7/14説教「十二人を選ぶ」

はじめに
昨日から大磯のお祭りが始まっていて、今日も朝から御船祭りの神輿や山車が出て太鼓の音が相当に響くと思います。教会の前にそれらが集まり、港の方に降りていくようです。一昨日、主催者に申し入れて礼拝の時間を避けてもらうように申し入れましたが、来年からは配慮するように調整すると言われましたが、今回は無理だと言われたので、何とか集中して聞いてください。そんなわけで、今朝は東側の鉄の防火扉を閉めて礼拝しています。大磯教会は地域に開かれた教会を標榜しているわけですが何らかの調整が必要になっています。大磯教会と地域の行事との競合ということでは、もう一つあり、12月24日のイブ礼拝、燭火礼拝があるわけですが、こちらは良い関係ですみわけができています。
さて、今朝のテーマは、主イエスが弟子の中から十二人を選んで使徒と名づけられたということが語られています。十二人の弟子のリストはマタイとマルコの福音書にもありますが、よく見るとどれも少しずつ名前が違っています。新約聖書は、この十二人の一人一人について、どのような人でどのような働きをした、ということを語っているわけではありません。このリストにだけ名前があり、どんな人かは全然分からない、という人もいるのです。そのように主イエスの十二人の弟子たちについては分からないことも多いのですが、とにかく三つの福音書が共通して語っていることは、主イエスが十二人の人々を特別に選んだ、ということです。その十二人が、主イエスと常に行動を共にし、そして主イエスが十字架にかかって死なれ、三日目に復活し、天に昇られた後、この十二人によって、救い主キリストの福音、救いの知らせが、宣べ伝えられていったのです。早速、御言葉の恵みに与りましょう。

徹夜の祈り
12節には「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」とあります。祈りは神に自分の思いを伝えることです。十二人の使徒たちは、主イエスの徹夜の祈りによって選び出され、任命されたのです。
そのような祈りを経て、十二人の使徒をお選びになったのです。このようにルカは、主イエスが、その歩みの大切な節々で、父なる神との祈りにおける交わりを大切にしておられたことを語っています。主イエスは、「神に祈って夜を明かされた」とありますが、主イエスが世を徹して祈られた場面は今朝の箇所と、もう一つは、捕えられる直前のあの「ゲツセマネの祈り」の場面だけなのです。そこでは夜を徹して祈られたとは書いてはありませんが、明らかにそう読み取れる場面です。そうすると、主イエスの地上のご生涯において主が眠らずに祈られた二つの祈り、その第一の祈りがここにあるということになります。ですから、今朝の箇所は、十二使徒の選びがいかに大切な、深い祈りによって備えられなければならない事柄であるか、が示されているのです。

イスカリオテのユダ
主イエスは、なぜ、夜を徹してまで祈らなければならなかったのでしょうか。この十二人の選びが大変なことだったのは、ひとえに、十二番目の人のためだったと思われるのです。これはどの福音書においてもそうですが、十二人のリストの最後に来るのは、イスカリオテのユダです。この人は、16節に語られているように、「後に裏切り者となった」人なのです。彼は後に祭司長たちや律法学者たちに主イエスを売り渡し、主イエスの逮捕の手引きをしました。主イエスが捕えられて十字架につけられることの直接の原因となったのはイスカリオテのユダなのです。それは、後で振り返ったら結果的にそうなった、というのではなくて、主イエスは最初から、このユダが裏切り者となることを知っておられた、知っていて、十二人に加えたのだ、ということを語るためでしょう。ルカが、この人々を選ぶに際して主イエスが徹夜で祈られたことを語っているのも、裏切り者となるイスカリオテのユダを十二人に加えることを決断するために、主イエスは夜を徹して、父なる神に祈られたのです。あのゲッセマネの祈りが主イエスのご生涯にとって決定的な、大切な時の祈りであったように、ここにも主イエスの歩みにとって大切な、祈らずにおれない時だったのです。
ところで、主イエスが選ばれたのは特別に優秀な人たちだったのではありません。十二人の中には当時の「徴税人」や「熱心党員」もいました。後に主を裏切ることになるペトロの弱さやイスカリオテのユダの裏切りを予測されながらもあえて彼らを選ばれたのです。「使徒」は「遣わされた者」という意味の言葉です。マタイとマルコ福音書では、選ばれた十二人の弟子が「使徒」と呼ばれている所はほとんどありません。彼らが「使徒」と呼ばれるようになったのは、後のペンテコステの出来事によって彼らが聖霊の力を受けて伝道へと遣わされたことによってです。ルカがこの福音書の続きとして書いた書物が「使徒言行録」です。この使徒たちが宣べ伝えた信仰が教会の信仰でありそれを受け継いでいるのです。毎週礼拝において唱えている信仰告白が「使徒信条」と呼ばれているのも、それが使徒たちの信仰を伝えているからです。
ゲッセマネの祈りでは、死を直前にして主イエスは、私のこころではなくて、あなたのみこころを知りたいと父なる神に尋ねられました。それと同じことがここで起こっていたとも言えるのです。なぜ、何を主イエスは父なる神にお尋ねにならなければならなかったのか。11節でファリサイ派は怒り狂って、主イエスを何とかしようと話し合った。とあるように人々の殺意に取り囲まれたときに、当然そこですべきことは逃げることです。そこから一度離れることです。私たちも時として経験することですが、困難なことに追いつめられるような思い、心の重荷を感じた時には緊急避難すべきなのです。いったん退くことが必要でしょう。確かに、主イエスはここでもいったん避難して山に登られ一晩中祈られたのです。ところが、やがて17節以下に記されているように、また山からおりて来られます。敵意のある人々の中にまた入り直されたのです。

