中風の人をいやす
今朝の箇所は、「中風の人のいやし物語」と呼ばれる箇所です。「中風」は脳血管障害(脳梗塞や脳出血)の後遺症として起こる体の麻痺を指します。何らかの原因で麻痺をして体が不自由な男性が居ました。最近、私の周囲の親しい人に脳梗塞になる人が多いのですが、どういう原因なのかは定かではないのですが、やはり様々なストレスが関係していると思います。二千年前の社会でも脳血管障碍に苦しんだ人がいたということです。今では早期の処置やリハビリの進歩によって随分回復できるようになっていますが、当時はどうだったのでしょうか。藁をもすがる思いで主イエスのところに来たのでしょう。そこでこの癒しの話しが始まります。
この人には気の良い友人たちがいました。主イエスならば麻痺を治してくれると考え、友人たちは担架のようなものを用意して、寝床ごと患者を運び込もうとしたのです。同じ出来事を記しているマルコによる福音書2章3節によると友たちは4人の男と書いています。おそらく麻痺は下半身に及んでいて、本人は歩けなかったのでしょう(18節)。
ところが主イエスが居る住宅には運び込むことができませんでした。人びとが蟻のように群がっていたからです。そこで友人たちは思い切ったことを考えます。屋根に上り、屋根瓦を剥がして、そこから寝床ごと吊り下ろしたのです。家主としては良い迷惑です。マルコ福音書によれば、この町はカファルナウムでした(マルコ福音書2章1節)。ですから、おそらく、主イエスが福音宣教の拠点にしていたシモン・ペトロの姑の自宅であった可能性があります。人々は家主が叱りつけると思ったかもしれませんが、不思議にもお咎めなしです(19節)。
私はこの話が福音書の中で、好きな話のひとつです。徴税人ザーカイが主イエスを見るために桑の木に登って見た話しと、この中風の人を屋根からつり降ろした男たちの話しは実に面白く感動的です。
あきらめない独創的な発想
ところで、この奇想天外な人の意表を突いたような話しを少し検証したいと思います。当時のパレスティナの住居はどんな家だったのでしょうか。ある人の話によると、3間×3間=約9坪ぐらいだと言います。畳数で言うと18畳位の平屋がほとんどだと言います。かなり狭いですからそこに50人ぐらいが限度ですが、そこに立って主イエスの話しを聞いていたということでしょう。それだけ大勢の人が詰めかけていたら、普通なら運び込むのはあきらめるでしょう。今回はだめだったと考えるでしょう。しかしこの4人の男たちはあきらめなかったのです。19節に「しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。」とあります。信じられないようなことですが、この男たちはそれをやったのです。屋根というのは屋上のことです。当時の家で屋上はかなり丈夫に作られていて、木の梁を何本も渡して組み、木の枝や藁を土に練りこんで作りました。それが乾燥すると人が何人か乗っても大丈夫なほど丈夫になったようです。その屋上には外階段が付いていて、人々はそこで夕涼みなどもしたようです。瓦をはがしたとありますが、タイルのことで、当時のローマの建築様式がガリラヤにも伝えられていたと思われるのです。
主イエスもまた迷惑がらずに、この友人たちの機転を喜び、そこまでして治りたい・治したいという信仰を大いに評価します。そして、「人よ、あなたの罪は赦された」と言います(20節)。それを聞いていた律法学者たちやファリサイ派の人々は批判します。「諸々の罪の赦しを宣言することは、神の代理人である祭司しかできないはず(5章14節参照)。これは神への冒涜だ。自分が神の代理人である祭司の立場に成り代わっていると考えたのです。(21節)。あくまでも心の中で思ったということです。しかし、主イエスは反論します。「あなたの罪は赦されたと言うのと、起きて歩けと言うのとどちらが易しいか。口だけの方が簡単だ。その簡単な方ですらしたがらない祭司こそ問題だ。では難しい方をこれから行おう。そして言われた。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と。そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。(24節)。
主イエスは麻痺した人に「起きて家に帰れ」と言います。するとその人は起き上がり自分の寝床を持って自宅に帰って行きます。人々はあまりの出来事に仰天しました(25-26節)。以上がこの話しのあらすじです。
罪の赦しでいやしを証明された
この話は、見出しに「中風の人をいやす」とあるので、前の「重い皮膚病の人をいやした話し」同じように主イエスのいやしの奇跡の話しのように思えますが、実は話の第一義的な意味は、罪を赦す権威についての話しなのです。中風のいやし自体は第二義的な意味なのです。罪を赦すことができるのは神だけだと言うことを言っているのです。そもそも、なぜ、ファリサイ派の人々と律法の教師(=律法学者)たちがそこに座っているのか。しかも、「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレム」からなぜ彼らはイエスの話しを聞きに来たのでしょうか。それは彼らが主イエスの行動を観察に来たということなのです。ユダヤ議会(サンヘドリン)からの指示によるのです。ユダヤの宗教指導者がすることは、まず第一段階は、それが彼らにとって異常なことかどうかを観察するのです。何も言わずただ観察するのです。問題なことか、大したことではないかを黙って観察するのです。そこで問題ありと判断されると、今度はあらゆる点から質問する審問の段階になります。律法学者たちはここでは一切口には出していません。ただ観察し、しかし心の中であれこれ考えたのです。「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(21節)と。
主イエスは、中風の病人を屋根からつり降ろした男たちと、中風を患っている人の両方の信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。まず罪の赦しを宣言されました。そして体のいやしをされました。この順番が重要です。罪を赦し得るのは神だけと考える律法学者たちの前で、主イエスは罪の赦しを宣言されました。律法学者は心の中で、この男は神なのか、神への冒瀆なのか。と考えたのです。そして次第に心は煮えくり返ったに違いありません。
