はじめに
私は、いくつかの職業を経て、補教師の資格で大磯教会の伝道師に始めて招聘されたのが60歳の時でした。鳥羽和雄牧師の後を引き継いだのです。そして日本キリスト教団の正教師として牧師職になったのが63歳でしたから牧師としてはかなり遅いスタートでした。ところで、牧師を志した時には、礼拝の説教や伝道についてはもちろん意識していましたが、葬儀を取り仕切ることについてはあまり意識がありませんでした。葬儀式のやり方も始めは分からないので先輩の牧師に聞いたり勉強したりして経験していきました。牧師は皆、そうして次第に成長してゆくのです。牧師は御言葉の説き明かしをしますが、また教会員によって特に長老によって育てられるのです。あらためて教会において葬儀が多いことを実感しました。教会員やそのご家族の葬儀はもちろん、葬儀社や霊園からの依頼で葬儀を司式したことも数回ありました。親せきの葬儀の司式のために愛知県まで行ったこともあります。ご遺骨の埋葬の司式やご遺族による記念会にも何度か出席しお話ししたこともあります。最近の葬儀は小規模の葬儀場がたくさんできて、少人数の家族葬が主流です。コロナ禍によってそれは一層加速したように思います。現代は病院で亡くなることが多く、いったん自宅に棺が戻り前夜式そして改めて葬儀式を教会あるいは民間の葬儀場で行うことが多いのですが、最近は、自宅に戻らず直接、葬儀式を行うことが増えてきています。ご遺族の意向で病院や介護施設で納棺に立会い、葬儀式を行わず直接、火葬場でお祈りして送るということもありました。前夜式も行わないことが多くなりました。私の幼いころの記憶に戦後間もなくの頃ですが、母親の実家である千葉の九十九里に近い村での葬儀でしたがご遺体を樽に入れて野辺の送りで墓地に埋葬したような記憶があります。もしかしたらテレビドラマの映像とごっちゃになっているかもしれませんが。今朝のお話は主イエスがある葬儀の葬列に出会ったところから始まります。さっそく御言葉の恵みに与りましょう。
ナインの町の門にて
先週、カファルナウムというガリラヤ地方北部の町に居た主イエスが、百人隊長の部下の命を救うという話をしましたが、今朝は40kmほど南のナインという町に主イエスと弟子たちは移動しています(11節)。12節の冒頭に「イエスが町の門に近づかれると」とあります。当時の町は壁で囲まれていたようです。ですから町に入るときも、町から出るときも城門のような門を通りました。主イエスはナインの町に入るためにその門の近くまで来ていたのです。すると、その門から町の外へと出てきた葬列に出合いました。12節にはこのようにあります。「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。」当時、遺体は町の外に葬られました。ですから、やもめの一人息子が死んで、そのご遺体を町の外へと運んでいたのです。おそらく母親、その息子を納めた棺、そして町の人たちと列をなしていたと思います。主イエスが町の門に近づいたとき、ちょうどその葬列と鉢合わせしたのです。
やもめの母親の絶望
この母親は一人息子に先立たれました。14節で主イエスは「若者よ」と呼びかけていますから、亡くなった息子は若かったことが分かります。母親は若い息子に期待し、その将来を思い描いていたでしょう。それだけでなく、息子と共に生きていく自分の将来も思い描いていたに違いありません。13節で主イエスはこの母親に「もう泣かなくともよい」と言われていますから、彼女は泣いていたに違いありません。彼女は泣きながら息子の遺体を葬るために町の外へと出てきたのです。しかもこの母親はやもめであったと記されています。やもめとは、夫を亡くした女性のことです。聖書の時代においてやもめが生きていくのはとても困難なことでした。妻は夫によって経済的に養われていたからです。だからこそ、そのような社会的に弱い立場にあるやもめを苦しめてはならない、その権利を守りなさいと旧約聖書で言われているのです。おそらくこの母親も夫に先立たれた後、貧しい生活を強いられてきたに違いありません。しかしそのような貧しい生活の中にあっても彼女には一つの希望がありました。先立たれた夫と自分の間に神さまが授けてくださった息子です。そしてそれはまた、やもめの母親にとって、この若い息子は経済的に自分を養ってくれる唯一の存在でもあったということです。私たちの生きる社会においては、夫に先立たれた後に妻が働くことも珍しくありませんし、そもそも共働きの夫婦が多い社会です。そのような社会においては、親が若い息子を養うことはあっても、その逆はあまりありません。しかし聖書の時代では、やもめが働く道は閉ざされていましたから、一人息子が死んでしまったらやもめを養ってくれる人は誰もいなくなってしまうのです。この母親は、息子の死によって、愛する者を失うという精神的な喪失と、これから生きていくための支えを失うという経済的な喪失を味わい、そのことによって精神的にも経済的にも生きる希望が断たれてしまったのです。
