5/19説教「新しい霊が私たちの中に」

 
はじめに
今朝私たちは特別な主の日を迎えています。主イエスが死者の中から復活されて、50日目に、天から聖霊、すなわち「キリストの霊」が与えられて、その聖霊の賜物として「キリストの体」である教会が生まれた教会の誕生日なのです。
私たちのこの大磯教会も1900年6月3日創立ですからもう創立124年になるのでしょうか。ところで私たちは当たり前のように「大磯教会」と言っていますが、昨年から大磯の3教会を中心に、大磯町民や他の市民も参加してクリスマスキャロリングを大磯駅前の聖ステパノ学園のレリーフ広場で始めましたが、3教会は皆、同じく大磯教会なのです。私たちの教会は日本キリスト教団大磯教会、他はカトリック大磯教会、日本福音キリスト教会連合大磯キリスト教会と言います。会議の時に言い方で少し困惑しましたが、私たちの教会は「教団大磯教会」と言ったりしましたが、しかし、皆同じキリストの教会であることに違いありません。先ほど子供メッセージで使徒言行録2章1節から4節までを読みました。
そこでは初めて教会がこの世界に誕生した様子を、聖書はこう記しています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、 ほかの国々の言葉で話しだした」。五旬祭の日というのは、日曜日なんです。ペンテコステは、イースターから数えて、50 日目の礼拝が、ちょうど日曜日になるようです。そこで、一同が一つになって集まっていたということです。日曜日にみんなで集まって一つになって、礼拝を捧げている。そこに聖霊が降ったのです。そして、最初の教会、聖霊が注がれた教会というのは、どうなったかというと、霊が語らせるままに出て行ってそれぞれの言葉で伝道していったのです。聖書の言葉で福音をのべ伝えて行ったのです。これが礼拝であり教会の始まりということです。私たちは、聖書の説き明かしである説教をとても大事に致します。ですから、説教がない礼拝はないと、私たちプロテスタントの教会は考えます。たとえ礼拝の中で聖餐式を執り行わなくても、御言葉が語られることがないことは、礼拝として認められないのです。しかし、たとえば牧師が居なくても、信徒の方が聖書の言葉に対する奨励をすることで礼拝は成り立つのです。そして、葬儀式でも結婚式でも、聖書の言葉が語られ、説教がなされればそれも礼拝です。しかし、カトリック教会はミサ、つまり私たちの言葉で言えば聖餐式を大切にします。礼拝、あるいは教会というのは、ミサを執り行うのが礼拝であってミサを執り行うことが出来る司祭がいて初めて礼拝が成り立つと考えています。確かに二千年前の初期の教会はパンとぶどう酒による聖餐を必ず行ったのです。あと、日本では数は少ないですが正教会があります。ロシアやウクライナがそうですが、伝統と儀式を重んじています。聖人のイコンが飾られていていたり独特ですが、いずれの教会もペンテコステに聖霊が降り教会が誕生したことと三位一体の神を信じている教会であることに違いはありません。

わたしの霊をお前たちの中に置く
今朝の旧約聖書の御言葉は、エゼキエル書36章26から28節を読みました。南王国ユダはバビロニア帝国によって滅亡し、王国の主だった人々はバビロンに虜囚として連行され、異国での生活を余儀なくされたのです。いわゆる「バビロン捕囚」です。この期間に、バビロンで暮らすユダの人々を励まし支えた預言者が、エゼキエルでありました。預言者エゼキエルは、神から「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に、新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(26節)と告げられ、さらに27節で「また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」と告げられたのです。この箇所は、昔から聖霊降臨日(ペンテコステ)に読まれるべき聖書箇所とされて来ました。捕囚の憂き目を見たイスラエルの人々、祖国を失い、神殿を破壊され、異教の都に捕らわれている身の上を、初代教会の人々も深く共感したのではないでしょうか。主イエスを十字架で奪われ、復活の主イエスと再会する喜びを味わったものの、やがて主イエスは神のみもとに戻られるべく、昇天されました。復活の主イエスとの別離、もはや再臨の時まで主イエスのお姿を見ることができないことは、さらなる喪失感を弟子たちや最初の教会の人々にもたらしたことでしょう。一方、エゼキエルの時代、捕囚の民も、大きな喪失感を味わいながら、生きていたのです。そこに「わたしの霊をお前たちの中に置く」と預言者は告げるのです。ここでは、「心」という用語がキーワードとなっています。この「心」という用語は正確に訳せば「心臓」を指す言葉です。ヘブル語で「心」のことは「レーブ」と言いますが、その第一義的な意味は、「感情」や「情緒」ではなく、「理性」あるいは「理解力」のことだと言われます。つまり旧約時代においては、「心の働き」とは、「理解する」こと、「悟る」ことなのです。確かに、日本語の「心」という言葉は、「知性、感情、意志」等、すべての精神の働きを意味していますが、どちらかといえば、「感情」に重きが置かれるように思われます。しかしヘブル語の「心」(レーブ)は、むしろ「知性」と「意志」の働きと強くかかわるのです。その理解からすると26節の「石の心」、「肉の心」という表現も、違った意味合いが見えて来るのです。普通「石の心」と言えば、冷たく、愛がない、無関心で無慈悲な心情を連想させるし、「肉の心」とは、血の通った、温かで、愛があふれ、隣人の悲しみや苦しみに共感する心情を著わしているように思えます。しかし、「心」が情緒ではなく、知性と意志という色彩が強いのならば、「石の心」とは、理解力が鈍く、悟ることのない、偏狭で頑なさを意味することになり、「肉の心」とは、血が通って生き生きした発想力、柔らかな思考力で、広々とした視野を持っている、という意味になるのです。つまりここで預言者エゼキエルは、捕囚された民が偏狭で頑なな思考に陥っていることを指摘し、そこから解き放たれることを告げているのです。それでは「偏狭で頑なな思考」とは、何を指すのでしょうか。捕囚された人々は、祖国を失い、神殿を喪失したことは、自分たちの罪ゆえであることを深く自覚していました。その報いとしての「バビロン捕囚」であり、もはや自分たちは、神からいたく罰せられ、放って置かれていると感じたのです。もはや神は我々を顧みられることなく、異教の地に捨てられ、まったく無視されているのだと。しかし今、神は「お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」(28節)と言うのです。それはユダの民が悔い改めたから、もはや罪を犯さないようになったから、神は人々を救われる、というのではないのです。神は、神のみ名にもとるような行いはなさらないのです。たとえ人間たちが、相変わらず罪や過ちを繰り返したとしても、神は救いのみわざを放棄するようなことはなさらないのです。人間の狭い料簡では、決して捕らえることのできないものが、聖なる神のみ心なのです。そのみ心の深さや大きさにのみ、私たちの救いの根拠があるのです。

