はじめに
受難節第3主日の今朝、私たちに与えられた新約聖書の箇所は、ルカによる福音書22章39~46節までです。この場面は、マタイ福音書やマルコ福音書にあるように「ゲッセマネの祈り」として知られているところです。ところがこのルカ福音書は、「ゲッセマネ」という言葉が出てきません。その理由というのは、ルカ福音書が書かれた背景が関係していると言われます。すなわちルカ福音書は、ローマに住む異邦人のために書かれたものなので、エルサレムの細かな地名は省略されたのではないかと思われるのです。エルサレムから遠く離れたローマの異邦人に伝えるには、オリーブ畑のある山、オリーブ山で十分なのです。加えて、ルカ福音書のこの場面は、マタイやマルコによる福音書のゲッセマネの祈りの記事よりも簡潔に記されています。
さて、本題に入る前に、もう一つ、この聖書の翻訳について説明しなければなりません。聖書の翻訳にはその元になる写本があります。新約聖書の場合は紀元後4世紀の写本によっているのですが、この43節、44節のカッコで括られた部分は、写本にはない部分なのです。ただし写本に無くても、さらに古いパピルス写本などに断片的ではあっても、元来の本文である可能性があるものもあります。しかし、この43節、44節の場合は、写本よりも後に付加されたものということがほぼ確実なようです。したがって、この箇所を除いても意味は通じるので、今回は触れません。そうすると今朝のルカ福音書の箇所は6節だけの短い聖句です。先週の説教では長い聖書箇所を取り上げで、結局、後半部分は省きましたが、今朝は、ごく短い箇所です。このわずかな箇所でルカは何を伝えようとしているのでしょうか。結論から言いますと、この場面のテーマは「祈り」です。始めに主イエスは言われます「誘惑に陥らないように祈りなさい」。そして主イエスご自身の祈りが記されます。最後に「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」という主イエスの言葉でこの場面が締めくくられます。このように、ルカはキリスト者の「祈り」について伝えるために、この場面の記述を簡潔にして「祈り」を際立たせているのです。では、早速、み言葉の恵みに預かりましょう。
この杯をわたしから取りのけてください
主イエスは「いつものように」オリーブ山に行かれました。21章37節には「日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って、オリーブ畑と呼ばれる山で過ごされた。」とあります。主イエスはいつものように、いつもの場所へ行かれました。ですから、ユダは主イエスを捕らえる者たちを案内することができたのです。そして、いつもの場所に来ると、主イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言って、少し離れた石を投げて届くほどの所で、ご自身ひざまずいて祈られました。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」(42節前半)
ここで主イエスが言われた杯というのは、これから負われる十字架のことです。主イエスは神の子だから何の苦もなく十字架を負われたのではありません。罪人の救い主として真に人となられた主イエスにとって、十字架はできることなら取りのけてほしいものでした。主イエスは真の人となられました。主イエス自身にも誘惑が訪れます。それは十字架から逃げ出すという誘惑です。「この杯をわたしから取りのけてください」という願いに、主イエスの揺らぐ気持ちが表れています。明日の朝には十字架で処刑されることが分かっているので、主イエスはこの場から逃げたいという誘惑に直面し、葛藤しています。すべての衣服ははぎ取られ、屈従させられた死刑囚となり、神にも呪われた存在とみなされるのです。誰もが逃げ出したい状況です。人の子である主イエスも当然逃げ出したいのです。十字架での処刑という結果はあんまりではないか、ということが、主イエスの本音でしょう。しかし、主イエスは続けて「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(42節後半)と祈られました。十字架は、最も悲惨な出来事の一つです。最も卑劣な虐殺の一つです。そのため、十字架から逃げるという至極まっとうな主張が、最も小さな誘惑の事例となるのです。この誘惑に陥らなかった方の祈りが、私たちの日常生活で起こる大小さまざまな誘惑に陥らないための祈りの模範例となるためでした。
御心が行われますように
