7/28説教「敵を愛しなさい」

はじめに
パリでオリンピックが開催されましたが、近代オリンピックは1896年フランスのクーベルタン男爵の「スポーツによる青少年教育の振興と世界平和の実現のために古代オリンピックを復興しよう」という呼びかけによって始まったと言われます。しかし、パリオリンピック開会式当日、フランス新幹線への組織的テロの仕業と思われる事故によって混乱しました。平和の祭典の陰に戦争・争いが見え隠れする現実があります。今朝私たちに与えられた新約聖書の御言葉は、ルカによる福音書6章27~36節で「敵を愛しなさい」という主イエスの御言葉です。この教えの意味や内容には特に難しいことはありません。読めば何が語られているのかを理解することができるでしょう。しかし理解することと、この教えを自分自身の生活において実行すること、ここに語られている通りに生きることは全く別だと私たちは思わずにはおれません。主イエスはなんと難しい、困難なことを教えたのか、この教えを実行することが信仰なのだとしたら、自分はとうてい信仰者にはなれない、と思わない人はいないでしょう。こんな無理なことを命じるなんて、主イエスは非常識で無責任だ、と反発を覚える人もいるでしょう。この教えに対する私たちの反応は様々だと思いますが、いずれにしても共通しているのは、ここに語られていることを実行するのは不可能だ、無理だ、という思いです。しかし私たちはここで、最初からそういう前提を立ててしまうことをやめて、先ず、主イエスが語っておられることをそのお言葉に即してしっかり聞き取っていきたいと思います。
弟子たちへの教えである
この主イエスの教えを正しく理解するためには、これが誰に向かって語られた言葉なのかということを捉えなければなりません。この説教の冒頭の20節には「さて、イエスは目を上げて弟子たちを見て言われた」とありました。つまりこの教えは、主イエスの弟子たち、主イエスに従って来ている人々、主イエスを信じる信仰者に対して語られているということです。そのことは本日の箇所の冒頭の27節にも語られています。27節には「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と記されています。説教の途中でこんなことを改めてわざわざ言わなくてもよさそうなものです。しかし敢えてそれが語られているのは、これから語る「敵を愛しなさい」という教えは、主イエスの言葉をしっかりと聞き、それに従って生きようとしている「あなたがた」においてこそ意味があるのであって、そうでない人、主イエスの言葉を真剣に聞いていない人には語っても仕方がない、という思いの現れでしょう。つまり、あなたがたは、私の教えを聞いているはずだ、ということです。それは、あなたがたは罪のない人たちだ、ということではなくて、あなたがたは私の言葉を聞いており、それによってまことの神を知らされている、神の恵み、愛を受けている、ということです。つまり「あなたがた」とは、主イエスの言葉を聞き、従って来ている弟子たち、主イエスを信じる信仰者たちなのです。そのあなたがたには、敵を愛することが、人に善いことをし、何も当てにしないで貸すことができるはずだ、と主イエスは言っておられるのです。
敵を愛することのは可能か
古代から「敵を愛するという行為は果たして可能なのか」が熱心に論じられてきました。愛してしまった瞬間にその人は自分にとって敵ではなくなってしまいますから、ここに形容矛盾があるのです。「そうだとすれば、この教えは守ることが不可能ではないか。ではなぜ主イエスは不可能な命令を弟子たちにするのか」ということが好んで論じられてきました。
最も弟子たちに甘い解釈は、「人間は弱い」ということを教えるために、主イエスは不可能な命令を課したというものです。不可能なのだから守らなくて良いという怠慢が引き起こされがちな解釈です。たとえば、キリスト教徒である十字軍はイスラム教徒を愛さなくて良いので侵略し殺すという蛮行を犯しました。殴られたら殴り返すことを正当化し、個別的に自衛権が認められ侵略しました。「敵を愛することは、人間には不可能なのだから、敵を愛さなくて良い。神はその罪も無条件で赦している」という反対解釈を許してしまったわけです。そういう都合のいい解釈です。それに対して最も弟子たちに厳しい解釈があります。敵を愛することは可能なことであり、この困難な教えを弟子は守るべきだというものです。
キング牧師の愛に生きる力
