3/10説教「イエスの逮捕とペトロの否認」

はじめに
今年は、礼拝説教の聖書の箇所として新約聖書ではルカによる福音書を中心に御言葉の恵みに預かりたいと思っています。特に理由があるわけではありませんが、過去に私が説教した箇所を調べてみたら、ルカによる福音書が少ないように思ったからです。ざっと見たところではヨハネによる福音書からが多かった傾向がありました。そして,今、新年度に向かっての準備を役員会で行っていますが、新年度の教会目標を「伝道」にしようと考えています。3月までが今年度ですが、今年度の教会目標は「信仰告白」でした。新年度の教会目標は「なぜ、何を、いかに伝道するか」というキャッチフレーズで、一年を通して「伝道」について考え、伝道が前進するにはどうしたらいいか、そして出来ることは是非実行してゆきたいと考えています。伝道に向かって教会を整え、教会学校も再開できたらいいと考えています。
さて、受難節第4主日の今朝、私たちに与えられています新約聖書の箇所は、ルカによる福音書22章47節から62節までです。先週が、「オリーブ山での祈り」でしたが、今朝は、前半が「主イエスの逮捕」というところで、後半は「ペトロの否認」という一連の流れの中で主イエスの受難が進んで行きます。早速、御言葉の恵みに預かりましょう。

ユダの裏切り
今朝の箇所の冒頭に「イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいた。」と記されています。これは直前の45節、46節の主イエスが弟子たちに話されたことを受けています。
45イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠りこんでいた。46イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
このお言葉がまだ終らないうちに、ということです。そこに群衆が現れたのです。彼らは、52節によれば、剣や棒を持って、つまり武装してやって来ました。またその中には、祭司長、神殿守衛長、長老たち、つまりユダヤ人の宗教的指導者たちがいました。その人々が、武装した群衆を引き連れて、主イエスを捕えに来たのです。彼らの先頭には「十二人の一人でユダという者」がいました。この言い方は少し変です。何となくよそよそしい言い方です。こんな改まった言い方をしなくても「十二弟子のひとりのユダ」、あるいは「あのユダ」と書くだけでもわかります。それをわざわざ、「ユダという者」などと書いているよそよそしさに、実際にこのユダという男をよそよそしく扱いたい福音書記者ルカの姿勢が、自然に表れていると見る解釈もあります。このような解釈が示すのは、このユダの主イエスに対する裏切り、特に接吻をもって裏切ったということを、なかなか承服できない人々のこころを示しています。
ユダは「いつもの場所」へと、主イエスを捕えようとする人々を手引きして来ました。このユダは、最後の晩餐の時にはそこに共にいました。この晩餐の後、ユダはいつのまにかいなくなり、そして今、主イエスを逮捕しようとする人々を引き連れてこの「いつもの場所」に再び現れたのです。つい先ほどまで主イエスと食卓を共にしていた弟子の一人であるユダのこの裏切りによって主イエスは逮捕されたのです。ユダは主イエスを、逮捕し殺そうとしている人々の手に引き渡したのです。そしてその見返りとして彼は金を受け取り、そしてその計画をこの夜実行に移し、主イエスを彼らに引き渡したのです。それが「ユダの裏切り」の具体的内容です。こうして主イエスは十二人の弟子の一人であるユダによって、殺そうとしている人々の手に引き渡されたのです。主イエスのもとにやって来たユダは「イエスに接吻をしようと近づいた」とあります。「接吻」というのは愛の印です。その愛は男女の愛のみの話ではなくて、弟子が師を敬愛するという愛でもあります。弟子たちはいつも、主イエスに対する尊敬と愛を込めて接吻していたのです。ユダはいつもしていたように主イエスに接吻しようとしました。しかしこの時の接吻は、主イエスを裏切り、引き渡そうとする意図をカモフラージュするためのものでした。主イエスはそれを知っておられましたから、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」とおっしゃったのです。先週の説教で、ユダが主イエスを裏切った動機についてはいろいろな説明がなされていることを紹介しましたが、ルカによる福音書はその理由をはっきり語っています。22章の3節にこう記されています。「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」とあります。つまり、ユダが裏切ったのは、サタンに支配されたためだった、とルカははっきり語っているのです。しかし、イスカリオテのユダも、主イエスが6章12節以下で選んで使徒と名付けられた十二人の弟子の一人だったのです。そのユダが、サタンの力に捕えられて、主イエスを引き渡す者となってしまった、それは、主イエスの弟子として歩んでいたはずのユダが、サタンの激しい攻撃にさらされ、その試練の中で、主イエスにではなくサタンに従ってしまうことへの誘惑に負けてしまったということです。ルカは31節で、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」という主イエスのお言葉を伝えています。ユダもまた、サタンによってふるいにかけられ、その試練の中で主イエスを引き渡す者となってしまったのです。
そうであるならば、このユダの姿は、ユダだけの特別なことではありません。先週の所とのつながりで言えば、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と命じられながら眠り込んでしまった弟子たちは、同じようにサタンによる試練の中で祈りを失い、信仰を失い、誘惑に陥ってしまったのです。さらにこの後主イエスのことを三度「知らない」と言ってしまうペトロも、同じようにサタンのふるいの中で主イエスを裏切ってしまったのです。そしてそれは私たち一人一人の姿でもあります。主イエスに従っていくという信仰の歩みの中で、私たちも、サタンのふるいにかけられるような試練に遭います。その中で、祈りを失い、信仰を失い、主イエスを知らないと言ってしまう、そういう誘惑のとりこになってしまうのです。ユダの裏切りを、私たちは決して他人事として眺めていることはできないのです。

