重い皮膚病
ルカによる福音書5章12節から16節には重い皮膚病にかかっていた人を主イエスが癒された奇跡が語られています。マタイ、マルコの福音書にも並行記事があります。そして「重い皮膚病」とあるところは、聖書本文では「らい病」、現在の「ハンセン氏病」という言葉が用いられています。聖書が「重いひふ病」と訳し直したのは、今から2千年前の医療が発達していなかった時代に、その病がハンセン氏病なのか重い皮膚病なのか分からないからという考えもあります。ただし忘れてはならないのは、「ハンセン氏病」は日本の歴史の中で極端な差別と偏見をもたれていたので、そのまま用いることに慎重になっているということがあります。ハンセン氏病は極めて感染率の低い病気ですが、ひとたび感染すると、末梢神経が冒され手足の指が欠け、目が見えなくなったりします。当時、ハンセン氏病に罹ると、就職も縁談も壊れてしまったのです。家族はもちろん、親戚に至るまでその影響は及びました。それほど恐ろしがられたのです。突然の病気でそれまでの一切の仕事、地位、家族を失い、それだけでも無情で心掻き乱れる想いの所へもってきて、人間の尊厳まで奪われました。偏見は激しく、肉親の葬儀にも呼んでもらえなかったという人がほとんどのようです。そして死んだものとして扱われていたこともあったようです。本人も家族も絶望的なそのような重い皮膚病を主イエスが癒し清められるという奇跡は、その病気に罹っている人々にとっては大きな福音です。主イエスは、重い皮膚病の人に言葉だけでなく、主自ら「手を伸ばしてその人に直接触れて」癒しておられることは、どれだけ慰めと喜びを与えられたことでしょう。
生きることを否定された者
この重い皮膚病を患っている者は、「汚れた者」と呼ばれ、忌み嫌われ、差別されていました。そして、この病に襲われることは神の裁きとして受けとめられていたのです。旧約聖書レビ記13章45,46節には、こう定められていました。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」。自ら衣服を切り刻み、結った髪をほどいて振り乱し、威厳や尊厳の表れである口ひげを隠し、自分で自分のことを「わたしは汚れた者です」と言いふらしながら道を進まねばならなかったのです。周りの者は、そのような惨めな姿や呼ばわる声によって、この人は重い皮膚病を患っているということを知らされ、身をよけ、遠くを通っていったのです。「ベン・ハー」という映画を観ると、重い皮膚病を患っている人々が町から離れた深い谷の中に集められ、そこで隔離された生活を送っている場面が出てきます。家族の者が日に一度やって来て、食糧を谷の上から放り投げるのです。すると岩の陰からぼろ布をかぶって顔を隠した患者がはいずるように出てきて、食糧を拾い上げ、また暗がりに消えていくのです。このような形でやっと命を繋ぐしかない生活、人々の交わりから切り離されて、人間として生きることを否定されてしまった生活が、その岩陰にはあったのです。
そのような生活を強いられている者が住んでいる町にも、主イエスは来てくださいました。ここに出てくる重い皮膚病を患っている人はいったい今までどんな人生を送ってきたのでしょう。家族もいたはずですし、友人もいたことでしょう。もしかしたらかつては家庭があり、妻があり、子供がいたかもしれません。今も別の町に住んでいるのかもしれない。けれども今、彼はそうした人間の交わりから断ち切られ、互いに愛し愛される関係から切り離され、もう長い間孤独のうちに打ち捨てられていたのです。
御心ならば、わたしを清くすることがおできになります
すべての頼みを奪われ、すべての望みを失い、生きる術を失った人間が、最後に懸けたのは主イエスの「御心」でした。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(12節)。彼は主イエスが汚れた悪霊につかれた男を癒し、多くの病人を癒し、熱病から人を解放するお方であるという噂(うわさ)を聞いていたのかもしれません。たとえ聞いていなかったにせよ、彼は近づいて来られる主イエスを見た時、そこに清める力と権威を身に帯びたお方を見出したのです。