この世には多くの苦しみや悲しみがあります。私たちはそのことに少しでも手を差し伸べたいと思います。けれども死に対して私たちはまったく無力です。どれほど医療が発達しても、死に対して、差し伸べる手も語りかける慰めの言葉も私たちは持っていないのです。
もう泣かなくともよい
主イエスは、「この母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われました。母親が主イエスに助けを願ったとは語られていません。彼女から主イエスに訴え願ったから、主イエスがお応えになったのではないのです。主イエスは、一人息子を失い絶望の中で泣いている母親を見ました。「主はこの母親を見て」とありますが、これはなんとなく「見た」ということではありません。「見つめた」ということです。この出来事は母親からの訴えや願いによって起こったのではなく、主イエスがこの母親を「見つめた」ことによって起こったのです。そして主イエスはこの母親を見つめて憐れに思いました。この「憐れに思う」という言葉は、元々「はらわた」、「内蔵」を意味する言葉であり、主イエスが彼女を憐れに思ったとは、彼女の絶望に「はらわたを引き裂く」ほどの憐れみを持たれたということです。それは、母親が熱心に願ったからでも、あるいは母親が信仰を持っていたからでもなく、ただ一方的に主イエスがこの母親を見つめてくださり、憐れに思ってくださったからです。
ルカによる福音書において、この「憐れに思う」という言葉は、この箇所を除いて二回しか使われていません。一つは、追いはぎに襲われ半殺しにされた被害者をサマリア人が「憐れに思い」介抱したときに使われ、もう一つは、放蕩息子がすべてを失って帰って来たとき、父親が「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」ときに使われています。このことから分かるようにこの言葉が示す憐れみは限りのないもの、法外なものであり、まさに主イエスの憐れみは、そのような憐れみであり、相手のために自分を引き渡す憐れみなのです。そして主イエスは泣いている母親に「もう泣かなくともよい」と言われました。
一人息子を失い、生きる希望を失った母親は泣かずにはいられないのです。主イエスは、この母親の悲しみや絶望を否定されたのではありません。むしろ受けとめてくださったのです。私たちも涙を流さずに生きていくことなどできません。主イエスはその絶望の涙を受けとめてくださり、憐れんでくださり、しかし「泣き続けてはならない」と言われるのです。絶望のために今までは泣いていたとしても、これからは「もう泣かなくともよい」と言われるのです。そして、そこで主イエスは葬列に近づき「棺に手を触れられ」ます。律法によれば死体に触れれば汚れるとされていました。しかし主イエスはその律法を越えて棺に手を触れられたのです。それは主イエスが律法をないがしろにしたからではありません。そうではなく律法を踏み越えてまで一人息子の死とその母親の絶望に近づこうとされる主イエスの真剣さによるのです。「はらわたを引き裂くような」憐れみによって、主イエスは律法を越えて棺に手を触れたのです。主イエスが棺に手を触れると、その棺を担いでいる人たちは立ち止まりました。町の門から外へ出て、埋葬の場へと向かっていた葬列はその歩みを止めたのです。棺に手を触れた主イエスは「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」と記されています。主イエスのお言葉によってこの若者は、新しい命を与えられ死人のうちから甦らされたのです。そして、その息子を母親にお返しになりました。「お返しになった」を直訳すれば「与えた」です。主イエスは、新しい命を与えられた息子を母親に与えたのです。
大預言者が我々の間に現れた
16節には、この奇跡を見た人々の反応が語られています。「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った」。人々は、「大預言者が我々の間に現れた」と言いました。人々が思い描いている大預言者とは、今朝、共に読まれた旧約聖書の箇所、列王記上17章に出てくるエリヤです。その8節以下には、エリヤがサレプタという所の一人のやもめのもとに身を寄せていた時のことが語られています。エリヤはやもめに、パンを一切れもって来てくださいとお願いします。実は彼女には、一握りの小麦粉とかめの中にわずかな油しかありません。それは彼女と息子の最後の食べ物となるものです。それを食べれば、もう食べるものはなくなり、あとは死を待つばかりです。そのなけなしの小麦粉を使ってパンを作りエリヤにさし出せというのです。彼女が事情を伝えるとエリヤは、神の言葉を告げます。それは約束の言葉です。「主が地の面に雨を降らせるまで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。彼女はこの約束の言葉を受け入れ、エリヤになけなしの小麦粉を使ってパンを作って与えます。