心の重荷
サタンの誘惑に負けた思いや自分の弱みを隠す暗い思いというものを、おそらく誰もが経験しているかもしれません。私はある会社にいるときに顧客からお金を回収してくるという業務についていたことがありました。何人もの同僚がそれぞれの受け持ち顧客を持っているのですが、ある時、同僚の一人が悪質な顧客に悩まされ、自分で立て替えてしまい、それを脅されて更に深みに入ってしまい、明るみに出て解雇になってしまいました。その時に、会計の女性職員が、「他にも立替えている社員がいると」、言いました。私の方を見て言いました。私も立替えていたのです。まさにペトロが大祭司の屋敷の中庭で、ある女中が、ペトロを見つめ、「この人も一緒にいました」と言われ夢中で否定した場面を思い起こさせます。その心持としては同じだったなと思いました。何十年前のことですが、その時の暗い気持ちを今でも覚えています。

闇が力を振るっている
このように今朝の箇所には、愛の印であるはずの接吻によって主イエスを裏切り、引き渡したユダと、彼の手引きによって主イエスを捕えるために剣と棒を持ってやって来た人々と、彼らに抵抗して剣を抜いて切りつけた弟子たちとが登場していますが、その誰もが皆、サタンのふるいにかけられ、その試練、苦しみの中で、神の御心に従うよりも自分の思いや願いに従って生きようとする誘惑に陥っており、その結果恐れに支配され、お互いを傷つける者となっている、そういう姿が描かれています。53節の終わりの主イエスのみ言葉は、そういう事態を見つめて語られていると言えるでしょう。「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」。「今はあなたたちの時」の「あなたたち」は、ユダや主イエスを捕えに来た人々だけのことではありません。弟子たちも含めた人間全体がそこで見つめられているのです。今は人間の時、人間が支配している時、つまり人間が自分たちの力を振るい、神の御心ではなくて自分の思いや願いを貫こうとして必死になっている、そういう時だ。そこで本当に力を振るい、支配しているのは、人間ではなくて闇なのだ、と主イエスは言っておられるのです。闇が力を振るっている、闇が支配している、それはサタンが力を振るい、支配している、と言い換えてもよいことです。サタンはまさに、ユダをも、弟子たちをも、そして主イエスを捕え殺そうとしている人々をも、捕え、支配し、苦しみによってふるいにかけ、全ての者たちを神のもとから引き離し、自らの支配下に置こうとしているのです。そのためにサタンが用いているのが、恐れの思いです。人間は、恐れに支配され、その中で身を守ろうと必死になることによって、お互いを裏切り、引き渡し、傷つけ、そのようにして良い関係を破壊し、サタンの、闇の手の内に陥っていくのです。
「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」。それは主イエスが逮捕された時だけのことではありません。私たちが生きている「今この時」もまた同じではないでしょうか。ユダの姿にも、弟子たちの姿にも、そして群衆の姿にも、私たちは自分自身を見出します。人間が力を振るい、支配し、自分の思いや願いを貫こうと必死になって生きている、しかしその中で実は恐れの思いが深く人々を捕えている。それゆえに身を守ろうとして自分の力をやたらに振り回し、人を傷つけてしまう、そのようにして闇の力、サタンの力に支配されてしまっている、それが私たちの、そしてこの社会の現実の姿なのです。
ペテロを見つめるイエスの眼差し
