9/22説教「主イエスに仕える婦人たち」

神の国を宣べつたえ
今、ルカによる福音書からを連続して御言葉を聴いています。今朝の箇所は短い箇所で、奇跡の出来事や癒しの話しではありません。特別なことは何もありません。ごく日常的なことです。連続講解説教をする場合、取り上げる聖書箇所をどのように区切るかはしばしば迷うところでありますが、今日の箇所もその一つかもしれません。8章1節にこのようにあります。「すぐその後、主イエスは、「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」のです。主イエスは、自分を信じてついて来れば神の国が実現できると語ったのではなく、「神の国は来た、実現した」ということを宣べ伝えたのです。神の国とは、神のご支配という意味です。神の国を宣べ伝えることは、神による救いが実現した、という喜びの福音を告げることです。これが、主イエスのなさったことの中心です。主イエスの語られた教え、御言葉も、なさった数々の奇跡も、すべてはこの神の国の到来という福音を告げ知らせるためでありました。今朝の箇所には、主イエスとその一行のために、日々の具体的な生活の事柄に奉仕した人々がいたということが語られています。その中には多くの女性たちがおり、彼女たちが自分の持ち物を出し合って一行に奉仕していたとあります。主イエスのもとで、男も女も、一人の人間としてお互いを尊重し合い、それぞれが自分の賜物を献げ、自分にできることをして奉仕していく共同体が、具体的に築かれていったのです。

主イエスに仕える婦人たち
1節の冒頭に「すぐその後」と書かれていますが、それは、直前の出来事、つまり、主イエスの足元に香油を塗り涙でぬらした女性の話と今朝の箇所の結びつきは共に女性が出てくることにあります。2節、3節では主イエスの宣教に同行した女性たちについて語られています。その点に注目すれば、より具体的な結びつきが考えられるのです。主イエスに罪を赦された「罪深い女」が、2節に名前が記されている「マグダラの女と呼ばれるマリア」と同一人物であるという説があります。聖書にはなにも書かれていませんが、そのように考えるのは必ずしも的外れとはいえません。マグダラのマリアは「七つの悪霊を追い出していただいた」と言われています。彼女のように悪霊の力から解放されることと、罪深い女のように罪の力から解放されることは、どちらも主イエスによって新しい人間へ造り変えられるという点で同じだからです。

主イエスの群れに戻ってくる
私たちは主の日ごとの礼拝で、主イエスの十字架と復活による救いを告げ知らされ、罪を赦され新しい一週間へと遣わされます。その救いの恵みにお応えして感謝と喜びをもって歩んでいきたいと願っています。しかし私たちの日々の歩みには苦しみが溢れているのです。思わぬ病や歳を重ねることの苦しみがあり、あるいは学校や仕事や家庭での苦しみがあり、日々の糧を得る苦しみ、人間関係の破れによる苦しみもあります。そのような苦しみに満ちた日々の中で、感謝と喜びをもって生きられなくなるのです。礼拝が終わり会堂から出ていくときは感謝と喜びに満ちていたはずなのに、日々の生活を歩んでいく中で、私たちは救いの恵みを見失い、苦しみに覆われてしまうのです。そして、また私たちは罪を赦され、新しい一週間へと遣わされているにもかかわらず、神のみ心に従わず、自分を中心として生きてしまいます。神と隣人を愛するどころか、神に背き隣人を傷つけてしまうのです。私たちは罪を赦されても、なお罪を犯し続けます。だからこそ私たちは毎週の礼拝で神に立ち帰り、罪の赦しを与えられ新しくされる必要があるのです。直前の7章50節で、主イエスは罪深い女に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と告げられたように、私たちも再び新しい一週間へと歩み出すことができます。私たちの信仰生活はこの繰り返しです。一度、主イエスのところに身を寄せ、罪を赦され、平安と慰めを与えられたからもう大丈夫ということではないのです。この世にあって私たちはなお多くの苦しみに直面し、神から引き離そうとする罪の力に襲われます。私たちは、主イエスを信じる者たちの群れに、つまり教会に戻ってくるのです。
そうであるならば、直前の箇所で「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と主イエスから言われた女性は、主イエスに従う者たちの群れへ向かったのだと思います。8章2節、3節では主イエスに従った女性たちについて語られていますが、三人の女性の名前が挙げられた後、「そのほか多くの婦人たちも一緒であった」と言われています。罪を赦され世に遣わされても、繰り返し戻ってくる居場所が必要です。その居場所こそ主イエスを信じる者たちの群れであり教会にほかならないのです。あの主イエスの足に香油を縫った女性はこの群れに加えられ、教会のメンバーに加えられたのです。もちろん教会の誕生はキリストの十字架の死と復活、そしてペンテコステの出来事を待たなくてはなりません。しかしたった3節であるにもかかわらず、今朝の箇所は教会とその働きをあらかじめ指し示しているのです。