その時、絶望の中から呼ばわるこの人の声を主イエスは深く受けとめて、御手を伸ばされたのです。「よろしい。清くなれ」(13節)。この力と権威に満ちた御言葉が、たちまちのうちに病を取り去ったのです。かつて重い皮膚病が清められたかどうかを判定するのは祭司の務めとされていました。今朝与えられている旧約聖書の御言葉、レビ記はそのことを定めています。患者が祭司のもとに連れて来られると、祭司は宿営の外に出て来て、実にこまかに定められた清めの儀式を行ったのです。患者の状態を判定し、「あなたは清い」、「あなたは確かに汚れている」という判定を下すのは祭司の権限に属することでした。そのようにして神と人間の間を執り成し、いわば神の判断を代行して行っていたのが祭司だったのです。しかし今私たちの前にいらっおられるお方は、ご自身の力と権威をもって「よろしい、清くなれ」、そう宣言し、私たちを失われていた交わりの中へと取り戻してくださるお方なのです。
清くなれ
ところでこの時、主イエスに出会った人の願いの言葉「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」という言い方は、決して消極的な言葉ではありません。むしろ私たちの人生は主の御手の内にあるという全面的な信頼、喜びも悲しみも主の御心からやってくるのだと捕らえるところの信仰であり、出発点なのです。
次に「清くなれ」と主イエスの方から手を伸ばし、触れられたということをもう少しだけ掘り下げて考えてみましょう。ハンセン氏病の伝染力に対する恐怖の強かったこの時代に改めて思うことは、主イエスの行動は驚くべきものです。衛生的かどうかということではなくて、宗教的に汚れているとみなされている人間に対して、清い神の子が直接手を触れているということこそ癒し以上に、一層大きな驚きとなります。ところでこの時、この病人はとっさに手を引っ込めることすらできなかったようです。主の行動は間髪を入れない、躊躇しない接し方だったということです。罪深い者たちの罪を赦し、彼らをお側近くに置き、共に生きてくださる救い主の恵みがここに明らかになっています。主イエスの忍耐は無限であるということが今日の箇所から明らかにされます。このように、主イエスは罪人をそのままに放っておかれる方ではないということです。私たちの罪に対して、忍耐してくださるだけの方ではないということです。「よろしい、清くなれ」とおっしゃって積極的に近づき、触れ、癒してくださり、罪を赦す権威を持っておられます。そのように主イエスが忍耐されるのは、私たちをきよめるためだということです。主イエスは心からそのことを望んでおられるのです。罪を赦された者たちが、主と共に生きることによって、主イエスの感化を受け、罪から清められるためです。主イエスと共にいること、主イエスから触っていただけることは、今日では祈りに対して聖霊なる神が働きかけることによってなされます。聖書の御言葉から主イエスの語り掛けを聴くことです。聖書を通して語り掛けてくださる主イエスによって、私たちはきよめられるのです。そのために主イエスが私たちのために、今も執り成しの祈りを続けていてくださっているからです。主イエスは、罪によって神との間が断ち切られ、つながらなくなってしまっている私たちのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んでくださいました。そして、そのことによってその罪が赦され、私たちが神とつながって生きることができるようになったのです。神と私たちとの間の仲保者となるために、人となってこの世に来て下さったのです。ですから、主イエスが手を差し伸べてこの人に触れ、「よろしい、清くなれ」と言って彼を癒し、清めて下さったことは、私たちに与えられた救いの恵みを象徴的に示しているのです。
人々に証明する
癒されたこの人に主イエスは、「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」と言われました。主イエスが彼にお命じになったのは、祭司に体を見せ、清めの献げ物をし、人々に証明することでした。それはつまり、自分の病気が治り、もう汚れた者ではなくなり清い者となったことを、祭司に認定してもらって、神の民イスラエルの礼拝に連なることができる者となるための儀式をすませなさい、ということです。その手続きや儀式のことが、今朝共に読まれたレビ記第14章に語られています。あそこに語られていることをして、人々に、自分は清い者となったことを証明しなさいと主イエスは言われたのです。