22章60節で『だが、ペトロは、あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた』とルカは記します(22:60)。その鳴き声でペテロは我に帰ります。そして主イエスが言われた言葉を思い出しました。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」(22:34)。その時「主は振り向いてペテロを見つめられた」とルカは記しています。主イエスが振り返られた、イエスの悲しげな顔がペトロに迫って来ました。ペトロは「外に出て激しく泣いた」(22:62)とルカは記します。ペトロは最後の晩餐の席上で、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(22:33)と言っています。そのペトロにイエスは言われました「言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」(22:34)。その言葉通りになりました。しかし、主イエスは同時に言われました「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:31-32)。ここにはつまずきの予告と同時に赦しの予告が為されています。人は「心は燃えても肉体は弱い」(マルコ14:38)ことを主イエスはご存知だったのです。「心は燃えても肉体は弱い」、聖書はペトロの弱さを否定しません。むしろこの弱さを認めることによって、本当に強い人間になれると主張します。自分のしたことは間違っていた、自分が主イエスを十字架につけた、この悔改めをした時に、ペトロの上に主イエスの言葉がよみがえります「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。主イエスは全てをご存知です。私たちがいざと言う時には愛する人さえも容易に裏切る存在であることもご存知です。 
闇はすでに無力
教会はこのペトロの立ち直りを通して生まれていきます。「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)という招きを受けて、ペトロたちは三年間主イエスに従って来ました。その結果が、主イエスの無力の死でした。主イエスに従った三年間は何だったのか、徒労だったのか、「私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」が(24:21)、その望みが砕かれたのです。その絶望の中でペトロたちは復活の主イエスに出会い、再度招かれて、絶望から、立ち直るのです。
聖書はペトロが主イエスを三度否認したことを何故、こんなに詳しく知っているのでしょうか。ペトロは弟子たちに、自分の失敗を繰り返し語ったのでしょう「私はイエスを傷つけた。失望させた。それでもなお主イエスは私を愛し、赦して下さった。主イエスはあなた方も同じ様に赦してくださる」と。人は弱い、過ちを犯す、しかし神はその過ちを責められない。自分が弱いことを認め、その弱さをも神が受け入れてくださる事を知る時に、人は挫折から立ち直ることが出来ることをペトロの経験は教えているのです。私たちも、また教会も、まさに闇の支配だとしか言いようがないようなところに繰り返し追い込まれます。自らの無力を嘆かなければならない時が何回もあったのです。今もそうかもしれません。しかし、その嘆きのなかで私たちは決して絶望しません。使徒パウロは、自分は「途方にくれても行き詰まらない」と言い切りました。主イエスが闇の支配をご自分の身に引き受けてくださったからです。ご自分の死をもって、死を既に滅ぼしてくださるからです。闇はもはや無力だからです。絶望というものが、なくなってしまったからです。私たちの生活が、この望みに支えられるものとなるように祈りましょう。祈ります。

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