6/9説教「罪人を招く主」

徴税人レビ
ルカによる福音書第5章27節以下には、レビという名前の徴税人が主イエスの弟子となったことが語られています。マタイによる福音書9章9節によれば、レビはマタイのことです。当時、徴税人が主イエスの弟子になるというのは驚くべきことでした。なぜなら徴税人は罪人の代表とされていたからです。彼らは文字通り税金を徴収する人でしたが、その税金は自分たちユダヤ人のために使われるのではなく、彼らを支配しているローマ帝国のためのものでした。外からの支配者に支払う税金を同胞であるユダヤ人が取り立てるのですから、彼らはユダヤ人たちの中で、裏切り者の売国奴として憎まれ、神に背く罪人として蔑まれていたのです。彼らは決められた分さえローマに納めれば、残りは自分の懐に入れることができるのです。ですから人々から多めに徴収することによって私腹を肥やすことができます。このようなわけで、徴税人は皆金持ちでした。しかしユダヤ人の同胞からは罪人の代表として憎まれ、軽蔑されていたのです。このレビも同じだったでしょう。通行税を徴収する収税所に座っている彼の姿は、金はあるけれども誰も友人のいない、孤独なものだったと思います。主イエスはそういうレビを見て、「わたしに従いなさい」とお招きになりました。すると彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った、と28節にあります。それは、レビが徴税人としての生活を捨てて主イエスの弟子となった瞬間です。
何もかも捨てて立ち上がる
ルカがここで特に強調していることは、28節の「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」という言葉です。レビは全てのものを捨てて主イエスに従っていった、そのことをルカは強調しているのです。ルカは、主イエスの弟子、つまり信仰者となることは、「全てを捨てて従っていく」ことだということを強調しているのです。
私たちはこの「何もかも捨てて」という言葉を聞くとすぐに、「自分にはとてもそんなことはできない」と思ってしまいます。しかしこの言葉をそのように簡単に「できない」と言ってしまう前に、もう少し、聖書の語ることに耳を傾けていきたいと思います。ルカはこの言葉によってどのようなことを語ろうとしているのでしょうか。この福音書の9章57節以下に、主イエスの弟子となるに際して求められる覚悟について語られているところがあります。そこを読んでみたいと思います。124頁です。9章57節から62節までを読みます。
57一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言う人がいた。58イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』59そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。60イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』61また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』62イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた」。
ここには、主イエスの弟子となるとは、主イエスご自身が、枕する所もないような歩みをしていかれる、その歩みについていくことであり、そのためには親の葬式を出すという子供としての義務さえも放棄することだと言われています。これなどは、親不孝を奨励している、と思われてしまいかねないところですが、しかし聖書は十戒において「あなたの父母を敬え」と教えているのですから、主イエスもここで親をないがしろにすることを教えているわけではありません。ここに示されているのは、死者を葬るという、過去を振り返ることよりも、主イエスによって今や、神の国の恵みのご支配が始まっているのだから、その新しい事実を言い広めることこそが、主イエスに従う者が第一に大切にすべきことなのだと言っているのです。「鋤に手をかけてから後ろを顧みるな」というのもそれと同じです。新たに始めたなら後ろを振り返るな、というのです。過去を見つめるのではなく、将来に目を向けていくことが、主イエスに従っていく弟子としての歩みなのです。
それは、これまでの歩み、生活からの訣別を意味します。レビは、徴税人として生きてきたこれまでの人生を捨てて、新しい歩みを始めたのです。主イエスを信じる信仰者になることにおいて、私たちも、このレビと同じように、それまでの歩みとは違う新しい人生を始めるのです。実際に信仰者となって生きている人の多くはそういうことを多かれ少なかれ体験しています。そもそも洗礼を受けるというのは、古い自分が死んで、新しく生まれ変わるということです。そこには、それまでの自分との訣別ということが必ずあるのです。
盛大な宴会
