三度繰り返して
今朝のヨハネによる福音書21章15節以下は、復活の主イエスと弟子たちが会われ、食事をされた最後の場面になります。この食事の後で、主イエスとシモン・ペトロの間でなされた問いと答えが記されています。主イエスはここでペトロに、三度繰り返して、「わたしを愛しているか」と問われました。ペトロはその都度、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。そういうことが三度繰り返されたのです。主イエスのこの三度の問いかけには前提があります。それは18章において、主イエスが捕えられ、大祭司の屋敷に連行された時に、その中庭で様子を伺っていたペトロが、周囲の人々から「お前もあのイエスの弟子だろう」と言われて、三度「違う」と言って、主イエスとの関係を否定したということです。三度主イエスのことを「知らない、関係ない」と言ったペトロに、主イエスは三度「わたしを愛しているか」と問われたのです。主イエスは、ペトロの愛を疑っておられたのではなくて、主イエスのことを三度知らないと言ってしまったペトロに、三度このように問いかけることによって、ペトロから「あなたを愛しています」という答えを三度引き出しておられるのです。それによって、ペトロが語ってしまった、主イエスとの関係を否定する言葉を、一つひとつ上書きするように、言い換えさせて下さったのです。つまりペトロはこのことによって、主イエスを裏切り、関係を拒んでしまった大きな罪を赦されて、新たに歩み出すことができたのです。復活して生きておられる主イエスが、ペトロの罪を赦して、ご自分を愛する者として新しく生かして下さったということを、この話は語っています。復活した主イエスが恵みの食事に招いて下さり、主イエスと共にいる喜びを味わわせて下さった、その体験の中で彼は罪を赦され、主イエスを愛する者として新しく生き始めることができたのです。
わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです
ここで注目すべきことは、ペトロが主イエスに答えた、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という言葉です。ペトロは、「わたしはあなたを愛しています。本当です。信じてください」と答えたのではなかったのです。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」そう答えたのです。それは何か自信たっぷりの言葉のようにも聞こえますが、実はそうではありません。ペトロは、「私はこんなにあなたを愛しています」とはもう言えないのです。彼は以前、「あなたのためなら命を捨てます」と威勢のよいことを言っていました。しかしいざとなると、三度、主イエスとの関係を否定してしまったのです。ですから、主イエスが三度目に「わたしを愛しているか」と問われたので彼が悲しくなったというのも、「イエスさまは自分の愛を信用して下さっていないのか」と悲しくなったのではないと思うのです。そもそも信用していただけるような愛など自分の中にはないことをペトロは思い知らされているのです。悲しくなったのは、三度目に問われたことによって、ペトロが三度主イエスを「知らない」と言ってしまったことを主イエスが意識しつつ問うておられることがはっきり分かったからでしょう。自分には、主イエスを愛しているなどと言う資格は全くないことを、彼はもう一度ここで確認させられているのです。主を愛しているなどと言う資格の全くない自分を、主イエスはなお愛して下さっており、罪を赦して、食事に招いて下さっており、主イエスを愛する者として新しく生かして下さっていることを、ペトロは心にしみているのです。
信仰ではなく愛を問われた
しかし、復活の主イエスは、ペトロに対して、なぜ、主イエスに対する信頼を求めたのではなく愛を求められたのか。主イエスを裏切ってしまった弱い信仰を問われたのではなく主イエスに対する愛をもとめられたのです。「この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われたのはなぜなのか。なぜ信仰を求めずに愛をお求めになったのかという疑問が起きます。
ところで、今日の礼拝説教を準備している時に、メールで元鎌倉雪ノ下教会の牧師で東京神学大学の教授でもあった加藤常昭隠退教師が一昨日の4月26日、95歳で逝去されたと連絡が入りました。明日の12時に鎌倉雪ノ下教会で葬儀があるそうです。私も多くの説教集で説教を準備する際に随分と御世話になっている先生ですが、直接教えを受けたことはありません。ただ遠い昔、50年ぐらい前の話しですが、私が平塚富士見町教会の青年信徒であった当時、連合長老会の信徒修養会の際、講演された加藤常昭牧師に教会形成についての質問をしたことを覚えています。その時は明快な答えはいただけませんでしたが、戦後の日本における偉大な説教者であったことは確かです。その加藤常昭牧師がその説教集で、この箇所について次のようなことを語っておられます。
