はじめに
先週は台風の動きの遅さと、この地区の大雨被害のことで振り回された一週間でした。二宮町でも街の中心街を流れている葛川が氾濫しました。日頃から大雨が降ると水かさが上がり氾濫の危険があるなとは思っていました。河川改修計画もなかなか進んでいない感じでしたが、遂に現実のものになってしまったという感じです。皆さんの周りでも普段と違う豪雨災害の脅威があったかもしれません。予測以上のことが突然起こる自然の脅威を感じました。しかし、自然の素晴らしさから神の栄光と神の輝きを感じることもあります。今朝の旧訳聖書のみ言葉、イザヤ書35章1節、2節をもう一度お読みします。
1荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
2花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。
砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
ここには、救いの王国のイメージが歌われています。呪われた地がエデンの園のように回復する。荒れ野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜び、サフランのように花を咲かせる大地を歌っています。パレスチナは荒涼とした土地のイメージがありますが、一斉に花を咲かせる季節があり、ありとあらゆる花が咲き乱れるのです。花や穀物の豊かな「シャロン」のように、神の威光が回復されるとイザヤは歌っているのです。それでは今朝のみ言葉の恵みに与りましょう。
ヨハネの弟子
ルカによる福音書7章に出てくるヨハネは洗礼者ヨハネのことです。ヨハネはヘロデ王によって投獄されてしまい、そのためヨハネの多くの弟子たちは彼から離れ主イエスの弟子となっていました。そのことにつまずきを感じていた弟子たちにヨハネは主イエスのもとに行くことを勧めました(19)。それは主イエスにつまずかない最良の方法は主イエスのことをもっと知ることだったからです。彼らが主イエスのもとで見たことは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(22)とあるように現実の主の御業でした。
ヨハネの問い
ヨハネの二人の弟子は、ヨハネの問いを主イエスに次のように伝えます。「『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」(13)、と。「来たるべき方」というのは、お出でになることになっている方、つまり旧約聖書が預言している救い主(メシア)のことです。ヨハネは、ヘロデ王によって牢に閉じ込められ、主イエスが本当に救い主なのかという疑いを抱くようになり、このように弟子たちに尋ねさせたと思われるのです。牢に閉じ込められて、明日、自分の命がどうなるか分からない身です。実際にヨハネはこの後、首をはねられて殺されてしまいます。そんなヨハネにとってこの問いは、切実なものであったに違いありません。彼は獄中で主イエスが病気の人を癒したり、死んでしまった人をよみがえらされたことを聞いていたのです。
主イエスがそのような素晴らしい働きをしておられることを知ることによって、彼の心の中でかえって一つの問いが大きくなっていきました。それはこのような大きな力を持っている方である主イエスが、それでは、この今の自分に対しては何をして下さるのだろうか、という問いであったでしょう。かつて洗礼者ヨハネは、主イエスのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29節)と証ししました。しかし、そうであるとしたら、その救い主イエスは、今牢獄に捕らえられ、いつ殺されるかわからない日々を送っているこの自分に対しては何をして下さるのだろうか、どのように私を救ってくださるのかという思いだったでしょう。そこから出た問いであったでしょう。ルカによる福音書は、主イエスの誕生の物語に先立って、洗礼者ヨハネの誕生のことを丁寧に語りました。ザカリアの預言です。そして、ヨハネは成人して荒れ野に住み、人々に罪の悔い改めを迫りました。ヨハネが期待したのは、主イエスを通して神の裁きが行われることに神の到来を見ようとしていたのです。しかし、実際に来られた主イエスは、すべての人を罪から救うために、苦難と十字架の道を歩まれる「しもべとしてのメシア」でした。そこにヨハネが主イエスを「来るべき方」なのかどうかに疑問を持つ背景があったのです。
主イエスの答え
さて、このヨハネの切実な、実存のかかった問いに対して、主イエスはどうお答えになったでしょうか。22、23節をお読みします。
22「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な
人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生
き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
23わたしにつまずかない人は幸いである」。
主イエスは、ヨハネのこの問いに正面から答えてはおられません。「来るべき方はあなたでし
ょうか」という問いに、「そうだ」とも「違う」ともお答えになっていないのです。その代わりに主イエスがヨハネに伝えなさいと言っておられるのは、このヨハネの弟子たちが見聞きしたことです。21節には、丁度その時にも、主イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々を癒し、目の見えない人を見えるようにしておられたところだったと語られています。あなたがたが見聞きしたこれらのことをヨハネに伝えなさいと言われたのです。主イエスご自身が言っています。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。私がこれらのことを行なっていることをあなたがたは見聞きしている、それをそのままヨハネに伝えなさいと主イエスはおっしゃったのです。
