの神ご自身のみ前にいるのだということに気付かされたのです。そしてそれと同時に、自分は神の前に平気な顔で立っていられるような者ではない、罪深い者だと気付かされ、ひれ伏さずにはおれなかったのです。
主イエスの招き
主イエスはひれ伏したシモンに、「恐れることはない」と語りかけました。シモンは、そしてシモンのみでなく私たちは、確かに、主イエスのみ前に立つことに深い恐れを抱かずにはおれない罪深い者なのです。しかし私たちはよく、自分は罪人だと言いますけれども、本当にそう思っていることはあまりないのではないでしょうか。私たちは、自分自身のことが本当には分かっていないのです。シモンも、私たちも、主イエスが「恐れることはない」と語りかけて下さらなければ、み前に立つことはできない罪人なのです。つまりこの「恐れることはない」とは、「あなたの罪は赦された」という宣言です。私たちに対する主イエスのお言葉として正確に言い直すならば、「わたしがあなたの罪を全て引き受け、それを背負って十字架にかかって死んだ。それによってあなたの罪は赦された。だから恐れることはない」ということです。主イエスはこのことのためにこの世に来て下さり、十字架の死への道を歩んで下さったのです。
「恐れることはない」と語りかけて下さった主イエスは、それに続けて、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃいました。これは主イエスの招きの言葉です。罪を赦され、生けるまことの神であられる主イエスと共に生きる者とされた、その恵みへと主イエスが人々を招いて下さる、そのみ業のために主が彼らを用いようとしておられるのです。このお言葉によってシモンとその仲間たちは、舟を陸に引き上げ、すべてを捨てて主イエスに従ったのです。主イエスの弟子になったのです。そこにおいて決定的なことは、生けるまことの神であられる主イエスと出会い、自分の罪をはっきりと知らされ、その罪の赦しの宣言を聞き、主イエスの招きを受けることです。私たちもそのようにして、主イエス・キリストに従う弟子、信仰者となるのです。
信仰の神髄
神の言葉を聞いたシモンは、自分のプロとしての常識を捨てて主イエスのお言葉に聞き従い、再び網を降ろしたのです。その結果、舟が沈みそうになるほどの奇跡的な大漁になりました。神の圧倒的な恵みが自分に押し寄せて来て、人生を揺さぶられるような体験をしたのです。これらのことは、私たちが、信仰を求め、聖書に親しみ、教会の礼拝において神の言葉を聞いていく中で、様々な形で体験することです。そして私たちが一人の罪人として主イエスの前にひれ伏す所に、主イエスの、「恐れることはない」というみ声が響きます。主イエスの十字架の死と復活によって成し遂げられた罪の赦しの恵みの宣言が与えられるのです。この赦しのみ言葉と共に、主イエスからの招きが与えられます。信仰とは、イエス・キリストと共に生きようとしている私たちが、自分の罪を示され、打ち砕かれて、主イエスのみ前にひれ伏し、そこに主イエスによる罪の赦しの恵みを与えられて、主の招きに従っていくところにこそ与えられるのです。シモン・ペトロは、主イエスからの大きな恵みの体験の中で、圧倒的な生ける神のみ業の前にへりくだり、ひれ伏したのです。これこそ神への礼拝そのものの姿です。礼拝とは神と出会うこと、人間のいかなる行為も、神の前に誇ることのできない塵に等しきもの、一人一人がいかに罪深い者であるかということを知らされる場なのです。信仰の神髄は、生けるまことの神であられる主イエス・キリストとの出会いと、そこで与えられる罪の赦し、そして主イエスによる招きにこそあるのです。私たちは礼拝に集い、神の言葉の説教と聖餐とによってこのことを繰り返し体験しつつ、主イエスの弟子として生きていくのです。ここで主イエスが最後に言われた言葉は、「恐れることはない、今から後、あなたは人間をとる漁師になる」でした。私たちも、家族、出会った人、誰にでも、主イエスと出会える教会へとお誘いしたいと思います。祈ります。

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