はじめに
一昨日、私は知り合いの牧師の葬儀に夫婦で出席しました。日本キリスト教団青山教会の増田将平牧師の葬儀式でした。彼は、52歳の若さでした。少し個人的な思いを持ってお話ししますが、私が平塚富士見町教会の信徒でいた時に高校生でありました。牧師であった父親が北陸の小松教会から平塚富士見町教会に招へいされたので家族と共に引越してきたのです。確か大磯高校に転入生として入ったと思います。彼は、その後東京神学大学に入学し、卒業後はスコットランドの大学に留学しましたが、帰国後、二つの教会を牧会した後、青山教会で牧師として20数年牧会されました。そして若者の信仰教育、学校教育にも熱心な牧師で、頌栄女子学院や青山学院高等部でも聖書科の教師としても働き、生徒に大変人気の先生であったようです。教会員だけでなく、青年たちに親しまれた牧師で、決して威張ることなく、明るい、おそらく誰からも愛された牧師であり教師ではなかったかと思います。それを証明するかのように、一昨日、19日(金)の葬儀は、大きな礼拝堂がいっぱいになったのです。中央線の飯田橋駅のすぐ前にある日本基督教団富士見町教会という大きな教会が葬儀式場でしたが、大きな教会がいっぱいになり400~500人ぐらいの方が参列したと思います。式後の献花が終わるまで2時間ぐらいかかったと思います。神奈川県では大きい教会の横浜指路教会や鎌倉雪ノ下教会の2倍ぐらいの大きな礼拝堂がいっぱいになったのです。式順の中で、「奉唱」といって独唱する場面があるのを初めて知りましたが、青山教会員でプロの声楽家の迫力ある素晴らしい声がパイプオルガンの奏楽と共に広い礼拝堂を圧倒したことにも感激したのですが、それよりも、いわば52歳の私からしたらまだ若いこれからまだまだ活躍するはずの一牧師を慕ってこれほど多くのクリスチャン・学校関係者が参列されたことに大変驚ろいたのです。
彼は、2年ぐらい前から進行性の特殊な癌で背中に痛みがあり、すでに肺に穴が開いていて、もう治療の方法がなく緩和ケアを医師から進められていたようですが、それを何度も拒否して治療を続けながら青山教会の主任牧師として最後まで礼拝説教を続けられ、肺が侵されほとんど息が出来ない中でも、今日の7月21日の説教の準備をも続けていたとのことです。青山教会のYouTube映像に彼の説教が見られますが、体調の変化がよく分かり、最後は抗がん剤で髪の毛はなくなり、椅子に座って語っていますが、最後まで会衆に話しかけるように聖書のメッセージを語っている姿は私達に大きな励ましを与えます。最後の頃は解説書を読む力もなくなり、奥様やご子息に読んでもらって説教の準備をしていたということも紹介されていました。神は主イエスに忠実な良い牧師をなぜ、先に天に召されるのだろうか。司式者が語っていましたが、彼の名前は「将平」と言い「大谷翔平」と同じですが、牧師であった父親が「平和のための大将になるように」と「将平」(大将の「将」と平和の「平」)と名付けたと紹介していましたが、まさにキリストの平和のために働きました。全国のクリスチャン青年を教派に関係なく集め代々木オリンピック記念施設で全国クリスチャン青年大会を開いた時の委員長でもありました。私の心に、いつまでも残る伝道者の姿を見ました。
さて、今朝の説教題は「幸いと不幸」というテーマです。主イエスが教える幸いとは何か。不幸とはなにかを御言葉から教えられたいと思います。主イエスの言葉は、現代の日本に住むわたしたちにも直接に語りかける神の言葉です。わたしたちがルカの教会と同じ信仰を共有しているからです。また、わたしたちが大勢の弟子たちと同じ境遇に立っているからです。イエス・キリストが、時空を超えて人間にとっての幸せとは何か、不幸とは何かを教えています。早速、御言葉の恵みにあずかりましょう。
平地の説教