主イエスは「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈られました。これは「主の祈り」の第三祈願の「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と同じ内容です。自分の考えや願望ではなく、神の意思が行われることを祈るのです。主イエスは100パーセント正しい状況の中でも、このように祈ることができました。主イエスは「主の祈り」を教えてくださっただけでなく、わたしたちと共にこの祈りを祈ってくださるのです。そしてこの主イエスの祈りは、私たちキリスト者の祈りがどのようなものであるかを明らかにするものです。私たちは神に聞いていただきたい様々な願いがあります。私たちはそれを神に祈ります。しかしそのとき、私たちは神の御心が成るところに救いが現れることを信じ、すべてを神にゆだねて「御心が行われますように。」と主の祈りの中で繰り返し祈り続けていくのです。私たちの祈りは、自分の願いを叶えるための祈りではありません。私たちのすべてを知って、すべてを益とし、救いを成してくださる神に、すべてをゆだね、御心がなされることを求めてゆく祈りなのです。
起きて祈っていなさい
イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻ってご御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。(45節)とあります。主イエスは「石を投げて届くほどの所」で祈っておられました。どれほどの時間、主イエスが祈られたか分かりませんが、弟子たちは主イエスの祈りの言葉を聞き、切に祈る姿を見ていました。だからこうして主イエスの祈りの言葉、その姿が語り継がれ、福音書に記されたのです。弟子たちは、このエルサレムで主イエスが苦難を受けると告げられたこと、自分たちのところから去って行くと言われたことを思い返し、深い悲しみに包まれ、悲しみのあまり意識を保ち祈り続けることができませんでした。
イエスは言われた。46節「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」主エスはこの場面の最初と最後で「祈りなさい」とお命じになられました。ここで「誘惑」と訳された言葉は、22章28節では「試練」と訳されています。神と共にあろうとする信仰は、常に試練・誘惑にさらされます。そして誘惑に陥らないために「祈りなさい」と主イエスは命じます。弟子たちが寝てしまっているのをご覧になった後には「起きて祈っていなさい。」と言われました。ここで「起きて」と言われた言葉は、霊的に目覚めていること、罪の中で眠っているのではなく、神の御前に立っていることを表します。そして神に語り掛け、神の声を聞くのです。祈りは神と共にあるためになくてならないものです。主イエスがエルサレムに来られ最初に宮清めをし、「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」と言われたのも、神の御前に出る神殿において、なくてならぬものが失われていたからです。神を信じる、神と共に生きるということは、祈るということが含まれているのです。
愛をもって互いに忍耐しなさい
一昨日、3月1日(金)は世界祈祷日でした。今年は茅ヶ崎恵泉教会が会場で行われました。コロナ禍があったこともありますが、私は久しぶりに出席しました。今年はパレスチナからのメッセージということもあって、パレスチナのために祈り、現状を少しでも理解したいということもあって出席しました。聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙4章1節から3節でおおよそ次のような箇所です。パウロがエフェソの信徒へ勧めの言葉を語っているわけです。「あなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなでむすばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」という御言葉を茅ヶ崎堤伝道所の細井こう一先生がメッセージを語られました。印象に残ったのは、霊による一致ということです。人は皆考えが違って当然なんだということ。百人いたら百人みな個性が違い考えが違うのはあたりまえだということ。みな主なる神に救われた罪人だということで一致があればいい。ということです。そのために寛容の心を持つように努めなければならないということを教えていただきました。私たちは常に自分を自己絶対化してしまう誘惑というか試練があります。絶対に正しいと言い張る人が、力と富を握った場合、地上に最悪の事態が起こります。いや、現に世界各地で起きています。神の意思を優先することが、私たちを自己絶対化の誘惑からから守ります。誘惑に陥らない祈りの模範は、「自分はもしかしたら正しくないのかもしれない」という余地を言い表すことです。つまり「わたしの願いではなく、あなたの意思を地上に行ってください」(42節)という祈りです。