主イエスのみ業
「目の見えない人は歩き」から「耳の聞こえない人は聞こえ」までは、病気や障碍からの癒しのみ業です。これらは、今朝、読まれた旧約聖書の箇所であるイザヤ書35章8節以下に語られていることの実現であると言えます。このイザヤ書35章は、主なる神によって完成する救いの有り様を描いているところです。神による救いが完成する時、人間の現在の病や障碍などの苦しみの全てが解消され、喜びと平和に満ちた世界が実現するのです。主イエスのみ業によってこの救いの完成が既に始まっているのです。そしてこれらの癒しのみ業をしめくくるのが「死者は生き返り」です。病や障碍の行きつく先は死です。人間を支配している病などの苦しみからの救いは、究極的には死の支配からの解放、復活なのです。その救いが主イエスによってもたらされている、それはこの直前の箇所で語られていることです。やもめの一人息子の復活の話において語られたことです。そのことをヨハネに伝えよと主イエスは言われているのです。
貧しい人は福音を告げ知らされている
これらの病の癒しや死者の復活をさらにしめくくる形で、「貧しい人は福音を告げ知らされている」と語られています。福音が告げ知らされること、それこそが、主イエスによってもたらされている救いの中心なのです。そこには、主イエスによって語られたみ言葉、教えが含まれています。数々の奇跡、癒しのみ業も、この福音を告げ知らせるためになされたのです。貧しい人に福音を告げ知らせることこそ、父なる神が主イエスをこの世にお遣わしになった目的です。
そして、私たちは、聖書を通して、主イエスこそ私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった救い主であるという知らせを聞いています。私たちは直接主イエスにお会いしたわけではなく、その話を伝え聞いているのみです。ヨハネも、少なくとも福音宣教のお働きを始められてからの主イエスには会っていません。弟子たちを通してその話を伝え聞いただけです。そういう意味で獄中のヨハネと私たちには、ある共通点があります。そして私たちもある意味でヨハネと同じ問いを持ちます。主イエスは、この私に何をして下さるのだろうか、この私が今苦しんでいること、抱えている問題、背負っている悲しみに対してどんな救いを与えて下さるのだろうか。人々のための救い主であっても、この私が今切実に苦しんでいる事柄に、救いを与えて下さらないならば、私の救い主と言えないのではないか、主イエスよ、あなたは本当に私の救い主なのですか、このような問いを私たちも抱いたり、信仰が動揺することがときにはあるのではないでしょうか。
幸いなるかな、私につまずかない者は
「この私にとって主イエスは来るべき方なのか、救い主なのか」という問いを抱かずにはいられない洗礼者ヨハネに、そして私たちに、主イエスはこう言われます。「わたしにつまずかない人は幸いである」。主イエスにつまずくとは、主イエスを信じられなくなることであり、主イエスから離れてしまうことです。主イエスは、ヨハネが、そして私たちが主イエスにつまずくかもしれないことをご存じなのです。主イエスに対する自分の期待が打ち砕かれることによって、あるいはほかの人は救われているのに自分は救われていないと思うことによって、私たちは主イエスを信じられなくなり主イエスから離れてしまうのです。そのような私たちに、主イエスは「わたしにつまずかないように」と言われます。それは、私たちへの警告の言葉ではありません。むしろ私たちへの招きの言葉です。聖書を通して主イエスのみ業と言葉が伝えられ、預言の成就が告げられることを通して、主イエスこそがほかならぬ自分にとって「来るべき方」であり、救い主(メシア)であると信じることへの招きです。たとえ今、絶え間ない苦しみや悲しみの中にあり、病や重荷を抱え、死を身近に感じているとしても、私たちが主イエスの救いに入れられていると信じることへの招きなのです。
幸いへの招き
主イエスによって成し遂げられた最大のみ業、最大の奇跡は、神の独り子であられる主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことであり、主イエスを捕えた死の力を父なる神が打ち破って主イエスを復活させて下さったことです。この主イエスの十字架と復活において、私たちに対する神の救いが、私たちを罪と死の支配から解放し、神の子として新しく生かして下さる恵みが実現しているのです。ここにこそ神の救いを見つめることができる者は幸いです。ここに実現している救いは、私たちがこの世の人生において体験する様々な具体的な苦しみや悲しみ、人間の力ではどうすることもできない困難、行き詰まり、挫折の中で、私たちを支え、生かし、希望を与えるものだからです。その希望は、この人生を越えた、死の彼方にまで及ぶ、永遠の命の希望です。ヨハネは、獄中で首を切られて死にました。しかし彼は、「わたしにつまずかない人は幸いである」という主イエスのみ言葉によって、つまずきを乗り越え、主イエスが成し遂げて下さる救いと、永遠の命への希望の中で、幸いな者、神の祝福を与えられている者として生涯を歩み通すことができたのです。「わたしにつまずかない人は幸いである」というみ言葉によって、私たちも、この世のいかなる苦しみ悲しみによっても失われない、死の力にも打ち勝つまことの幸いへと招かれているのです。 祈ります。