主イエスの幸いについての教えはマタイによる福音書5章にあり「山上の説教」と言われています。そこには8つの幸いが語られています。しかし、今朝のこのルカによる福音書6章は「平地の説教」と呼ばれ、幸せと不幸を4つずつ語っています。「貧しい」に対して「富んでいる」、「飢えている」に対して「満腹している」、「泣いている」に対して「笑っている」、「人々に憎まれる」に対して「すべての人にほめられる」です。主イエスは。神の祝福、恵みは、貧しく、困窮の内にあり、悲しみ、泣いている人々にこそ与えられるとお語りになったのです。逆に今、豊かさの中で満足し、喜び、笑っている者は神の祝福、恵みから遠いと言われたのです。この言葉は逆説に満ちています。逆説とは、一見するとあべこべのこと・矛盾に満ちたことを言っているように聞こえるけれども、よくよく考えてみるとその通りかもしれないと思えるような真理です。一般的に貧乏は不幸です。貧しいということは飢えに直結します(21節前半)。ビクトル・ユーゴーの有名なレ・ミゼラブルの主人公、ジャン・バルジャンはまさに貧しさからパンを盗みました。パンを買う金がないから飢えるのです。貧困と飢餓は感情と生命を奪います。さらに主イエスの弟子たちには固有の悩みがあります。主イエスに従うために人々に憎まれ、市民社会から追い出されることがあるからです(22節)。したくないことを強制されることは不幸です。それだから、自分の内心・思想・信仰を理由にして迫害されることは、泣くことに直結します(21節後半)。人の心を捻じ曲げることは、たとえ生命がかろうじて守られていても、魂を殺すことなのです。貧しいこと・飢えること・泣くこと・思想弾圧を受けることは、明白に不幸です。一体どのような意味でこれが幸せと言えるのでしょうか。そして富んでいる人はなぜ不幸なのでしょうか。それは、主イエスによれば、富んでいる人は、すでに慰めを受けているからというわけです(24節)。今までに自分の富を自分のためにさんざん使っているので、もう十分というわけです。つまり未来に向けては何の希望もないということです。丈夫な人には医者は要りません(5章31節)。主イエスによる慰めが必要ないということが不幸なのです。お金を持っていること、富んでいることは満腹することに直結します(6章25節)。しかし人生は流転の旅です。明日には物乞いに落ちぶれるかもしれません。突然飢えることもありえますし、明日には突然命が取り上げられるかもしれないのです。(12章13-21節)。今満腹している人の問題性は、「今だけ」という生き方にあります。26節には「すべての人にほめられるとき、あなたは不幸である」とあります。なぜなのか。すべての人にほめられることに何の問題があるのでしょう。どんな人も褒められたいものです。つまり、「全会一致の決議は眉唾物」と言われます。人間には多様な意見がありますし、事柄によってはどうしても賛成できないという少数意見もありえます。ですから、あえて言えば、誰からも歓迎される意見は真理の名に値しないのかもしれません。すべての人に褒められたい人の問題性は、その「軽さ」にあります。この軽さは、今の時代を象徴する笑い文化に直結するのかもしれません(25節後半)。今、テレビなどの報道はスポンサーである大手広告代理店の意向にしたがって政府を批判する報道を控え、いかにも軽いのりの番組を多用しています。ここにも「お金だけ」の問題が見え隠れします。わたしたちの心はすでに操作されています。この現象の行き着くところは、もしかすると大本営発表の再来でしょう。すべての情報が管理される社会の到来です。今だけ・金だけ・自分だけ、そして、この軽さに未来は無いし、希望がありません。だから不幸なのです。信仰とは、神にこそ依り頼み、信頼して、神からの慰めをこそ求めて生きることです。主なる神からの慰めを求めなくなった信仰者はまことに不幸です。何か災いが起るという意味で不幸なのではなくて、その人の目が神を見失い、この世のことしか見えなくなっていることが不幸なのです。この世のことしか目に入らなくなる時、私たちはこの世の事柄、例えばお金や地位や名誉などに捕われ、束縛されてその奴隷になってしまいます。そこに、富んでいる者の不幸があるのです。逆に貧しさの中でひたすら神からの慰めを、守りと導きを求めるところにこそ、この世の事柄からの自由と、束縛からの解放が与えられます。神の国、神のご支配の下で生きるところに、この世の力からの解放があるのです。貧しい者が幸いであるのはそのためなのです。
本当の幸い
この幸いと不幸の教えにおいて主イエスは弟子たちに、つまり私たちに、この世の人生の終わりである死をも超えてその先まで私たちを支配し、導き、報いを与えて下さる神を見つめて生きる本当の幸いを与えようとしておられます。この幸いを私たちに与えるために、主イエスは人の子としてこの世に来て下さり、人々に憎まれ、ののしられ、汚名を着せられて十字架につけられ、この世から追い出されて殺されたのです。この主イエスの苦しみと十字架の死とによって私たちは罪を全て赦され、神の前に安心して出ることができるようになったのです。主イエスのたとえに話にあるように、死後に苦しんだあの金持ちのように陰府で苦しむのではなくて、ラザロのように神の宴席に迎えられる約束を与えられたのです。私たちはそのことを見つめ、そこに希望を置いて、今のこの地上の人生を、主イエス・キリストを信じる者として歩むことができるのです。そこに、本当に幸いな人生が与えられていくのです。