主イエスが、律法学者たちと対話されたとき、十戒の<おきて>は、神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することに尽きる、と言われている。神が与えられた十戒は神と隣人を愛することを語っておられる。それは何を意味するのか。私たちの信仰生活に、もし問題があるとすれば、その一つの原因は、私どもが、自分は信じてはいるが、まだ真実に主イエスを愛しきってはいないということにあるのではないかということであります。少なくとも、まず私ども人間の関わりにおいて考えるならば、ある人のすることは間違いないし、安心していられるという意味で、その人を信頼し、そのすることを信じている。しかし、その人を愛しているかということになると話は別であるということがあると思います。愛とは何か。親しさとも言えるし、隔たりを越えることでもあると言えます。ペトロにとって、どうしても自分で越えなければならないものがあった。・・・それは既に、先ほどから私どもが思い起こしているように、ペトロがこれまでに三度、イエスを知らないと否認の言葉を口にしていることです。それは何よりも愛の拒否ということです。主イエスの窮みに至る自分への愛を拒否したことです。主イエスに対する自分の愛を断念したことです。その動機は何といっても死です。死への恐れです。死が主イエスと自分との間に立ちはだかり、愛の絆を断たせた。こころの深くでは主イエスに対する愛を断つことがなかったペトロであったでしょう。それだけに、死の恐怖に負けての愛の断念は、ペトロに既に深い悔恨、そして悲しみの傷を残していたでしょう。そのペトロと向かい合い、このペトロの殉教を視野に入れつつ、ここでも死を見据えつつ、その死の絆を断ち切って甦られた主が、三度、改めて愛を求められる。ペトロは、そこで初めて真実の悔い改めに至る。そして、愛を新しくしていただく。しかも、このとき、また死に勝つのであります。と。
わたしの羊を飼いなさい
ペトロのこの答えを受けて主イエスは、「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃいました。主イエスの羊である教会の信者たちを養い、守り、導く務め、教会の指導者としての務めがペトロに与えられたのです。ここには教会とその指導者について大事なことが示されています。最も大切なことは、主イエスが教会の信仰者たちのことを、つまり私たちのことを、「わたしの羊」と言っておられることです。教会は、私たちは、主イエスの羊の群れです。主イエスご自身が私たちの羊飼いとなって下さっているのです。主イエスはこの福音書の10章11節で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃいました。主イエスが十字架にかかって命を捨てて下さったことによって、私たちは罪を赦されて、主イエスの羊とされたのです。そして復活して生きておられる主イエスが、今も良い羊飼いとして私たちを養い、守り、導いて下さっているのです。今朝の旧約聖書の御言葉は詩編23編です。その2節から4節に次のような言葉があります。
2主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い、
3魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
4死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
人間は、どんなに強がりを言い、しっかりしていそうに見えても、ほんとうは羊のように弱く、たよりない存在なのです。多くの不安や恐れにおののかざるを得ないものです。殊に「死の陰の谷を歩む」時はそうなのです。主イエスが私たちの牧者として、いつも私たちと共にいて導いて下さるのでなければ、私たちはとてもその苦しみに耐えることは出来ません。
