はじめに
先週は「敵を愛しなさい」という6章27節からの箇所から主イエスの御言葉を聴きましたが、今朝の箇所はその続きです。37、38節には、「人を裁くな、人を罪人だと決めるな、赦しなさい、与えなさい」と語られています。「人を裁く」とは、人のことを判断するということで、良く判断することも悪く判断することもあり得るのです。今、朝の連続ドラマで「虎と翼」という日本で最初の女性弁護士で後に裁判官になった三淵嘉子(みぶちよしこ)さんがモデルのドラマをやっています。つい先日の場面では、朝鮮人の青年が放火事件で冤罪になりそうなところを、主人公の佐田女史が慎重な裁判で免れた話がありました。その背景には、偏見ということがありました。多くの冤罪事件が起こる背景の一つに偏見があると思います。
ところで、裁判ということではなく、私たちの日常生活の中でも、多くの偏見、あるいは差別ということが存在します。しかし、私たちはしばしば人のことを裁きます。それは、人を自分の敵と判断することです。私たちは、自分に危害を加えて来る人がいる時にその人を敵と思うだけではなくて、誰かを裁き、罪人と決めつけることによって自分から敵を作っていく、ということもあるのです。そのように人を裁き、敵を作ることをやめ、また敵だと思っている人を赦し、その人に与えなさい、と言われているのです。ですからこれらの教えは、「敵を愛しなさい」という話の続きなのです。
神との良い関係に生きる
主イエスは「人を裁くな」ということを、この世を生きるための知恵として御語りになったのではありません。「そうすれば」以下に語られていることは、人間どうしの間で起こることではなくて、神との関係において与えられることなのです。ですからこれは正確に言えば、「人を裁くな。そうすれば神によって裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば神によって罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば神も赦して下さる。与えなさい。そすれば神も与えて下さる」ということなのです。つまり「そうすれば」以下に約束されているのは、神の恵みによって支えられ、生かされるという、神との良い関係なのです。主イエスは、何の罪もない神の独り子であられるのに、罪人である私たちに代って裁きを受け、敵である私たちに代って罪人と決められ、十字架につけられて死んで下さいました。この主イエスの十字架の死によって、裁かれるべき私たちがもはや裁かれることのない者とされ、罪人である私たちがもはや罪人だと決められることがなくなり、敵である私たちが赦され、恵みを豊かに与えられたのです。私たちは神の独り子イエス・キリストによって、もはや裁かれることのない、罪人だと決められることのない、赦され、恵みを豊かに与えられる者とされるという救いを与えられているのです。その救いに本当にあずかって生きるならば、私たちも、主イエスと共に、人を裁くことのない、神の子となるのだ、ということです。
三つのたとえ
さて今朝の39節以下には、主イエスが新たにたとえを用いて語られたことが記されています。盲人が盲人の道案内をするという話と、弟子と師についての話、そして目の中のおが屑と丸太という話です。これらはいわゆる「たとえ話」とは違いますが、具体的な事柄にたとえてある教えを語られたのです。この三つのたとえには、それらを貫く一本の線があります。その線は、これら三つのたとえがいずれも「見る」ないし「見える」ということに関係しているのです。第一のたとえは、盲人、つまり目の見えない人が、見えない人の道案内をすることはできない、そんなことをすれば二人とも穴に落ち込む、という話です。人の道案内をするためには目が見えていなければならない、ということを語っています。ただこのたとえは盲人が人を指導できないという話ではありません。20数年間、目が見えなくなっても、長老として教会をしっかりと信仰的指導をした長老を私は知っています。第二の、弟子は師にまさるものではない、というたとえはどうでしょうか。これを一般的なことわざとして読もうとすると疑問が生じます。弟子は師を超えることができないとなると、人間の営みは時代と共に次第にレベルが下がっていく、ということになります。むしろ弟子が師を超えてより優れた境地に到達するということがあってこそ文明は発展してきたのです。「青は藍より出でて藍より青し」ということわざの通りです。しかし主イエスが語られたのはそういうことではありません。師というのは人を教え導く者です。人を教え導くためには、物事がよく見えていなければなりません。まだ学んでいる途中である弟子には、見るべきものが十分に見えていないので、人を適切に教え導くことができないのです。「弟子は師にまさるものではない」とはそういう意味です。しかしその弟子も、「十分に修行を積めば、その師のようになれる」のです。修行を積んでよく見えるようになれば、その人も、人を教え導くことができるようになるのです。将棋の藤井聡太棋士が師匠を越えた位置にまで行ったことはそれを物語っています。つまりこれは、人を教え導くためにはものが見えていなければならない、ということを語っているのであって、弟子が師を超えることができるか否か、という話ではないのです。このように読むことによって、このたとえは第一の、盲人のたとえとつながるのです。そしてこれら二つのたとえによって主イエスが何を語ろうとしておられるのかをはっきりと示しているのが第三のたとえです。
おが屑と丸太