全ての病気を癒す
さて17節以下には、主イエスが弟子たちと共に山を下りて平らな所に立つと、大勢の弟子とおびただしい群衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、またティルスやシドンの海岸地方から、教えを聞くため、また病気を癒してもらったり、汚れた霊を追い出してもらうために押し寄せて来たことが語られています。主イエスは彼らの病気を癒し、悪霊を追い出されました。19節の最後には、「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」とあります。主イエスが、ご自分の中から出る大いなる力によって、多くの人々を、病気や汚れた霊の支配から解放し、救って下さった、そういう目覚ましいお働きがなされたことが語られているのです。
山の上で、徹夜の祈りによって神のみ心に従うことを決断し、裏切り者となるユダを含む十二人を使徒として選んで下さった主イエスは、その山を下りて、罪に支配された私たちの現実のまっただ中に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架の死への道を歩んで下さったのです。
私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった主イエスは、父なる神によって復活させられ、新しい命を与えられました。私たちもこの新しい命にあずかりたいのです。そのためには、主イエスが私たちのために十字架の死への道を選び取り、歩み通して下さったことをしっかりと覚えなければなりません。そして私たちも、主イエスによって選ばれ、遣わされた使徒たちのように、この世における神の救いのみ業の前進のために仕える者となることができるのです。

喜びの歌をうたいながら帰る
今朝与えられている旧約聖書の言葉は詩編126編1節から6節です。この詩編は一般的にはバビロン捕囚という歴史的背景から読み解かれます。バビロンに半世紀にわたって長い間捕らわれていたユダヤ人がペルシャ王クロスによって解放され、そのある者は故国に帰還し、その後エルサレムの破壊された城壁は再び修築され、また小規模ながらその新しい神殿も再建されました。それを大いなる歓喜をもって歌ったのが本詩です。「シオン」というのは本来は、エルサレム神殿を取り巻く山のことですが、エルサレム神殿、さらにはエルサレム自体を呼ぶようになりました。シオンへの帰還、エルサレムの復興は、外国人の目から見ても驚くべきことと見えたのです。もろもろの国民の中に驚きの声が上がったというのです。主は彼らのために大いなる事をなされた。だからこのエルサレムの復興は神の栄光が現れる機会になったと歌っています。今、パレスティナのガザ地区で起こっていることが二千五百年前と同じように破壊と復興を繰り返す歴史の中にあることをどう捉えたら良いのでしょう。この詩編の最後に印象的な歌があります。
「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に借り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」
このようなたとえが当時あったようです。神は種蒔く人を送って、私達に応えられる。しかしながら、どれだけの人が発芽するのか。多くの種は道端に、また石地に、はたまた雑草地に落ちるのです。
主イエスは、ヨハネ福音書12章24,25節において、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われます。この詩篇のこれらの言葉も、主イエスの言葉とその根底において同じ理解が存在しているのです。
この詩篇の詩人は、現在の苦しみと死の中に新しい生の来るべき栄光が示唆されているのを見ているだけではありません。地中に蒔かれる種のように、死から生を創り出す神秘的な神の力が、そこにすでに働いているのを見ているのです。彼が体験するその時代の苦難に、光を与え、最終的に闇から光へと導くのは、神の奇しき生命力への信仰だけなのです。そのような信仰にとって、その時の苦しみは、神の栄光を喜ぶために、なくてならない必要な過程でもあります。苦難も、死も、神の救いの業の一部でありまあります。隠れたところで発芽し、神の祝福あふれる収穫へと結を結ぶのは、神の種です。そしてそれは、神の約束の言葉への信仰なのです。