あなたが罪をすべて心に留められるなら、誰が耐ええましょう
今朝の旧約聖書の御言葉は詩編130篇1~8節です。この詩編は、悔い改めの歌として、キリスト教の伝統の中で懺悔の詩編として用いられています。ルターの「深き悩みより、われはみ名を呼ぶ」(讃美歌21・22番マルティン・ルター作)という悔い改めの歌のもとになった詩編です。ルターはドイツ東部アイスレーベンに炭鉱夫の子として生まれ、エルフルト大学で法律を学び、アウグスティヌス派の修道士になり、ヴイッテンベルク大学神学部教授になりますが、カトリックの教義に疑問を抱き、有名な「95か条の提題」を掲げ、宗教改革ののろしをあげます。ルターは4つの礼拝の改革点、すなわち、聖書のみ、信仰のみ、万人祭司、神の恵みとしての典礼を具体化するため、聖書をドイツ語に翻訳し、会衆の賛美のための歌であるコラールを生み出しました。
詩編130編は、繊細な感受性と単純で誠実な言葉、それに罪と恵みの本質についての最も深い理解とを合わせ持っている詩編と言われます。ルターは確かな宗教的感受性をもって、この詩の中に新約聖書の敬虔の精神に近いものを認め、この詩を最高の詩としてパウロ的な詩の一つに数えた(『ATD旧約聖書註解』255頁より)と言われます。讃美歌21ではルターの歌詞に異なる旋律をつけて2曲収録しています。22番と160番です。
1~6節は個人の叫びのようであるのに対して、7節以下はイスラエル全体に対し神に信頼するようにと歌っています。幾つかの説があり、どういう形をとって現在に至ったかは分かりませんが、キリスト教の伝統の中においては、懺悔の詩編として用いられています。この詩の全体の調子は罪に対する神の厳しい審判よりはむしろその寛大な赦しが強く出ており、そこからくる希望が強調されていると言われています。1節の「深い淵の底」とか、海の深みであって、危険と苦悩の象徴をあらわし、あるいは底の知れないほど深い淵を意味しています。この詩人にとってその苦悩は罪の不安であるのか、病気であるのかは分かりませんが、底知れぬ淵の中から詩人を救い出す者はただ神(ヤハウェ)のみであることを詩人は知っているのです。それゆえ詩人は
「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」(2節)と歌うのです。
「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。」(3節)
「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。」(4節)
心の中の不義、これはまさに罪です。外部からの悩み困難も苦しいが、心の中の罪の悩みはもっと苦しく、深い淵の底から攻めるのです。あなたが罪をすべて心に留められるならば、とても耐えられませんと、わたしの罪を赦し給うのは主なる神しかいないのです。あなたを畏れ敬います。とこの詩人は訴えているのです。
5節から後半は、希望です。詩人は神がそのみ言葉に従い、救いを与えてくださるように、希望と期待をもって待つと歌っています。「見張りが朝を待つにもまして」。
主イエスは、私たちの弱さのところまで下ってこられたのです。弱く、傷つきやすく、苦しみに弱く、あわてふためく人間になられたのです。当時は立って祈ったのです。主イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように立って祈りなさい」と言われたのです。しかし、弟子たちは疲れ果てて寝てしまう。しかし、主イエスは「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。」と記されていますが、それは勝つための苦しみ悶えであった。私たち人間が行くべきところに主イエスが行ってくださったので、私たちはその苦しみから解放されているのです。
神は誰一人、見捨てることはありません。この世で人の命の価値がどのように扱われていようとも、どのような苦しみを負わされていようとも、神は決して見捨てません。それどころか、人の負う悲しみも、苦しみも、そのすべてをご自身も負おうとされるのです。主イエスが、私たちにも呼びかけておられます。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。
受難週に、私たちは、主イエスの苦しみに目を向けたいと思います。その苦しみは私たちのためなのです。すべての人のために、神が負われた苦しみであり、神の愛の表われなのです。 祈ります。