「人々に証明しなさい」ということが表しているように、これは、重い皮膚病の人がイスラエルの民の礼拝の共同体に復帰し、神の民の交わりに再び加わることができるように、ということです。ここに、主イエスが与えて下さった救いのもう一つの大事な意味が示されています。彼は、神のみ前に出て礼拝をすることができる者とされたことによって、同時に、人々との交わりに復帰し、神の民の共同体の一員となったのです。彼はこれまで、礼拝から遠ざけられていたために、人々との交わりから遠ざけられ、宿営の外に、共同体の外に置かれていました。その苦しみ悲しみから解放され、再び人々との交わりに生きることができる、共同体の一員として生きることができる者とされたのです。そのことと、神を礼拝することができる者とされたこととが一つに結び合っている、それが、主イエスのみ心によって彼に与えられた救いだったのです。
私たちの救い
さて私たちはこの話から、私たち自身の事柄として何を読み取っていくべきでしょうか。重い皮膚病にかかっている人が汚れた者であり、神のみ前に出る礼拝に相応しくないなどということを聞くと、私たちは、それは余りにもひどい差別だ、と思います。そのようなことを命じる神などけしからんと思います。しかし、旧約聖書が語っているこのまことにつまずきに満ちた教えから私たちが考えなければならないことがあります。それは、神のみ前に出て礼拝をすることは、私たち人間にとって決して当たり前のことではない、それが当然の権利だなどと思うのは間違いだ、ということです。神のみ前に出て礼拝をするためには、それに相応しい者でなければならない、ということは、私たちにおいてもあるのです。私たちの礼拝においては、例えば入り口に祭司が立っていて、あなたは清いから入ってよい、あなたは汚れているからだめ、などということはありません。誰でも、この礼拝に連なることができます。しかしそれは当然のことではないのです。神が、その独り子イエス・キリストを遣わして、その十字架の死と復活とによって私たち全ての者の罪を赦して下さり、そして救い主イエスが、その御心、ご意志によって、私たち一人一人に手を差し伸べて下さったから、私たちは今ここにいることができるのです。私たちは誰でも皆、今朝のこの話において重い皮膚病を癒された人と同じようにして、今この礼拝に連なることを許されているのです。私たちはもともと、神のみ前に出て礼拝をするのに相応しくない罪人です。主イエスによる罪の赦しの恵みをいただかなければ礼拝に連なることなどできない者なのです。ですからここに語られている救いの出来事は、私たち一人一人において起っていることなのです。
私たちの共同体
私たちは、礼拝に招かれ、主イエスによる罪の赦しの恵みに与っています。そして、キリストに結び合わされた人と人とのつながり、交わりがここに与えられているのです。それは、生まれつきの私たちが人々との間に持っている、あるいは築いてきた人間の思いによる交わり、共同体とは違う、新しい、主イエスのもとでの共同体です。人間の思いによって結び合う交わりにおいては、私たちそれぞれが持っている罪が妨げとなり、関係が断ち切られていくのです。例えば、人間の思いによってあの人は清いとか汚れているとか、相応しいとか相応しくないとかいうことが語られ、気の合う仲間だけの交わりを築いて他の者たちと対立するようなことになっていくのです。しかし主イエスは、そのような罪に満ちた、まさに神のみ前に出るに相応しくない私たちに手を差し伸べ、私たちに触れて、清くして下さいます。そして私たちを、神を礼拝する群れへと招いて下さるのです。それが教会です。私たちは、洗礼を受けることによって、主イエスによって清められたことを人々の前に証明して、この群れに連なるのです。しばしばこのことを忘れてしまい、自分がもともと礼拝に相応しい者だったかのように錯覚して、あの人は相応しくない、などと言ってしまう私たちです。しかし私たちは皆、ただ主イエスの恵みのみ心によって救われ、清くされて、この礼拝に導かれているのです。このことに常に立ち返りつつ、主イエス・キリストのもとに集う新しい共同体を築いていきたいと想うのです。そして、復活され昇天された主イエスが、今も、教会を、そして私たち一人一人を執り成し、祈り続けてくださっていることを信じるのです。祈ります。