良い贈り物が上から来る
そしてその慈しみ深い神についてよく表わされているのが今朝の新約聖書、ヤコブの手紙1章16節から18節の御言葉です。ヤコブは「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません」(16節)と言います。私たちはどうかすると、神がなんでこんな苦しみにあわせるのか。こんな辛い運命を与えて、なんて意地悪なんだと思ってしまうのです。けれどもヤコブは「良い贈り物、完全な賜物」を神は私たちに与えようとしている。生きよと言って、光の源である神から全て良きものを与えられているではないか、思い違いをしてはいけないと言っているのです。それは「光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰も ありません。」神は光を創られた。光が当たらないところが陰になるわけです。その裏が陰になったりするわけです。しかし神はそんなことないのです。光を創った方であり、光の源だから、ひねくれて、裏にこんな悪い考えがあって、その考えで苦しみを与えたり、そんな風なことを考える方ではありません。私たちに常に、喜びと支えと祝福とを与えようとしてくださっている方である。そう信じなさい。思い違い をしちゃいけない。悪い考えになるのは、それは神ではなく騙そうとする存在が居るのだ。それこそが、悪霊で神に逆らう存在だと言っているのです。それが人間を、騙そうとするのです。どういうふうに騙そうとするかと言うと、神が悪い、 神がこういう風にしている。神が意地悪なんだ。そのように思わせて、結局神から離れさせようとしているのです。それでも、離れた結果はどうなるか。それは、死に向かう、滅びへと向かっていくのです。滅びへと向かわせる存在が、この世界にはあるのであって、それが悪霊だ、悪魔だ ということをヤコブの手紙は語っているのです。
神は光の源だから陰とか裏の想いとか、そんなものはないのです。その証拠が18節の言葉「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。」とあります。神は私たちに「真理の言葉」すなわちイエス・キリストにある「救いの福音」によって、御心のままに生んでくださった。「生む」というのは、命を与えたという意味と同時に、新しい命へと生きるようにしてくださったという意味です。信仰を与えてくださり、私たちが新しく生きる命を与えて下さったということです。神は私たちを救おうと新しい命へと生かそうとするために、主イエスをこの世に送ってくださいました。十字架と復活を通して私たちに新しい命へと招いてくださったのです。そのことをここでヤコブは語っているのではないか。そうするとこの「真理の言葉」というのは喜びのおとずれ、つまりは御言葉の説教ということなのです。

キリストを受け入れた者の初穂となる
ペンテコステに、教会に聖霊が与えられ、そして人々が語り始めました。初穂として。初穂は何の初穂か。それは新しい命、キリストの福音を受け入れた者たちの初穂です。そしてその人たちが、周りの人たちにいろいろな言葉で語りかけ、キリストの福音がどんどんと広まって行くのです。新しい命を与えられていく者がどんどんと続くのです。まさに福音の言葉によって、それを受け入れることによって、私たちを新しく生んでくださいました。そして死を乗り越えて天の御国へとつながる永遠の命を与えてくださるのです。
私たちがこうして信仰をもって、キリストのあと に従おうとしておられる。そのためには、それ以前に多くの方が私たちに真理の言葉、伝道の言葉を語ってくださったのです。多くの福音の言葉を取り次いでくださった方々が居たのです。その方々が連なって、そしてその御言葉が私たちのところに伝わってきたのです。その方々の中には、すでに天の御国へと行っておられる方もおられます。私たちは今、礼拝をしています。しかし、天には、私たちに御言葉を語り継いだ、多くの方々も共に、一緒に今礼拝をしているのだと思います。御言葉を取り次いでくださった信仰の友が、私たちに語りかけているのです。一人じゃないよ、雄々しく生きよと、私たちが天の応援席で見ているよと。今度は、私たちがその創られたものの初穂となさるためというのは、その私たちが今度はその誰かに御言葉を伝えていく、語っていく。私たちがしなくても、神が私たちを通してさらに新しく信仰者を創ってくださるならば、私たちはいつも一人ひとりがその初穂となるんだ。この自分を通して、救いへ、さらに繋がっていく。そういう 事ではないでしょうか。ペンテコステで伝えられた聖霊は、ずっと今も私たちに働き、ずっと私たちを通してこれからも働き続けて、御言葉が語られ続けていくと、そのような大きな流れの中で、私たちが礼拝をしているのだということを、覚えるものでありたいと思います。祈ります。

TOP