将来の幸い
ルカによる福音書16章19節以下に「金持ちとラザロ」の話があります。生前贅沢に遊び暮らしていた金持ちは、死ぬと陰府の苦しみに落とされ、その金持ちの門前で乞食をしていたラザロは、死ぬと天においてアブラハムのすぐそばに迎えられて慰めを与えられる、という話です。この話と、今朝の箇所の幸いと不幸についての教えとは重なり合うのです。これらの話から私たちが読み取るべきことは、死んだ後の世界はどうなっているか、ということではありません。そうではなくて、今のこの地上における人生とその目に見える現実だけを見つめて生きることはまことに愚かな、また不幸なことだ、ということをこそ私たちはこれらの話から読み取るべきなのです。今の人生の目に見える現実のみを見つめるならば不幸としか思えないような人が、肉体の死を経て神のみ前に出る将来に与えられる救いに目を向けることによって、本当の幸いを知り、それにあずかることができる、ということです。ここに語られている幸いとは、この世を、そして私たちの命と人生とを支配し導いておられる神を見つめて、その神との交わりの内に生きていくところに与えられる将来の幸いであり、ここに語られている不幸とは、神を見つめることなく、自分の人生をこの世の目に見える事柄の中でのみ見つめていくことによって将来陥る不幸なのです。
主を呼び求めよ
今朝私たちに与えられている旧約聖書の御言葉はイザヤ書55章1節から13節までで、すべて読みましたが、6節、7節だけをもう一度お読みします。
6主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
7神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るなら
ば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。
神は、逆らう者も、悪を行う者も招かれます。この方だけは「見放すことも、見捨てることもない」(ヨシュア 1:5)お方です。自分自身の罪に絶望してしまうときにも、裁きの中にあっても、神は招かれます。主イエスは自分を裏切るイスカリオテのユダをも弟子に招かれました。3度知らないと言うペトロを弟子にされました。逮捕されたらクモの子を散らすように逃げ出す者たちを弟子にされました。自分の罪も弱さも気づいていない者たちも、イエスは知った上で招かれ、弟子とされました。だから神は今、このわたしも招いていてくださり、神の民としてくださっているのです。
御心のままに
冒頭にお話しした青山教会の増田将平牧師の葬儀のことですが、神学大学の同期であった親友
が弔辞でこう語っていました。彼は同期の中でうらやましいほど輝いた存在であったが、亡くな
る少し前に電話で話したそうです。背中の痛みと息が出来ない苦しさの中にあって、自分を支配
している主人は病魔ではないかと思うことがあると。そして、なぜ自分なのかという思いもある
と語っていたと言われました。イエス・キリストでさえ、ゲッセマネの祈りで「父よ、御心な
ら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られたのです。「しかし、わたしの願いで
はなく、御心のままに行ってください。」と祈られました。彼も聖書さえ持つ体力がなくなった
状況の中でも次週の説教の準備をしていたのです。御心のままに主にすべてをゆだねて福音を伝
えようとしました。主イエスの生涯をなぞったような福音伝道者のように私には思えました。今
朝は主イエスが「幸いと不幸」について教えて下さった箇所でした。
21今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。
私たちは、今だけ・金だけ・自分だけという軽さを乗り越え、永遠に続く重みを受け継ぎたいものです。それは希望と未来です。これらによって自分の満腹は得られなくても、わたしたち全体の満腹への祈りと行動が生まれます。希望が人を生かす力です。お祈りします。