6/2説教「神の民としての歩み」

はじめに
今朝は大磯教会の創立124周年を記念する礼拝です。この大磯教会は1900年6月3日創立です。特別区切りの良い年ではないので、何のお祝いもしませんが、来年は創立125周年ですから1世紀と4分の1世紀が過ぎたことになるわけですから、ちょっとしたお祝いの会を持ってもいいかもしれません。日本のプロテスタント教会は、明治以降に宣教師によって伝道が開始され、ヨーロッパの教会と比べて歴史は浅いのですが、生まれて124年と言えば人間の寿命と比べれば、到達できないほどの年数をこの大磯の地で過ごして来ているのです。その間、大きな戦争を挟んでさまざまな困難をも乗り越えてキリストの福音が宣べ伝えられ、礼拝が守られてきたことは、神の祝福としか言えない喜ぶべきことです。主イエスの弟子であるペトロやヨハネやトマス、そして異邦人教会を多く生み出したパウロたちの教会は、2千年後の今日は存在していません。しかし創立時の様子は、聖書を通して今も鮮明に、毎日、私たちは知ることが出来るのです。私たちキリスト者も、皆いずれは天の名簿に記されるのです。そして大磯教会は数百年後にはその存在が分からなくなっているかもしれませんが、この地における福音の伝道は必ず伝えられるでしょう。二千年前の教会が鮮明に伝えられているように。そう信じたいと思います。さて、創立記念日に私たちに与えられた新約聖書の御言葉はエフェソの信徒への手紙1章1節から14節までです。早速、御言葉の恵みに与りましょう。

エフェソでの伝道
エフェソの信徒への手紙が書かれた当時のエフェソは、ローマ帝国のアジア州の首都で、港湾都市・商業の町として栄えていました。この手紙は、エフェソにある、いくつかの教会に宛てて使徒パウロが書き送った手紙とされています。1節には「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」とあります。パウロがエフェソの町に主イエス・キリストの福音を伝えたのは、紀元56年から58年頃であったと言われており、その時エフェソの町は最盛期を迎えていました。パウロはエフェソに2年余り滞在し、伝道は成功しました。使徒言行録19章20節には「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」と記されています。しかし、パウロは、繁栄と偶像が蔓栄しているエフェソの中で、人々に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えましたが、ある事件に巻き込まれることになります。パウロが伝えた主イエス・キリストの福音には、人々の生き方や考え方の転換を迫るものが秘められていたのです。エフェソの信徒への手紙には、その福音が豊かに語られています。パウロは主イエス・キリストの福音をどのように捉えていたのでしょうか。そのことが今朝の箇所においても明らかに示されています。

挨拶
1節と2節は手紙の挨拶です。この手紙は「エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。」とあります。「聖なる者たち」とは、神に属する者ということです。神が御自分のものとして下さった人々ということです。自分には何の功績もないにもかかわらず、神がただ一方的に私たち一人ひとりを捉えて下さり、救いへと招いて下さった者ということです。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(2節)これはエフェソの教会のキリスト者たちへの挨拶というよりも、祝福の祈りです。短いものですが豊かな信仰の内容がすべて込められています。

三位一体なる神
このような最初の挨拶に続いて3節から6節では神への讃美の言葉が記されています。まず「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」とあります。父なる神への讃美の言葉です。父なる神は私たちを罪から救って下さった、その神への讃美が讃えられています。また「天のあらゆる霊的な祝福」という言葉があります。この「霊的な」という言葉は「聖霊」と言うことです。神の祝福は、すべて聖霊によって仲介されているということです。この3節は短い文の中に、父なる神、救い主イエス・キリスト、聖霊なる神という三位一体なる神への信仰が明確に示されています。

キリストにあって
4節では「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」とあり、私たちの救いは天地が造られる前に決定されていたということが語られています。これはどういうことでしょうか。「天地創造の前に」とパウロは断言しています。しかし天地創造の前には人間は存在していません。そこには、神だけしかおられませんので、この言葉は神の御心を押し量ってパウロが語っているのです。既にその御心において神は私たち一人ひとりに目を留め愛しておられたということを語っているのです。私たちは神の思いの最も深いところに存在していたということです。このようなパウロのはっきとした断言はなぜ可能なのでしょうか。それを可能にしているのは、私たちが主イエス・キリストへの信仰において救われている、という確信によるのです。今、確かに、救われているということです。それは私たちがそれに値する者だからというのではもちろんありません。人間は、神に対して罪人であり、人に対して愛に乏しい人間です。それでもなお、神はこの私を愛し、救って下さいました。つまり救いの根拠は人間の側にはなく、神の一方的な恵みにあるのです。私たちの救いのことが神御自身の思いの中にあったから、としか言いようがないのです。神は御子イエスを愛し、御子も父である神を愛されました。この愛の永遠の交わりの中に私たちも入れてくださるということです。それが「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して下さった」とパウロが語っていることの意味です。

キリストの贖い
7節から10節でパウロは語ります。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」(7~10節)
神から私たちへの愛は変わることがありません。その愛を受けて私たちもまた神を愛するのです。神を愛し、神との交わりに生きるためには、私たちの罪が清められなければなりません。主イエス・キリストにおいて私たちの罪が清められるということが記されています。人間の罪を神は御子イエス・キリストにおいて、その血によって贖って下さったのです。私たちは自分が意識せずに、無意識にも罪を犯しています。御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。贖うとは、買い取られるということです。主イエス・キリストの血、十字架の出来事によって私たちの罪は買い取られたのです。ですから今は、罪の支配ではなく、まことの命に生きる者とされたのです。これは、何よりも神の豊かな恵みによるものです。そして、「神はこの豊かな恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。」(8節、9節前半)