教会の宣教の働き
この主イエスの働きは教会のなすべき働きでもあります。教会の使命、ミッションは、なによりも神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせることにあるからです。主の日ごとの礼拝において、教会はすでにこの地上に神の国が到来し、神のご支配が始まっていると宣言します。そのことを福音として、「良い知らせ」として告げ知らせるのです。そのことによって、不条理な数々の苦しみの現実や人間の罪によって引き起こされる悲惨な現実の中にあっても、私たちは目に見える現実ばかりに心を奪われるのではなく、目に見えない神のご支配を信じることへと導かれるのです。また私たちはこの世の様々な力や価値観に捕らえられ、不安や恐れに駆られたり、息苦しさを感じたりしています。しかしすでに神の国が到来し、神のご支配が始まっていることによって、私たちはそのような不安や恐れや息苦しさから解放され、自由にされるのです。なぜならこの世のあらゆる力や価値観はもはや私たちを決定的に束縛することはできないからです。私たちはすでに神の国へと入れられ、神の恵みによるご支配のもとに入れられています。なおこの世の力や価値観に脅かされることがあったとしても、神の恵みのご支配こそが私たちにとって決定的なことなのです。主の日ごとの礼拝で神の国が宣べ伝えられ、福音が告げ知らされることによって、そのような不安や恐れや息苦しさからの解放が起こされていくのです。

主イエスの旅に同行した人たち
ここでルカが記している三人の女性について見てみましょう。彼女たちは、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」(2節)という共通の経験を持っています。当時、病気の原因は悪霊によると考えられていました。そして、三人の中でも最も重病だったのが「マグダラ出身と呼ばれていたマリア」です。マルコによる福音書16章9節に「・・マグダラのマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人」と書かれています。マグダラというのはガリラヤ地方の村の名前です。おそらく主イエスが「町や村を巡って」(1節)いる中に、マグダラ村もあったのでしょう。そこに居た瀕死の重病人マリアを主イエスが癒したと推測されます。癒しという救いに感謝したマリアは、シモン・ペトロの姑のように、あるいはベタニア村のマルタ・マリア姉妹のように、主イエス一行のための「定住の支援者」となることもできました。しかし、彼女は十二弟子と同じく主イエスに同行する「放浪の弟子」の一人となりました。この思い切りが評価されています。「マグダラ出身」というあだ名に、彼女への敬意が込められています。「生まれ故郷を棄てた」という意味合いを意味しているからです。
一方、「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」はどうでしょう。このヘロデはガリラヤ地方の領主であり、ヘロデ大王の息子にあたります。「家令」つまりヘロデの家来がどの程度の地位なのかはよく分かりませんが、彼女は夫クザを捨てて主イエス一行に加わります。クザと結婚していることはヨハナがヘロデ党の者だったことを示唆しています。しかし、領主ヘロデを信奉する政治団体であり、武力革命を肯定し民族自決を主張するゼロテ派(熱心党)とは政治的意見が対立していました。主イエスの周りには相対立する政治的立場の者も共存していたのです。今日本国内では、各政党の党首選挙が注目されています。いいことばかりを宣伝しているようにも思いますが、アメリカの大統領選挙の行方も含めて政治状況は新しい局面に入るでしょう。
ところでルカによる福音書だけが領主ヘロデを十字架前夜の主イエスの裁判に登場させており(23章6-12節)、ヨハナも十字架・復活を見届けた弟子としています(24章9節)。彼女は夫クザと、あの晩たまたまエルサレム城内に居合わせた可能性があります。その時にもヨハナは夫クザのもとには行きませんでした。ヨハナは、主イエスの弟子となってから一貫して夫ではなく主イエスを選び取ったということが鮮明に言われ、その点で評価されています。彼女は「父の家」「夫の家」を棄てて「神の民が歩む約束の地への旅」をしたのです。
そして、スサンナについては新約聖書中ここにしか登場しないので残念ながら人物像は良く分かりません。しかし名前がここに挙げられているということは、読者にとってスサンナがよく知られた弟子、つまり後の初代教会の指導者だったことを示唆します。十二弟子の影で埋もれがちな女性の弟子たちをわたしたちは名前を挙げて記念し続けるのです。また、名前も紹介されないけれども、主イエスと共に放浪の旅をした非常に多くの女性たちの行動も記念し続けなくてはいけないでしょう(3節)。

