6/16説教「新しい革袋へ」

はじめに
6月第3日曜日は父の日です。キリスト教と特に関係はありませんが、世界にはさまざまな由来をもつ父の日があるようです。日本の父の日は、母の日と同じようにアメリカから伝わったものだといわれます。アメリカの父の日は6月の第3日曜日で、ソノラ・スマート・ドッドという女性の方の嘆願から始まったといわれています。1865年にアメリカの南北戦争が終結すると、軍人だったソノラの父も家族のもとに帰ってきますが、その矢先に母親が過労で亡くなってしまいます。ソノラの父は戦後の大変な時期にもかかわらず、男手一つで子ども6人を立派に育て上げました。月日が経ち、6人兄弟の末っ子だったソノラは、教会で行われていた集会で「母の日」の存在を知ります。そして、「母親に感謝する日だけでなく、父親に感謝する日も作ってほしい」と教会へ嘆願し、1910年6月19日に最初の父の日の式典が開催されたということです。そこから、毎年6月の第3日曜日が「父の日」となったそうです。ところで振り返って見ると、私は父にプレゼンとをしたことは記憶にないのですが、30年以上前に70歳で亡くなっているので、当時は父の日のプレゼントなど一般的ではなかったので仕方がないことです。しかし、私が子供のころ、家族が教会に行くようになったきっかけを作ったのは父でしたので、その後息子が牧師になっていると知ったら大きなプレゼントをしたことになるのかもしれません。さて、今朝もルカによる福音書からみ言葉の恵みに与りましょう。
断食の問題
33節に、「人々はイエスに言った」とあります。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」。ここでファリサイ派の弟子たちが問題としているのは「断食」のことです。洗礼者ヨハネの弟子たちも、また律法を厳格に守るファリサイ派の人々も熱心に断食をしていたのです。この福音書に出てくるファリサイ派の人は、自分は週に二度断食をしている(18章12節)と言っています。そういう人々に比べて、主イエスの弟子たちはあまり断食をしていなかったようです。
悔い改めと断食
果たして伝統的な信仰において断食はどのような意味を持っていたのでしょうか。旧約聖書を読みますと、断食は、罪の悔い改めと深く結びついています。自分の罪を覚え、神の前にそれを懺悔し、お詫びをする、そのことを食事を断つという行為によって、空腹の苦しみを自分に課して、その苦しみに耐えることによって表すのです。断食はそういういわゆる苦行の一種です。断食はユダヤ人たちの信仰の大切な要素だったのです。ところで、主イエス自身も、断食は全部いけないと言ったわけではありません。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」(35節)こう言われたのです。主イエスの断食は、喜びの中に断食があり、福音の中に断食があるのです。「花婿が奪い取られる時」とは、弟子たちにとっては、十字架のあの日、あるいは昇天の日に違いありません。弟子たちは昇天の後、エルサレムの二階座敷に上がって、きっと断食して祈ったかもせれません。いけないのは、自分の功績になっている断食です。修養や修業の目的は、自分を磨き、向上させることにあります。向上が目的でも、やはり向上しようとする自分を離れることが出来ません。信仰の断食は、祈りと結びついています。祈りは、いつも自分にではなく、ただ神に目を向けています。神の前に自分を空しくする点で、断食も祈りも共通性があるとも言えます。
信仰の基本的性格
ファリサイ派の弟子たちや律法学者が見つめているのは、主イエスの弟子たち、主イエスに従う信仰者たちにおいて、信仰がどのような生き方として現れているか、ということであり、その現れ方が、洗礼者ヨハネの弟子たちとも、ファリサイ派の人々とも、根本的に違っているということです。彼らはこの違いに、両者の信仰の基本的性格の違いを見て取っているのです。ヨハネの弟子たちやファリサイ派の信仰は、断食という苦行に代表される、自らに苦しみを課してそれによって神に祈り、罪の赦しを願い、従っていくという性格の信仰でした。簡単に言えば、努力と精進に生きる信仰です。それに対して主イエスを信じる弟子たちの、つまりキリスト教会の信仰は、レビの家で主イエスのために催した宴会の喜びに代表される、喜びに生きる信仰なのです。この違いに、主イエスを信じる信仰の決定的な新しさがあったのです。
婚礼のびに連なる信仰