ここには、何もかも捨てて主イエスに従ったレビが、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した、と語られています。つまりレビにはなお家があり、盛大な宴会を催す財産があるのです。すべてを捨ててないではないかと思っていしまいますが、「何もかも捨てて」というのは、財産を全て放棄しなければならない、という話ではありません。財産を持っている人は信仰者になれない、などと考える必要はないのです。むしろここで注目すべきなのは、レビが主イエスのために盛大な宴会を催したということです。ここでルカは、何もかも捨てて主イエスに従ったレビがどのように変わったのかを印象的に描いています。彼は、主イエスを家に招いて宴会を催す者となったのです。それは、お金の使い方が変わったということです。レビはそれまでとは全く違う宴会を催す者となりました。主イエス・キリストを食卓の主人とする宴会です。ことの主人であるイエス・キリストを中心とする宴会を彼は催したのです。これは、それまでの、やけ酒によって憂さ晴らしをするような宴会とは全く違う、本当の喜びに満ちた宴です。レビは、何もかも捨てて主イエスに従ったことによって、財産を捨てたのではなくて、このようなまことの喜びのために財産を用いる者となったのです。
そしてその宴会には、「徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」とあります。レビはこの宴会に、これまでと同じように徴税人の仲間たちを招いたのです。しかしその招待の意味はこれまでとは全く違ったものとなっています。彼は自分の仲間たちや、その他にも大勢の人を招いて、主イエスに紹介しようとしているのです。主イエスとの出会いの場を作ろうとしているのです。自分が主イエスとの出会いによって、それまでの罪と、そのもたらす孤独から抜け出して全く新しく歩み出すことができた、人生の意味を見出すことができた、その喜びを彼らにも分け与えようとしているのです。レビは、それらの人々を大勢招いて、主イエスと出会わせようとしているのです。レビは、主イエスのもとに人々を連れて来る伝道のために、自分の財産を用いる者へと新しくされたのです。
つぶやき
このレビの家での盛大な宴会の様子を見たファリサイ派の人々や律法学者たちがつぶやきました。30節によれば彼らは、主イエスの弟子たちに向かって「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と言ったのです。彼らが「つぶやいた」とあります。つぶやきというのは、正々堂々と批判することとは違います。陰でぶつぶつとつぶやくのです。彼らの言っていることは明らかに主イエスへの批判ですが、それを弟子たちに向かって語っています。本人には言わないで、周辺の者に、より言いやすい者に言うのです。それがつぶやきの特徴です。私たちもしばしば、このようにつぶやくことがあります。人に与えられている救いを喜ぶのでなく、自分の規準によって人のことを「ここが問題だ、あそこがいけない」と批判ばかりする精神にとりつかれると、私たちもこのファリサイ派の人々と同じようにつぶやく者となってしまうのです。
主イエスは、ファリサイ派のつぶやきにお答えになりました。それが31、32節のお言葉です。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。これはとても分かりやすいお言葉です。医者を必要としているのは、健康な人ではなく病人である。自分はその病人のために来た医者なのだ、と主イエスは言われたのです。その病人とは罪人のことです。例えば徴税人であったレビは、同胞を苦しめることによって私腹を肥やす罪に陥っていました。その根本には、彼が主なる神から目を背け、自分が主人になって生きているという神に対する罪があったのです。その罪という病を癒す医者として、主イエスはレビのところに来て下さったのです。そして、レビが催した、同じような病人である徴税人や罪人たちが集まる宴会の席に喜んで連なって下さっているのです。
悔い改めへの招き
主イエスは、罪人を招いて悔い改めさせるために来られました。この「悔い改めさせる」ということにルカは注目し強調しています。主イエスは医者として、病人である罪人を治療なさる、その治療とは、悔い改めさせることなのです。主イエスによる救いとは、私たちの悔い改めが起ることです。そのためには、私たちは、自分の罪をはっきりと知らされなければならないのです。自分の罪を知り、自分がその罪を赦していただかなければならない者であることを知り、罪と訣別して新しくなることを求めていくところに、悔い改めが起ります。レビはそのようにして、徴税人として生きてきたそれまでの歩みから離れ、主イエスの弟子となったのです。あのシモン・ペトロも、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という告白を与えられることを通して主イエスの弟子となりました。罪を知らされ、そしてそれを赦されて新しくされるという悔い改めによってこそ、私たちは主イエスの弟子、信仰者となるのです。「何もかも捨てて」行うことの中心はこの悔い改めということになります。そういう意味では主イエスはここでファリサイ派の人々に、「あなたがた健康な人には医者はいらないが、この罪人たちは病気なのだから私という医者が必要なのだ」とおっしゃったのではありません。自分はこの人々のような罪人ではない、と思っているあなたがたは、自分は健康だと思い込んでいる病人と同じで、自分の病気を自覚しているこの人々のように治療を受けることができない、悔い改めて救いにあずかることができない、と言われたのです。主イエスのこのお言葉は私たちに対する問いでもあります。「私は病気でなくてよかった」と思うのか、「私こそ、あなたに癒していただかなければならない病人です。罪人である私をどうか救って下さい」と告白して主イエスに従っていくのか、そのことが問われているのです。