主イエスによる救いのみ業
ルカは何を語ろうとしているのでしょうか。神による解放、自由を告げ、その解放のしるしとして、人々を捕えている病や悪霊から人々を解き放ち癒すことです。その救いのみ業が本当に前進するのは、人々を捕え、縛り付けている苦しみを、そしてその苦しみの根本にある人間の罪を、主イエスが全てご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さることによってなのだ、ということこそ、ルカがここで語ろうとしていることなのではないでしょうか。私たちを捕え、縛りつけているものの根本にあるのは罪です。罪とは、私たちが神のことを思わず、感謝もせず、み心に従おうとせずに、自分の思い、願いのみによって生きていることです。生まれつきの私たちは、神から自由になって、自分が主人になって、自分の思い通りに生きようとしているのです。あるいは自分の心に固い壁を作ってその中に閉じ籠ってしまったりするのです。よい交わりを築けなくなり、人の愛や善意を信じることができなくなり、隣人を傷つけ苦しめる者となってしまうのです。ここで病人や悪霊に苦しめられている人々をお癒しになったのは、罪に捕えられ、隣人をも愛することができなくなっている私たちを解放し、神をも隣人をも愛する自由を与えて下さる、その救いのみ業の象徴です。そしてその救い、解放は、主イエスが背負って下さって、私たちに代わって十字架にかかって死んで下さることによってこそ実現するのです。

人々の現実のただ中へ
「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」と17節にあります。主イエスが山に登られたのは、そこに留まるためではなく山から降りてくるためです。ユダヤ全土と異邦人の地からやって来て、主イエスの教えを待ち望んでいる大勢の人たちのただ中に、「何とかしてイエスに触れよう」とするほどに主イエスを求め、病の癒しを願っている人たちの現実のただ中に、主イエスは山を降りて再び向かわれるのです。主イエスは神の国の福音を告げ知らせ、病の中にあって希望を失っている一人ひとりを憐れみ、癒しのみ業を行ってくださるのです。その主イエスのそばに、主イエスが夜を徹して神に祈り、神さまの御心によって選ばれた十二人がいます。主イエスが彼らを選んだのは、自分お一人では危険だからでも、手が足りないからでもありません。十二人は主イエスと一緒に山を降りるために選ばれたのです。一緒に山を降りて、み言葉に飢え渇いている多くの人たちのところへ、病にあって苦しみの現実を生きている人たちのところへと向かうのです。
私たちも山の上に留まっているわけにはいきません。主イエスと共にこの世の現実へと向かっていきます。そこでは、多くの人が傷つき、苦しみ、嘆き、希望を持てずにいます。だからこそその現実のただ中に福音を告げ知らせなければなりません。私たちは礼拝からこの世の現実へと遣わされます。遣わされた先で、苦しんでいる人、悲しんでいる人、虚しさの中にある人、本当の慰めと平安を見いだせずにいる人と共に過ごします。私たちはそのような人たちを一人でも多く礼拝へと招くのです。一人として罪に滅ぶことを神さまは望まれていないからです。礼拝に招かれることによって、み言葉を与えられ、主イエス・キリストの十字架と復活にこそ救いがあると告げ知らされるのです。この世の現実がどれほど悲惨であったとしても恐れることはありません。私たちは一人で山を降りるのではないからです。夜を徹して私たち一人ひとりのために祈ってくださり私たちを選んでくださった主イエスと一緒に山を降りて、この世の現実へと向かうのです。この礼拝から遣わされて、それぞれの現実へと主イエスと一緒に向かっていくのです。

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