主イエスはこの新しさを34節でこのように言い表しておられます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。つまり主イエスは、弟子たちのことを「婚礼の客」と言っておられるのです。花婿を迎え、お祝いに集った婚礼の客が断食をすることは相応しいでしょうか。それは私たちで言えば、結婚披露宴に招かれておりながら、出された食事に一切手を付けずに、ただ陰気な顔をして座っているようなものです。婚礼の客である主イエスの弟子たちにおいては、断食はそのように相応しくないのだ、と主イエスは言われたのです。主イエスを信じて生きることは、婚礼の祝いの席に連なるような喜びに生きることだと主イエスは言われるのです。その喜びとは、先週の箇所にあった、レビの家での盛大な宴会の喜びです。主イエスが「わたしに従いなさい」と声をかけ、招いて下さったのです。それは、罪を赦され、新しく生まれ変わって生きることへの招きでした。レビはこの招きに応えて立ち上がり、何もかも捨てて主イエスの弟子となったのです。このレビの喜びこそ、主イエスを信じて生きる者の喜びです。それは悔い改めの喜びです。悔い改めて神のもとに立ち帰ることができた喜びです。この喜びに断食は相応しくないことを示されたのです。断食は苦行です。それはしばしば、そのように自分に苦しみを課してそれに耐えることによって救いを獲得することができる、という勘違いを生んでしまうのです。悔い改めは、本来、神が罪を赦して下さり、それによって私たちが新しくされることです。神の赦しの恵みのゆえに私たちは悔い改めることができるのです。ところが、その神の赦しの恵みよりも自分が悔い改めることが主になってしまい、悔い改めが自分の手柄のようになってしまうのです。それは本当に悔い改めて生きることとは違う、ということです。本当に悔い改めるとは、神の恵みによって罪を赦していただき、神のもとに立ち帰ることができた、その喜びに生きることなのです。祝いの喜びに連なりつつ、人知れずなされる断食こそあなたがたの信仰に相応しいのだと主イエスは言われたのです。
花婿が奪い取られる時
主イエスは続く35節で「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」と言われました。花婿である主イエスが奪い取られる時、それは主イエスが捕えられ、十字架につけられて殺されてしまうその時です。ですから主イエスの十字架の苦しみと死を覚えて悲しみの断食をするのは相応しいことであり、それゆえに教会は、主イエスの受難を覚えて断食して祈ることをしてきました。しかしここでしっかり覚えておかなければならないのは、その主イエスの十字架の苦しみと死とによって、私たちの罪が赦されたことです。神の独り子であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪は赦されたのです。この主イエスの十字架の死による罪の赦しの喜びを私たちは与えられています。
古いものと新しいもの
36節以下で主イエスは二つのたとえを用いて語られました。婚礼の話も既に一つのたとえですが、新たなたとえが二つ語られたのです。第一のたとえは、新しい服から布切れを破り取って古い服に継ぎを当てたりはしない、そんなことをしたら、新しい服もだめになるし、新しい服の布切れは古い服には合わない、というたとえです。第二のたとえは、新しいぶどう酒は古い革袋には入れない、そんなことをしたら古い革袋は破れて革袋もぶどう酒もだめになってしまう、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければならない、というたとえです。第二のたとえで言われているのは、新しいぶどう酒はまだ盛んに発酵を続けているので、弱くなっている古い革袋はそれに耐えられずに破れてしまう、ということのようです。いずれにしてもこれらのたとえによって言い表されているのは、新しいものと古いものとは合わない、新しいものを古いものにあてはめようとするのは愚かだ、ということです。その新しいものとは、主イエスを信じる弟子たちの信仰、つまりキリスト信者の信仰です。古いものとは、断食に代表される伝統的な信仰のあり方です。主イエスの弟子たちに断食することを求めるのは、新しい服を破ってその布切れを古い服にあてはめようとすることで、とうてい合うものではないし、どちらもだめになってしまう、またそれは新しいぶどう酒を古い革袋に入れるようなもので、やはりどちらもだめになってしまうのです。ですから、信仰に基づく生活、具体的には、飲んだり食べたりするという宴会に象徴される、喜びを基本的な性格とする信仰生活を生むのであって、それを、断食という苦行に象徴される、自分の努力と精進で悔い改めて正しい者となろうとする古い信仰のあり方によって批判したり規制しようとすることは間違っているのです。「古いものの方がよい」と言って、古いぶどう酒を飲み続けているうちは、新しいぶどう酒の味を知ることはできないのです。
新しい契約
今朝の旧約聖書の御言葉はエレミヤ書31章1節から14節までを読みました。