罪人を招く主
そして最後に、この主イエスのお言葉における一番大事なポイントは、それは「わたしが来たのは、罪人を招くためである」ということです。主イエスは、罪人を招いて下さっているのです。私たちは、このファリサイ派の人々と同じように自分が病人、罪人であることに気付いてすらいなかったのに、主イエスの方から私たちのところに来て下さり、私たちを招いて下さったのです。レビは、主イエスによる救いを求めていたのではありません。彼は普段の日と同じように、収税所に座っていたのです。そこに主イエスが来られて、「わたしに従いなさい」と声をかけて下さったのです。それは、彼に対する主イエスの招きのみ言葉でした。彼はこの招きに応えて立ち上がり、何もかも捨てて従って行ったのです。どうしてそんなに簡単に何もかも捨てて従っていくことができたのか、私たちは不思議に思いますが、その理由はただ一つ、主イエスが招いて下さったからです。彼が何を悩み、考え、決断したかは大した問題ではありません。そのような人間の思いの中から信仰が生まれるわけではないのです。悔い改めも同じです。私たちが自分のことをあれこれ反省することの中から悔い改めが生じるのではありません。レビがそうだったように、私たちも、主イエスご自身が、「わたしに従いなさい」と招いて下さることによってこそ、悔い改めることができるのです。そして主イエスの招きは、ただ言葉だけで与えられているのではありません。主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、肉を裂き血を流して死んで下さいました。私たちの罪はこの主イエスの十字架の死によって赦されたのです。ご自身の命を私たちのために与えて下さる、その恵みによって主イエスが招いて下さっているから、私たちは悔い改めて主イエスに従っていくことができるのです。
レビがここで催した盛大な宴会は、レビが催したものです。彼が主イエスを招き、またそこに徴税人の仲間たちや、罪人たちをも招いたのです。そのようにして催されたこの宴会はしかし、「わたしが来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という主イエスのみ言葉によって、主イエスご自身がレビを、そして多くの徴税人や罪人たちを招いて下さる宴席となりました。主イエスこそがこの宴席の主人として、罪人たちを招き、悔い改めへと導いて下さるのです。主イエスの招きに応えて、古い自分と訣別し、新しく生まれ変わることの印である洗礼を受け、主の恵みを味わう喜びの宴である聖餐にあずかりつつ生きること、それが主イエスに従っていく信仰者の歩みなのです。
主に立ち帰って生きる
最後に、今朝の旧約聖書の御言葉、エゼキエル書18章30節から32節から学びます。エゼキエルは紀元前598年バビロン捕囚の民に語った預言者ですが、彼はユダの民の捕囚の苦しみと主なる神の審判により裁かれていることを語ります。18章30節後半からこう語ります。
「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」
ここに告げられている言葉は、主に立ち帰って、主が約束する命の道を求める者に、将来の救いの確かさを保障する意味が込められています。「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」という主なる神の言葉は、救いへと召された新たな神の民の形成を告げています。主の民の反逆の罪に対する厳しい捕囚という審きは、この民を滅ぼす目的でなされたのではなく、新たな主の民の形成のためのものであることが明らかにされています。神が捕囚の民に向けられた想いは、「立ち帰って、生きよ」という言葉に集約されています。「主に立ち帰って、生きよ」と言われる神が、私たちが主に立ち帰って生きるために、罪のない独り子を、死ぬべき私たちの代わりに十字架に架けたのです。この十字架の死と復活によってキリストがお建てになった教会は、主に立ち帰って生きる者たちの集まりです。この共同体で主に立ち帰って生きる人が日々生まれていくのです。変わることのない日常を過ごしていた者が、悔い改めて主に立ち帰り、主に従うことによって新しく生き始めるのです。私たちはすでに主に立ち帰って生きる、新しい命を生き始めています。この交わりの中へ、一人でも多くの方が加わることを神は喜ばれるのです。そのために教会は、交わりの外にいる方々を絶えず招き続けるのです。祈ります。

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