主イエスに仕え、教会に仕える
そして1節の最後に「十二人も一緒だった」とあるように、主イエスの十二人の弟子たちがいつも主イエスのそばにいます。そして、あの罪を赦された女性がいる。病の支配から解放されたマグダラのマリアがいる。社会的な地位から自由にされたヨハナがいる。実に様々な人たちがいる。これが主イエスを信じる者たちの群れであり、これこそが教会です。そこではどのような人生を送ってきたかも、病気や地位も関係ありません。主イエスと出会い、主イエスによって新しくされた者たちが、共に主イエスに従い、共に主イエスに仕えているのです。3節の終りに「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」とあります。「自分の持ち物を出し合って」とは、物やお金を出し合うことだけでなく、それぞれの技術や才能や経験を活かすことをも意味します。マグダラのマリアもヨハナもスサンナも、あの罪を赦された女性も、それぞれの賜物を活かして主イエスに仕え、主イエスを信じる群れに仕えたのです。私たちも同じです。私たちもそれぞれに異なった人生を歩んできました。健康な方も病の中にある方もいます。若い方も歳を重ねた方もいます。社会的な地位が高く経済的に豊かな方もいればそうでない方もいます。政治的な立場もそれぞれでしょう。それぞれに違いがあるにもかかわらず、私たちはそれぞれの賜物を活かして主イエスに仕え、教会に仕えていくのです。主イエス・キリストによる救いの恵みにお応えして、私たちは自分の賜物を献げ、自分の賜物を活かし、神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせるために仕えていくのです。

教会堂の改修
大磯教会は今、二度目の会堂の増改築を進めています。約十年前に会堂の大がかりな改修を終えて教会員はじめ多くの支援者の献金によって見違えるように整いました。私自身の感想ですが、十年前の会堂は、確かに正面から見ると小さいけれど、かわいらしい教会の建物でしたが、至る所に劣化が進み、工事途中で分かったことでしたが、二階の部屋は白アリの被害で倒壊してもおかしくないような状態でした。トイレの評判はも良くありませんでした。当時あった牧師館部分は雨漏りで大変でした。しかし今は自慢できる歴史ある会堂と、誰もがすばらしいと絶賛する集会室は、私も誇りに思っています。そして今度は牧師家族の住まいと教会の事務室、建物の外壁などの塗装を施工する計画です。今、礼拝出席者が減少し、教会員が減っている中での建築なので大変です。しかし牧師家族が住める住居の確保は必要なことです。ある方が大磯教会は男性の会員が少ない。昔からそうだと言われました。そういう伝統が有るのか無いのか分かりませんが、確かにそうです。しかし、女性はよく奉仕されます。きめ細かく奉仕を続けられます。ルカが伝える主イエスに従う婦人たちのように大磯教会の運営を支えています。主イエスの時代も現在も、男性も女性も性別に関係なく奉仕しています。
主イエスによってもたらされた神の国、神の恵みのご支配を生きるところには、このような、生まれつきの人間の間にある差別、分け隔てを乗り越える共同体が築かれていくのです。その基本は、主イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた神の国、神の恵みのご支配への感謝であり、その恵みへの応答として主イエスに仕え、また兄弟姉妹に仕え、隣人に仕えていくという奉仕です。一人一人が自分にできることをして、自分の力や、知識や、時間や、お金を、あるいは祈りを捧げて、主イエスの恵みへの応答としての奉仕をしていくことによって、私たちは神の国を、日々具体的に生きる群れとなることができるのです。

箴言の知恵
今朝私たちには旧約聖書の箴言3章1節から12節を読みました。箴言は私たちが人生の中で遭遇する様々な問題や困難にどのように応じればいいのか。この世の中でどのように生きれば、神の祝福に与ることができるのかを伝えている知恵の書です。
「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。
そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられるであろう。」(3章1~2節)
その知恵は人に命を与え、平和を与えるものです。そしてそこには神の変わらない愛があります。
「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。
それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。」(3章3節)
「慈しみとまこと」とは、私たち人間に対する神の愛を指す言葉です。神様の愛、つまり、慈しみとまことは決して変わることがありません。神はいつもあなたを愛し、あなたのことをこの上なく大切な存在と思っておられます。一方、私たちは変わりやすく、神の愛を忘れ、神のもとを離れてしまいやすいものです。神が離れていくのではなく、私たちが神から離れてしまう。だから、私たちが神の慈しみとまことから離れないように、神の教えと戒めを、心の中の板に書き記すのです。モーセが神から十戒を授かった時に、十戒が石の板に刻まれていたように、私たちの心に神の教えと戒めを刻むのです。そうすることで、私たちが神の愛から離れずにいることができる、ということを、イスラエルの人々は見出したのです

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