当時のユダヤ教の教師(ラビ)の教えでは、質問に対しては質問で返すというのが流儀であったようです。そこで主イエスはお答えになりました。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どっちが易しいか。」と尋ねられたのです。ユダヤ教の教師(ラビ)の教えに従って質問で返されました。どちらがより重い問題で、どちらがより軽い問題なのか、ということが問われています。中風のいやしを求めてきた人のように、人々は肉体のいやしを、より重いものと考え、罪の赦しは意識の問題程度にしか考えないもので、軽く考えているのです。しかし主イエスは逆です。罪の赦しが遥かに重いのです。主イエスは重い罪の赦しを宣言することで、肉体のいやしをなされたのです。そして、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。これ以降、律法学者たち宗教指導者たちは、主イエスにあらゆる質問をする審問の段階へと進んでいくことになります。あらゆることに質問し追及することになります。
主を賛美する歌
今朝の旧約聖書の御言葉は詩編32編です。この詩編は、悔い改めの祈りではなく、感謝の詩に属します。この詩編の作者は、自ら経験した悔い改めと罪の赦しを回顧し、その感謝を歌い、自分の個人的な経験の中からすべての信徒に対する教えを引き出し歌っています。作者は、冒頭の2節で、「いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」と、罪の赦しに与かった幸いを心から感謝し、賛美の歌を歌っています。その感謝の喜びは、自らが罪と苦闘して勝利を収めたことから生まれたものではなく、神の前に屈伏して自らの罪を認めて、神が罪深いわたしという人間に勝利したことによってもたらされる、神から与えられる勝利の見返りとしての喜びです。神は人の「罪を取り除き」、「罪を覆い」、「その咎を数えない」、これが作者自ら経験した幸いであったのです。そして最後に、「神に逆らう者は悩みが多く 主に信頼する者は慈しみに囲まれる」(10節)と歌っています。そして、神に信頼し慈しみに取り囲まれる生活とは、神に心を開いて、神を喜び、神に感謝して神礼拝に生きる道であると言っているのです(11節)。この詩編の作者は、赦しの神に目を注ぎ、その神の懐で憩う、感謝の喜びの生活こそ、私たちに与えられる最高の人生であると歌っているのです。
担ぐ者へと変えられた
中風であった人は、立つことも歩くこともできなかったのが、自分の足で起き上がることができるようになりました。彼が寝かされていた床、それは彼が、人によって担がれ、持ち運ばれなければどこにも行くことができなかったことの象徴です。しかし今や彼はその床を担いで歩き出しました。担がれなければならなかった者が、担ぐ者へと変えられたのです。そしてもう一つ、彼は神を賛美しながら帰って行ったのです。神に感謝し、神を愛し、賛美する言葉が、そして歌が、彼に与えられたのです。「あなたの罪は赦された」という主イエスの宣言は、彼にこのような目に見える具体的な新しい生活を与えたのです。主イエスの教え、み言葉と、いやしのみ業とはこのように結びついています。主イエスがみ言葉をもって教えられたことは、そのみ業によって現実となり、私たちの生活を具体的に新しくするのです。「あなたの罪は赦された」という主イエスの教えがそのような権威と力とを持ったものであることを示すために、「起き上がり、床を担いで家に帰れ」といういやしのみ業が行われたのです。
罪の赦しの恵み
主イエス・キリストによって与えられる罪の赦しの恵みは、決して言葉だけの抽象的な観念の中の事柄ではありません。私たちはこの宣言をいただいて、具体的に新しく歩み始めることができるのです。なぜなら、主イエスによる罪の赦しは、言葉によって与えられたのみではなかったからです。神の独り子、まことの神である主イエスが、この罪の赦しの福音の実現のために、私たちと同じ人間となってこの世に来て下さったのです。そして主イエスは、神をも隣人をも憎んでしまう私たちの罪の全てをご自分の上に引き受けて、私たちの代わりに十字架にかかって死んで下さいました。具体的な苦しみと死とを、私たちのために引き受けて下さったのです。この主イエスの死によって私たちの罪は赦され、そして主イエスの復活によって、神とのよい関係に生きる新しい命が私たちに与えられたのです。神のことを憎んでしまう私たちを、にもかかわらず神が愛して下さり、その愛によって憎しみを取り除いて下さり、私たちと新しい、よい関係を結んで下さった、それが罪の赦しということです。この神の愛は、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活において、具体的に示され、与えられているのです。「あなたの罪は赦された」という主イエスの宣言は、この主イエスの十字架と復活とによって示された神の愛によって裏付けられているのです。
私たちの日々の具体的な生活が、神への賛美と、解放と自由の喜びによって新しく動き出すのです。26節には、「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、『今日、驚くべきことを見た』と言った」とあります。人々は神をあがめたのです。喜びの訪れである福音書を書いたルカは、この福音書の読者に、イエス・キリストは、罪をいやす権威を持っている方であることを今日受け入れなさい。今賛美しなさい。今日あがめる信仰に進んでください、と言っているのです。
人々は大変驚きました。その驚きは、中風の人が癒されたという奇跡を見た驚きではありません。本当に驚くべきことは、まことの神である主イエス・キリストによる罪の赦しの宣言が、このような喜びに満ちた新しい生活を現実的具体的に私たちに与えるということです。私たちは、毎週の主の日の礼拝において、主イエスから、「あなたの罪は赦された」という権威ある宣言をいただきつつ歩んでいます。それは言葉だけの、抽象的観念的なものではありません。この宣言によってもたらされる喜びに満ちた新しい歩みが、聖霊のお働きによって、私たちの具体的な生活の中に今日実現していくのです。祈ります。