神は、御子イエスを遣わされ、私たちのもとに来られ、はっきりと宣言されたのです。「わたしはよい羊飼いである」と。そして「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われ、ほんとうに私たちの罪を負って、十字架にかけられ、私たちのために死んで下さったのです。その羊飼いである主イエスが、ペトロに、「わたしの羊を飼いなさい」とお命じになり、彼を教会の指導者としてお立てになったのです。ここに、教会の指導者とはどのような者であるべきかが示されています。教会の牧者、羊飼いはあくまでもイエス・キリストです。指導者はその主イエスに従い、仕えることによって、主イエスの羊を飼う働きをするのです。そしてペトロがこの務めに立てられたのは、彼が罪のない、清く正しい立派な人だったからではありません。彼は主イエスを三度「知らない」と言った罪人であり、自分ではもう「主イエスを愛している」などと言う資格のない者です。その彼を主イエスが愛して下さり、罪を赦して下さり、主イエスを愛する者として新しく生かして下さったのです。ペトロは、自分が主イエスを愛し、主イエスに仕えることができるのは、自分の力や正しさによるのではなくて、主イエスが自分を愛し、罪を赦し、生かして下さっているその恵みのみ心のみによるのだということを知っているのです。主イエスが教会の指導者としてお立てになるのはそのような人です。主イエスが良い羊飼いとして、群れから迷い出た罪人である自分のために命を捨てて救って下さったことを弁えている人こそ、主イエスの羊を飼う働きを負うことができるのです。
長老の任職
今朝は大嶋万里子長老の長老任職式を行いました。現住陪餐会員による長老選挙で選出されたわけですが、教会の頭なる大牧者である主イエス・キリストの召命によるものであると誓約されました。主イエスが自分を愛し、罪を赦し、生かして下さっているその恵みのみ心のみによるのだということを長老は率先してゆくのです。主イエスが教会の指導者としてお立てになるのはそのような人です。長老は長老会または役員会を通して教会を治めなければなりません。
主イエスがペトロに、「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃったのは、ペトロ個人に権威を与えたということではなくて、このペトロのように、自分自身がとうてい救われ得ない罪人であるのに、主イエスの恵みによって罪を赦され、主イエスを愛する者にしていただいた、そのことをはっきりと自覚している者こそが、主イエスの羊の群れである教会を牧することができる、ということを語っているのです。ペトロも、イエスの愛しておられた弟子も、そして私たちも、皆主イエスについて行く、従って行くのです。そのことによって教会は一つであるのです。つまり教会は、誰かある指導者の権威に従うことによって一つとなるのではなくて、主イエスについて行く、主イエスに従って行くことにおいてこそ一つとされているのです。
振り返らない
この福音書の最後の所ですが、ペトロは主イエスとの会話のあと、「振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。」(20節)とあります。ペトロは振り向いて、後ろから来る弟子について「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問いました。主イエスは。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」とおっしゃいました。つまり、あなたには、この人のことは関係がない、ただ私に従いなさいとおっしゃったのです。
前を向いて、今を生きている時、そして未来へと歩むとき、私たちは私たちの使命に生きることができます。しかしまた私たちは振り向いてしまう者でもあります。振り向くとき、私たちは、余計なことを考えるのです。人と比べてしまうのです。あの人、この人と比べてしまいます。それぞれに違う使命を受けて、それぞれに人生の旅をしているのに、比べてしまうのです
ペトロが振り向いた先にいた主イエスが愛された弟子は、やがてヨハネによる福音書を記したと書かれています。伝承ではこの弟子は長生きをしてペトロのような殉教はしなかったとも言われます。この弟子はペトロとはまた違う旅を旅したのです。それぞれに生き方も死に方も違っていました。しかしそれぞれに実を結ぶ人生を送ったのです。
ヨハネによる福音書はここでいったん終わりますが、主イエスの業はここで終わってはいません。私たちに続いているのです。私たちの日々に主イエスの愛の業は為され続けています。ペトロになさった業が、主イエスを直接は知らないペトロの弟子たちへと続いて言ったように、2000年後に生きる私たちにも続いています。大磯教会の私たち一人一人にも旅の物語が続いているのです。時間と場所を越えて、膨大な物語が続いています。世界も収めきれない旅の物語です。「わたしを愛しているか」その問いに繰り返し答えながら、日々主イエスに従いながら、私たちの愛の旅は続いていきます。祈ります。