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」。「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中に丸太があることに気付かない」、主イエスはそういう人のことを批判しておられます。目におが屑など入ったら大変ですが、この「おが屑」という言葉は前の口語訳聖書では「ちり」と訳されていました。目に埃が入って痛いということを私たちはよく体験します。ほんの小さな埃でも、目を開けていられなくなるのです。「兄弟の目にあるおが屑は見える」とは、人の目の中にあるそういう小さなちりや埃に気付くこと、人の小さな罪や欠点をあげつらい、ことさらにそれを指摘し、要するに粗探しをして、それを取ってやるという親切を装いつつ人を批判することのたとえです。しかし実はその人自身の目には「丸太」があるのです。この「丸太」は口語訳では「梁」と訳されていました。丸太だろうと梁だろうと、目の中に入るはずはありません。その意味は、その人の目は塞がれていて何も見えていない、ということです。「私には、あなたの目の中のおが屑が、ちりが見える」と言っているけれども、実はその人の目は丸太で塞がれてしまっていて、何も見えてはいないのです。私たちはこのようなことを日常の生活の中で体験するのです。重箱の隅を楊枝でつつくように人のことをあれこれ批判している人が、実は肝心なことを何も分かっていない、見るべきものが全く見えていない、ということがよくあるのです。いやそれはあの人がそうだ、この人がそうだ、という話ではなくて、私たちは自分自身がこのようになってしまっていないか、と常に振り返って見る必要があります。なぜならば、「あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と言っている人は、自分はよく見えていると思っているからです。自分は盲人ではないから道案内が出来る、未熟な弟子ではなくて、ものがよく見えている師として人を教え導くことができる、と思っているのです。しかし本当はその人の目は大きな丸太で塞がれてしまっているのです。
ナタンの叱責
今朝私たちに与えられている旧約聖書の箇所は、サムエル記下の第12章1~10節です。預言者ナタンが、ダビデのしたことがどれほど罪深いものであったかを悟らせ、その罪を叱責するものとして登場しています。
ナタンは、一人の豊かな金持ちの男が多くの羊や牛をもっているのに、ある日自分のところに訪れてきた旅人をもてなすために、一人の貧しい男が自分で飼っていた一匹しかいない大事な雌の小羊を、取り上げ、その客に振る舞ってしまった、という譬えをダビデに語りました。この譬えを聞いた「ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」(5‐6節)といって、強い正義感をもって、その男の罪を断罪しました。しかしナタンは、このような反応を示したダビデに向って、「その男はあなただ。」(7節)と答え、死罪に値する人間はダビデその人であることを宣告しました。この宣告を聞いたダビデは、全身に稲妻が走るような大きな衝撃を受け、自分がウリヤとその妻バト・シェバにした罪のことが指摘されていることを悟りました。ナタンの「その男はあなただ。」という言葉を聞いたダビデがこの言葉を自分への死刑宣告として聞き、自ら示した正義の基準に従い、潔く「わたしは主に罪を犯しました」と告白し、その裁きを受け入れるべく、悔い改めを表しているさまが、生き生きとしていて、迫力が感じられます。「その男はあなただ。」この言葉を受け、直ちにその罪を主に向って告白したダビデに与えられた言葉は、死刑の宣告ではなく、「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」(13節)という罪の赦しの宣言でした。つまりダビデにくだされた死刑判決は、ダビデの罪の告白に基づき撤回されたのです。主が望まれるのは罪人の死ではなく、罪人が悔い改めて生きることです。ダビデの罪の告白を聞いたナタンは主によってこのような赦しを告げたのです。
ダビデはウリヤとその妻バト・シェバに対する大きな罪にもかかわらず、サウル王のように主の拒絶による裁きへとは向わず、むしろ赦され祝福へと導かれています。その道を用意したのは、預言者ナタンです。ダビデは、その罪を指摘し、その罪を悔い改めさせ、そこから立ちあがらせる預言者をもっていました。この王を恐れず語る預言者を持つことは王にとって大きな救いでありました。適切な助言者、正しい道へ導く助言者を持つことは、幸いです。わたしたちも、罪を指摘してくれる神の言葉を取り次ぐ預言者をもって生きることが幸いな信仰の歩みであることを共に覚えたいと思います。
目から丸太を取り除く
主イエスは、今朝の新約聖書箇所42節の最後で、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」とおっしゃいました。私たちは、本当の意味で目が見えていない偽善者です。見えるようなつもりになって、人を裁き、批判し、それで自分が立派になったように錯覚してしまう者です。そのような偽善者である私たちは、先ず自分の目から丸太を取り除かなければならないのです。しかし、私たちの目を塞いでいるこの丸太を取り除くことは、自分では出来ません。それをすることができるのは、主イエス・キリストお一人なのです。主イエスはそのことを、私たちの目を塞いでいる罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによってして下さいました。神の独り子であられる主イエスが、ご自分の命を犠牲にして、この丸太を取り除いて下さったのです。この主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みにあずかることによって、私たちの目は開かれるのです。本当の意味で見えるようになるのです。
主イエスは、人の罪など一切問題にするな、どんなことでも赦せ、と言っておられるわけではありません。地上を生きる私たちの歩みには、やはり問題にしなければならない罪があり、正されなければならないことがあるのです。しかしそれを、人の粗探しをして断罪するようなことによってではなく、主イエスによる赦しの恵みによって生かされている者として、お互いに忠告し合い、お互いに悔い改めながら、赦し合いながらしていくことをこそ、主イエスは求めておられるのです。
自分一人で目から丸太を取り除くことはとても難しいことです。だから、神が助けてくださいます。変わらない優しさと、永遠の愛をいつも注いでくださる神に守られ、安心させられ、自分を省みる助けをいただくのです。神は私たちが気づかない自分の心さえもご存じで、私たちを受け入れてくださるのです。そして、主なる神の優しさと愛によって新しくされたときには、私たちも誰かの目のおが屑を取り除くことができるように、優しさと愛をもって関わることができるようになりたいと思います。すべての人に、というのは無理でも、どうしてもこの人とは難しいということがあっても、私たちの出会う誰かにとって、赦し、与えることのできる者になることができるように、聖霊の導きを祈りたいと思います。 お祈りします。