マーティン・ルーサー・キング牧師はこの立場を採りました。そして、主に黒人たちに向かって白人暴徒たちをも愛すべきだと説きます。暴力を濫用する白人に対して暴力で報復をするのではなく、非暴力の方法で相手を粘り強く説得すること、つまり相手よりも高い倫理観を持つべきだと、キング牧師は訴えたのです。キング牧師は愛による闘いを徹底的に生きようとした人です。そこに、非暴力の社会改革の運動が生まれました。黒人の公民権獲得運動に尽くし、ノーベル平和賞を受賞した人です。生命の危険にさらされながら、キング牧師にとって、その生活の原動力になったのは、まさに「あなたの敵を愛しなさい」という主の言葉でした。愛に生きる力でありました。キング牧師は説教の中で次のように語っています。
敵を愛せよとの命令はユートピアを夢見る者の神がかりの妄想どころではない。そうでは
なくて、我々人類が再び生き返るために絶対不可欠なものである。今日の世界の諸問題解決
の鍵はここにしかない。主イエスは、非実際的な理想主義者であるどころか、真に実際的な
理想主義者であられる。主イエスは、敵への愛がわれわれにとってどんなに難しいことかを
よく知っておられる。しかもその上で、敵を愛することが私たちに可能であることを教えて
おられる。キリスト者としてのわれわれの責任は、この教えの意味を見出し、日々の生活に
おいて情熱をもってこれを生き抜くということにある。
このように語るキング牧師の言葉は、まことに激しい言葉です。そして確信に満ちた言葉です。それは自分の力についての確信ではありません。主イエスに対する確かな信仰に溢れた言葉です。自分が言っているのではない。主イエスがそうおっしゃっているではないか。主イエスがこのように私たちについて大きな理想をもって語っておられるのではないか。私はそこに生きる。そう言うのです。そして、敵への愛というのは特別のことではない、日常的なことだと言われたのです。
私たちの罪のために
今朝の旧約聖書の御言葉はイザヤ書53章です。長い箇所を読みましたが、旧約聖書において、メシアによる罪の赦し(贖罪)のための受難を鮮やかに預言している最高峰と言えばこのイザヤ書53章です。この預言は来たるべきダビデの家系の王、メシヤについて書いてある詩編として理解されていました。王なるメシヤは苦しみをうけ、私たちの罪の代価を払って死に、復活するという約束がありました。また、メシヤは贖いの血潮をもって、信じる者たちすべてをきよめる事によって、世界の国々の祭司としての役目を果たすと約束されていました。これらの預言を成就した方はただ一人、イエス・キリストしかいません。2節に、僕は「乾いた地に埋もれた根からはえ出た若枝のように育った」と語っています。十分な水分と栄養分を取らずに育つ若枝は、干からびて貧弱で弱々しい姿をしています。この人はその様な弱さを持って育ちました。しかし、この人は「主の前に育った」といわれています。この僕にどのような主の御心が示されるかを誰も知らずにいました。知らないだけでなく、人々は彼を軽蔑し、無視し、見捨てました。しかし、彼は「主の前に育ち」、その苦難は主なる神の意志によってなされたものであり、その苦難は主なる神に覚えられていました。「見るべき面影もない、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」この人を人々は打ち、懲らしめ、裁きにかけて、ついに命を取り、命ある者の地から断たれるというまことに惨めな最期を遂げましたが、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」と4節で告白されています。彼が負ったこれらすべての苦難は、「わたしたちのため」であったというのです。彼は、ここで「わたしたち」と自ら呼んでいる人々のそのような苦難を引き受け、その使命を果たすために「主の前に育った」人物でありました。この僕の歌は、単に僕の苦難を物語っているのではありません。僕の苦難の意味を知った罪ある人間、その罪の苦しみ、病や痛みの苦しみを経験した人間が、その自分の現在の悲惨さにもかかわらず、この僕の苦難の故に自分の罪も病もその痛みも苦しみも癒されるのです。罪赦され、死の苦しみから解放されるのです。その喜びの中で、悔い改めの告白をなしている言葉がこの詩編の言葉なのです。そして、「見るべき面影のない」この僕は、病を負い、打ち砕かれ、刺し貫かれるというありとあらゆる苦難を負う生涯を歩みました。その僕の苦難こそが、わたしたちの罪のためであり、いやしのためであり、赦しのためであり、神との間にある怒りを取り除く「平和」のためであったと知らされるのです。
私たちの人生には、多くの苦難や病によって失望落胆させられることがあります。そうした苦悩自体に何か意味があるということを言う人もいますが、むしろ多くの可能性を奪い、生きる望みを失うことの方が多いものです。しかし、その様な失望落胆させるはずの、病や罪の苦しみを、人の子の面影もないと考えられたこの醜い僕が担ってくれている、それがわたしたちの苦しみを癒し、わたしたちを罪から救うためであったと知る時、現在わたしたちが苦しんでいるどのような苦しみにも意味があり、その苦しみは救いにつながっているという希望を抱くことができるのです。この僕はこれほど大きな苦役を課せられたのに、「口を開かず」「屠り場に引かれる小羊のように」沈黙してじっとその苦難を耐え忍んだ、と歌っているのです。