主の言葉はまず、「わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」(1節)という約束から始められています。神は、イスラエルを「わが民」として、その救済に与らせようと、招きの言葉を発しておられます。その際、回顧されるのは、出エジプトにおける荒野時代です。かつてイスラエルの民はエジプトを脱出し、奴隷の苦役から解放され、安息を見出すべく旅をしました。カナンという約束の地をめざすその旅は、主が彼らに恵み深い態度を示された、と言及されています。バビロンという捕囚の地からの解放と救いは、第二の出エジプトの出来事として起こることが示されています。
その救いはどのようになされるか、3節において述べられています。
第一に、主の現臨による導きが与えられることによって起こることが語られています。「遠くから、主はわたしに現れた。」という形においてそれは実現します。捕囚の民は神殿を破壊され、約束された地から引き離されて、彼らは文字通り、主の現臨と救いから遠ざけられた民として自らを理解していました。しかし、そのイスラエルに「遠くから、主はわたしに現れた。」という言葉は、そこにも主の現臨と支配が可能であることを示す喜びの告白が明らかにされています。 その喜びの体験は、もはや主は遠くではなく、バビロンの地においても主は「近くにある」という信仰を可能にするのです。バビロン捕囚は主の審判として、エレミヤの預言どおり実現した事柄であり、エレミヤはそれを「新しい発端」として受け入れるべきことを語っていました。その新しい発端とは、まさに捕囚を通して新しいイスラエルの創造を始めることであることが示されていました。第二に、その救いは、永遠に変らない主の愛によって実現することが語られています。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」という言葉がそれです。民の側が契約を破って罪を犯すことがあっても、神の慈しみが契約を立て直します。神は不変の愛をもってその契約を立て直される。ここにイスラエルの希望が明らかにされています。そして、そこから悔い改めへの道が開かれています。イスラエルが悔い改めたから、神はその愛を注がれるというのではなく、神がとこしえの愛をもって、その契約を覚え、変ることなくその愛を注がれることによって、イスラエルを救うといわれるのです。この先行する神の愛、契約の愛がとこしえに変ることなく存在し、与えられるという大きな喜び、希望が悔い改めの信仰を呼び覚ますのです。
主イエスによる新しさに生きる
主イエスは、今朝のルカによる福音書5章の最後の39節でこう言われました。「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」。これは何を言っているのでしょうか。新しいぶどう酒よりも古いぶどう酒の方がよい、ということでしょうか。ぶどう酒ならばそういうことが当時から言われていたのです。主イエスはそのような人々の常識をここに持ってくることによって、新しいぶどう酒、つまり主イエスと共にあることによって与えられる新しい信仰をなかなか受け入れようとしない人々を皮肉っておられるのです。私たちは、信仰生活においても、古いぶどう酒の方を好むという傾向を持っています。その方が慣れ親しんでいるから安心できるし、落ち着くのです。冒険をせずにすむのです。しかし教理的にどんなに正しい信仰であったとしても、古いぶどう酒を好み、「新しいものよりやっぱりこっちの方がいいね」と言っているだけでは、主イエスが私たちに与えようとしておられる信仰に生きることはできません。主イエスはここで明らかに、新しいぶどう酒をこそ私たちに飲ませようとしておられるのです。主イエスを信じ、主イエスと共に歩む信仰は、常に新しいぶどう酒です。その新しいぶどう酒は、古い革袋を打ち破っていくエネルギーを秘めています。「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」。このみ言葉は、私たちが、そして教会が、主イエスが与えて下さる新しいぶどう酒に相応しい新しい革袋となることを求めています。聖霊のお働きによって共にいて下さる生ける主イエスとの出会いと交わりとを求めていくことによって、私たちは主イエスによる本当の新しさに生きることができます。そしてそこには、主イエスという花婿を迎える婚礼の客としての、喜びと祝いに生きる信仰が与えられていくのです。
そして、神のものとされた人生は、もはや過去の物差しで測ったり、古い枠組みに後戻りしたりすることはありません。主によってもたらされた「新しい自分」は、どんなに失敗しても、どんなに苦しんでも、どんなに傷ついても、もはや「古い自分」に後戻りすることはあり得ないのです。私たちの歩む道は御国の喜びの食卓を約束されている道なのです。

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