はじめに
今朝は9月の最後の主の日の礼拝を献げています。例年のことですが暑さから急に涼しくなり秋を感じる時となりました。今年度も前半が終わり、来週からは後半に入ります。大磯教会にとってこれからの半年間は大切な、そして大変忙しくなる時かと思います。来週の礼拝後に臨時教会総会が開催され、牧師館の建築と教会の事務室の増設、併せて会堂の塗装工事を審議致します。そしてクリスマスが終わってすぐに工事に備えて牧師室の引っ越しがあり、来年1月に工事の開始が予定されています。また今年も3教会を中心に大磯クリスマスキャロリングが駅前のレリーフ広場で行われます。混声合唱団の合同練習も来月27日に第3回目が行われます。そしてクリスマスを共に祝いたいと思っています。そして礼拝の説教は、ルカによる福音書の御言葉から連続して恵みを受けたいと願っています。早速、ルカによる福音書8章4~15節から御言葉の恵みに与りましょう。
聞く耳のある者は聞きなさい
先週はルカによる福音書8章1節から3節までと短い御言葉から恵みを与えられましたが、今朝は比較的長い箇所を読みました。話は有名な「種を蒔く人のたとえ」です。おそらく皆さんも何度も読んだり説教を聞いた箇所だと思いますが、今朝も新しい発見があり喜びがあれば幸いです。最初の1節から8節までは、主イエスが大勢の群衆に語った「種を蒔く人のたとえ」です。真ん中の9節、10節は主イエス自身が弟子たちに向かって、たとえを用いて話す理由を語っています。そして最後の11節から15節までは、同じく弟子たちに向かって、このたとえの意味を主イエス自身が説明しています。多くの主イエスのたとえの中でも珍しいケースです。
主イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせました。また主イエスは多くのみ業を行い、病を抱えている方々や身体の不自由な方々を癒やされました。しかし神の国が宣べ伝えられ、福音が告げ知らされているのを聞いても理解しない者がいたのです。主イエスがみ業を行っているのを見ても悟らない者がいたのです。心がかたくななために、耳で聞いても目で見ても理解できないのです。主イエスが来てくださり、地上における神の国はすでに始まっています。しかしそれを受け入れ主イエスに従う弟子たちと、それを拒む「ほかの人たち」とがいたのです。このことを明らかにするのが、主イエスがたとえを用いて語る理由です。ですから主イエスのたとえにおいて、主イエスに従う人たちと、そうでない「ほかの人たち」の姿が明らかにされていきます。
主イエスは10節の後半で、弟子たちに、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。」と答えています。「それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」と不思議な言い方をされています。この「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」という言葉は、旧約聖書イザヤ書6章9節の引用です。そこにはこう書かれています(旧約1070頁)。「主は言われた。『行け、この民に言うがよい、よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために』」(9-10節)とあります。これは主なる神が預言者イザヤを遣わす際に彼に語った言葉です。遣わされた先で、イザヤの預言が聞かれても理解されない、心に留められないと告げているのです。主イエスが10節後半で語っているのはこの預言の実現です。ですから「『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるため」とは、主イエスがたとえを用いて話すことにおいてそのようになった、つまりイザヤ書6章9-10節で告げられている預言が実現したということなのです。
主イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせました。また主イエスは多くのみ業を行い、病を抱えている方々や身体の不自由な方々を癒やされました。しかし神の国が宣べ伝えられ、福音が告げ知らされているのを聞いても理解しない者がいたのです。主イエスがみ業を行っているのを見ても悟らない者がいたのです。心がかたくななために、耳で聞いても目で見ても理解できないのです。主イエスが来てくださり、地上における神の国はすでに始まっています。しかしそれを受け入れ主イエスに従う弟子たちと、それを拒む「ほかの人たち」とがいたのです。このことを明らかにするのが、主イエスがたとえを用いて語る理由です。ですから主イエスのたとえにおいて、主イエスに従う人たちと、そうでない「ほかの人たち」の姿がここに明らかにされていきます。神の国の秘密を知ることが許されている者たちと、イザヤの預言の通り「見ても見えず、聞いても理解できない」者たちの姿が明らかにされていくのです。
種を蒔く人のたとえ
そしてまさにこのことこそ、「種を蒔く人のたとえ」が語っていることです。種を蒔く人が蒔いている種とは、11節の説明にあるように、神の言葉です。神の御言葉という種が蒔かれる、しかしそれがどのような土地に落ちるかで、結果は変わってきます。芽も出さずに鳥に食べられてしまったり、芽を出しても結局途中で枯れてしまって実を実らせないものもあれば、百倍の実を実らせるものもある、同じ御言葉を聞いても、それが理解され、よい実を結ぶ場合と、実を結ばないままで終わってしまう場合とがあるのです。このたとえ話は、同じ種が蒔かれてもそういう違いが生じることを語っているのです。それでは「種を蒔く人のたとえ」の内容を細かく見ていきましょう。
道端