ところが、しばらくしてやもめの息子が病気で死にます。彼女はエリヤに苦情を言います。息子の死を受けとめることができませんでした。エリヤとの出会いを通して、彼女は神を意識し、その病気は自分の罪を思い起こさせたと語ります。彼女が悔い改めたとは書いてありません。しかしエリヤは神に祈り、その息子を生き返らせます。これを見たとき。彼女は神を畏れ、悔い改めたのではないかと思われるのです。信仰者の身には色々なことが起こります。思いがけないことが起きると、神に苦情を言いたくなります。しかし神は私たちと共におられ、神のご支配の中に信仰者は生きる者であることを教えてくださいます。神は憐れみ深い方であり、どんな人でも、どんなことをした人でも神に信頼し、悔い改めるのを待っておられます。エリヤは、死んだやもめの息子を復活させるという奇跡を行なった預言者なのです。
ところで、主イエスがナインのやもめの息子を復活させたのを見た人々は、この話を思い出し、主イエスのことを、大預言者エリヤの再来だと思ったのです。そしてさらに彼らは、「神はその民を心にかけてくださった」とも言いました。エリヤにせよ主イエスにせよ、やもめの一人息子を復活させるというのは人間業ではありません。主なる神が働いて下さればこそ、このようなことが起ったのです。それを見た彼らは、神がご自分の民である我々のことを心にかけて下さったのだ、と喜んだのです。
神の憐れみのみ心
このように見てくると、ここに語られているのは、主イエスが死んだ人を生き返らせるという驚くべき奇跡を行なった、というだけのことではないことが分かります。この御業には、神がご自分の民を訪れ、救いを与えて下さるという恵みの御心が示されているのです。その恵みの御心とは、死の力に支配され、希望を失って泣いている私たち人間を深く憐れみ、救って下さる御心です。私たちは皆、死の力に支配されています。それは、肉親の死の悲しみを体験したり、また自らの死への恐れを覚えている者だけのことではありません。私たちは、この葬列に連なっているナインの町の多くの人々と同じように、死の悲しみや恐怖の中にいる人をどうにかして慰めたいと思っています。その傍らに付き添うことによって、何がしかの慰めになりたいと願っています。悲しんでいる人にそのように寄り添うことが、ある慰めになることは確かです。けれども私たちがそこで感じるのは、死の圧倒的な力に立ち向かって慰めを与えるような言葉を私は持っていないということです。特に若い人の、しかもやもめである母親の一人息子の死などのように、全ての希望を打ち砕くような死に直面する時に、慰めの言葉のかけようもない、ただ傍らで共に涙を流すことしか出来ない無力さを思い知らされるのです。そういう意味で、私たちの誰もが、死の力の前で無力であり、結局はその支配を受け入れ、それに服するしかないのです。神は、そのような私たちを深く憐れみ、救いを与えて下さるのです。その恵みの御心が、この出来事において示されているのです。
主イエスが来られた目的とは、死の支配下に置かれている私たちを解放して下さることです。死の支配を打ち砕き、私たちに神の与えて下さる新しい命を与えて下さることです。死の力の前で無力であることを嘆き悲しんでいる私たちに、「もう泣かなくともよい」と語りかけて下さることです。
新しい命へと導く主
主イエス・キリストは、死の支配下へと私たちを送ろうとする葬列の前に立ちはだかり、それを押し止める方なのです。「あなたがたが向かうのは、死の力が支配する死者の国ではない。私を復活させ、新しい、永遠の命を与えて下さった父なる神の恵みのご支配の下へと、私はあなたがたを導く。あなたがたの歩みは、神が与えて下さる新しい命へと向かっているのだ」、そう主イエスは語りかけておられるのです。私たちは勿論、肉体においていつか死にます。私たちには予測不可能ですが死はまさに平等にやってきます。この世の歩みにおいて、死が一旦私たちを捕え支配することは厳然たる事実です。しかしその死の支配の現実の中に、主イエスの、「もう泣かなくともよい」という御言葉が響くのです。そして世の終わりの時には、「わたしはあなたに言う。起きなさい」という主イエスの御言葉によって、死に捕えられた私たちが、眠りから目覚めさせられるように復活して新しい命を与えられるのです。この主イエス・キリストを信じ、主イエスと共に生きているがゆえに、私たちは安心してこの人生を歩み、安心の内にこの世を去ることができるのです。お祈りします。