神の栄光のために
私たちは、主イエス・キリストによる救いという「秘められた計画」を知ることを赦されました。その計画の目的は「神の栄光をたたえるため」だとパウロは語っています。
11節、12節にパウロはこう語っています。
11キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によっ
て前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。12それは、以前からキリストに
希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。
ここにはキリスト者の選びが語られ、キリスト者の生きる意味が語られています。神の栄光を表わすことが神に創造された人間の目的であり、人生の目的なのだとパウロは語っています。
カルヴァンの『ジュネーブ教会信仰問答』は、「人生の目的とは」と「人生の最上の幸福」について問いかけ、答えとして、「神を知ること」とだと答えています。神を知るというのは神をほめ讃えることです。神はご自分の栄光を表わすために私たち一人ひとりを用いてくださるのです。そして私たち一人ひとりの人生もまた神の栄光のためにあるのです。私たちは神の栄光が表わされるようにと祈りつつ、与えられた場所において、主のみ前に共に前進していきたいものです。

神にのみ栄光を
ところで、私の恩師であり洗礼を授けてくれた芳賀眞俊牧師が天に召されて31年が過ぎたのですが、その1年半後に『ただ神にのみ栄光を!』という本を限定出版で私は出版しました。芳賀眞俊牧師が書かれた原稿をまとめ、また膨大な説教テープの中から5つだけテープ起こしをして載せました。また親しかった友人、牧師の追悼記も載せて作ったわけです。その中の説教に、今朝のエフェソの信徒への手紙1章1節から14節の説き明かしをした説教があります。この恩師も多くの長老教会系の牧師と同じように宗教改革者カルヴァンとバルトの信奉者でしたから、ことあるごとに「神にのみ栄光」ということを語っていたし、自分の愛用の聖書にも万年筆で「Soli Deo gloria !」(神にのみ栄光)とラテン語で書いていました。また受洗者に聖書を送るときにもこの言葉を書いていました。私も恩師からこの言葉をサインされた聖書をいただきましたし、牧師となった私もそれを踏襲しています。ところで、私自身は、青年時代は牧師になろうとは思ってもいなかったので、恩師の説教は正直言って難しくてよくわからなかったのですが、本を作った時、自分で説教のテープ起こしをしてみるとよくわかりました。書いてみると理解が深まるのです。先日、西湘南地区の牧師会があり、そこで辻堂教会の白鳥牧師が長いこと聖書の写本をしていると聞き、数十年続けているので相当の厚さ、束になっていると言われました。是非皆さんにもお勧めすると言っておられました。もう新約聖書を何回目か書き写しているといっておられました。私もいつか実行してみたいと思いました。もっとも私はパソコンで毎週、A4の用紙で4枚の説教原稿を打っているので、あるいは同じようなものかもしれないとも思います。ちなみに白鳥牧師は万年筆でかいているそうです。ぜひ挑戦してみてください。

神の民としての自覚
改めて芳賀眞俊牧師の『ただ神にのみ栄光を!』の本を読み、この箇所の恩師の説教を読んで印象に残った箇所をご紹介して終わりたいと思います。
かつてもう40年~50年前に、私が富士教会におりました時に、東芝の工場がありまして、そこに勤めている或る青年がまいりました。その青年は赤面症に悩んでいたようであります。人の話をしたり何かするとすぐに顔が赤くなって、どうにも人と対話ができなくなってくるという悩みを持って教会に来ました。教会でそういう悩みの解決はできるのでしょうか、という問いを受けまして、もちろん解決できると答えました。その青年はしばらく教会にかよってまいりました。みごとに赤面症がなくなりました。残念なことにその途端であります。彼は教会に来なくなりました。自分の悩みの解決、苦しみの解決、煩悶の解決、それだけで教会に来るというのは、最初はやむを得ないかも知れませんけれど、間違いでありましょう。信仰にはやはりもっと成長がある。神のご計画をはっきりと知るところに、そしてそれに沿うところの神の民としての自覚を持った教会生活の歩みがなされなければならないでしょう。その面において一つとなっていくような、お互いの寛容と赦しのもとに主のみ名をあがめていくような、そういう一つの教会、そこまで成長していかねばならないだろうと私は思います。
そしてこう語っています。
主イエスがなし給うたその偉大なるみわざ、つまり敵意という隔ての中垣を取りこぼち給うたということ、なぜそこに焦点をすえて教会生活というもの一つに励んでいこうとしないのか、という思いがいたします。そして、これがこれからの教会の課題であると私は思っております。
もう一つは選びということであります。聖書のいう選びは優秀な者を神が選んだということではありません。一番小さな者を敢えて選び給うたということが聖書の選びであります。そこでは人間は誇るべきものをもってはおりません。聖書の選びは、例えば、エフェソ書で申すなら3章8節でございます。そこでパウロは、自分は聖徒のうちで一番小さなものであるけれども、その一番小さなそういう自分に神の福音を宣べ伝える光栄を与えられておるということを述べております。私たちから見ますと本当にそうかなと思うようなことですけれども、しかしパウロはそうであります。正直であります。聖徒のうちで一番小さな者というのは何も誇張ではありません。パウロ自身はそのものずばりと思っていたのでございましょう。こういう一番小さな者に福音を伝える光栄なつとめを負わされておる。これば聖書の選びであります。

 私たちは神に属する栄光を感謝し、主の民としての歩みをこれからも続ける光栄と責任を覚えたいと思います。お祈りします。

TOP