このような苦難の道を歩む僕とは一体誰か。この詩編の作者、第二イザヤ自身の苦難の体験をもとにこれらの言葉は記されていると思われますが、ここで示される苦難の姿を一人の人物がすべて味わったとも思えません。ここには人が味わうあらゆる病の苦しみ、理不尽な屈辱の苦しみのすべてが語られています。それは第二イザヤ自身の苦しみであると同時に、彼と同じ時代を生きた捕囚の民の苦難体験をも表わしていました。そして新約聖書は、この受難の僕をイエス・キリストであると告げています。主イエス・キリストこそ、この道を歩まれた受難の僕であると告げています。主イエスの十字架への道はまさに、ここに描写されている僕の道でありました。主がわたしたちの罪の弱さをすべて背負い十字架に死んでくださったから、わたしたちの罪は贖われたのです。その罪がもはやわたしを裁くことのないように、キリストは僕として十字架に死んでくださった、と聖書は告げているのです。
暮らしの障害を補うこと
医師でありキリスト者である長谷川和夫氏が書いた『ボクはやっと認知症のことがわかった』という本はすばらしい本です。医師として認知症の医療や介護に半世紀近く関わられた長谷川氏自身が認知症になりました。そして認知症となった立場で語っています。認知症は恐ろしい病気ではない。誰もがなりうるので、決して特別なことではない。昨日まで生きてきた続きの自分がいるのだ。その本質は「暮らしの障害」が起きてくるのでどのようにそれを補うかを考えなければなりません。長谷川医師は、認知症の人や家族が暮らし易く、生きやすい日本になるために、いささかなりともお役に立てるなら本望です。と書いておられます。そしてご自身の豊富な経験と知識を伝えています。第二イザヤは苦難の僕を預言し、わたしたちが苦しんでいるどのような苦しみにも意味があり、その苦しみは救いにつながっているという希望をつたえていますが、長谷川氏も私たちの苦しみにも意味があるのだということを伝えているように思います。
キリストによる招き
「敵を愛しなさい」という主イエスの教えは、それを私たちが、これを実行できるような立派な、寛容な人間になれ、という教えとして読んでいる限り、重荷でしかありません。そんなことを言われたらとても自分は信仰者にはなれない、と思うしかないのであって、それでも信仰に入るというのはよっぽど自分に自信がある傲慢な人か、あるいはよっぽど脳天気で鈍い人か、どちらかです。あるいはこの教えは理想主義で、現実はこうはいかない、と言って折り合いをつけるしかないでしょう。さらには、こんな無理難題を押し付けるイエスは間違っている、と反抗することも自然です。しかしそれにもかかわらずこの主イエスの教えは、多くの信仰者たちを生かし、この教えに従って生きる幸いな人々を生み出してきました。その理由はただ一つ、その人々が、敵である自分を愛し、その自分のために十字架にかかって死んで下さった神の独り子イエス・キリストと出会ったからです。主イエスが敵である自分をも愛して下さったことによって救いを実現して下さったことを知り、この教えを単なる道徳の教えとしてではなく、十字架の主イエスによる救いへの、そこに与えられる真実の幸いへの招きのみ言葉として聞いたからです。そしてそこに、神ご自身の喜びを共有し、神の子とされて生きる本当の喜びがあることを知ったからです。そしてさらに、十字架の死を引き受けて私たちのための救いを実現して下さった主イエスに従って歩むことにこそ、憎しみが憎しみを、復讐が復讐を生んでそれが際限なく増幅されていく人間世界の悪循環を断ち切る唯一の道があることを悟らされたからです。
今、平和の祭典、オリンピックがスポーツマンシップをもって競技している中でも憎しみの連鎖が起こています。今必要なのは、敵を愛するということの実践と、自分のしてもらいたいことを他人にするということの実践です。そして自分の敵に対して「自分に対する悪行をやめてほしい」と語り、相手の悪さを丁寧に教えることでしょう。そして何より主なる神により気前よく、愛されたのだから、どんな人にも寛容になることを心掛けることです。愛は気分ではないのです。働きかける意志です。そのために高い倫理観・高い理想・高い技術も大切です。憎悪と報復の連鎖が止まない私たちの世界に必要なのは信仰と希望と愛です。 祈ります。

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