まず5節で「ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった」と言われています。道端にも種は落ちました。でも芽を出す前に、その種は人に踏みつけられ、鳥に食べられてしまったのです。12節では、道端のものとはどのような人のたとえなのかが説き明かされています。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」とあります。この翻訳は分かりにくいかと思います。「道端のものとは…御言葉を奪い去る人たちである」と読めてしまうからです。しかし聖書協会共同訳では、次のように訳されています。「道端のものとは、御言葉を聞くが、後から悪魔が来て、御言葉を心から奪い去るので、信じて救われることのない人たちである」。つまり道端のものとは、御言葉を聞いたけれど、その御言葉を信じなかった人たちのことなのです。種は蒔かれた。神の言葉は蒔かれた。でもその御言葉を聞いても信じませんでした。御言葉を聞いた後に、悪魔がやって来て、彼らの心から御言葉を奪い去ってしまったからです。ここで言われている悪魔とは、御言葉を信じるのを妨げる力のことです。その力によって、語られた御言葉が聞かれても信じられることなく奪い去られることがあるのです。けれども間違えてはならないのは、このたとえにおいて悪魔は種蒔きを妨げているのではないということです。悪魔によって御言葉を信じることが妨げられることはあったとしても、御言葉が蒔かれることが妨げられることはありません。この世のいかなる力も、神の言葉が語られるのを妨げることはできないのです。まさに主の日ごとに私たちがお献げしている礼拝において、神の言葉が蒔かれ続けています。その御言葉を聞いても信じない人はいるかもしれませが、神の言葉が途絶えることはないのです。主イエスがガリラヤを巡って神の言葉を蒔き続けたように、教会も神の言葉を蒔き続けるのです
石地
次に6節で「ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった」と言われています。13節では、石地のものとはどのような人のたとえなのかこのように説き明かされています。「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」。御言葉を聞いて信じるけれど、しばらくは信じても試練に直面すると信仰を捨ててしまう人たちのことです。
たとえでは「(芽は)水気がないので枯れてしまった」と言われていますが、信仰も「根がない」とたちまち枯れてしまいます。信仰において「根がない」とは、聖書の知識が足りないというようなことではありません。そうではなく、信仰において「しっかり立っていない」ということです。自分にとって心地の良い御言葉を聞くと喜んで受け入れるけれど、耳障りなみ言葉を聞くと拒んでしまう。自分の願いが聞き入れられるときは神さまを信じるけれど、願いが聞き入れられないと神さまを信じなくなってしまう。信仰において「根がない」とは、こういうことです。「なんでこんな苦しみや悲しみを味わわなければいけないのか」と叫ばずにはいられないような試練に直面するとき、神を信じることをやめてしまうのです。
茨の中
さらに7節で「ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった」と言われています。14節では、茨の中に落ちたのはどのような人のたとえなのかこのように言われています。「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」。「実が熟するまでに至らない人たち」と訳されているので、この人たちは実を結んだけれどその実が熟さなかったと読めます。この人たちも実を結んだわけではありません。茨の中のものとは、御言葉を聞いて信じても、人生の色々な思い煩いによって、あるいは富や快楽を追い求めることによって、み言葉が覆われ、塞がれてしまう人たちのことなのです。
この人たちは神の言葉を信じていないわけではないかもしれません。しかし神の言葉よりも心を奪われるものがあるのです。私たちの人生には色々な思い煩いがつきまとい、悩みや不安や心配が尽きることはありません。それらによって心が占領されてしまい、御言葉が心の端に追いやられてしまうのです。人生の色々な思い煩いで心がいっぱいになってしまっているのです。御言葉より魅力的に思えるものに心を奪われることもあります。たとえば御言葉よりも富や快楽を追い求めてしまうのです。そうであるならば、神の言葉を聞いて信じていたとしても、御言葉は人生の中心にありません。むしろ人生の中心には、富を追い求めることや快楽を追い求めることがあり、御言葉は自分の人生や日々の歩みとは関係ないものとなってしまっているのです。このように人生の思い煩いであれ、富や快楽であれ、ほかのものに心を奪われることによって、御言葉が覆われ、塞がれてしまいます。そのとき信仰は窒息してしまうのです。御言葉よりもほかのものによって心が占領されているならば、本当の意味で神の言葉を信じ、神の言葉により頼んでいるのではないのです。
良い土地
最後に8節で「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」と言われています。種は良い土地にも落ちました。そして芽が生え出て、実を結んだのです。15節では良い土地に落ちたのはどのような人たちのたとえなのかこのように言われています。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」。道端に蒔かれた種も、石地に蒔かれた種も、そして茨の中に落ちた種も実を結ぶことはありませんでした。ただ良い土地に蒔かれた種だけが実を結んだのです。
あなたがたは「良い地」
しかし、私たちはここで、最初に申しましたことに立ち返らなければなりません。このたとえ話は、「あなたがた」つまり主イエスの弟子たちと、「他の人々」つまり群衆との区別をはっきりと際立たせるものなのです。この「種を蒔く人のたとえ」もそのために語られているのです。ここで際立たせられている違い、それは、御言葉の種が実を結ぶか結ばないかです。つまり最初の三つの土地と最後の「良い地」とが対比されているのです。そして「あなたがた」つまり主イエスの弟子たちのことを描いているのはどちらか。それは実を結ぶ「良い地」の方です。「他の人々」つまり群衆たちを描いているのが、最初の三つの、実を結ばない土地なのです。つまり主イエスがこのたとえ話によって語ろうとしておられるのは、弟子たち、信仰者たちの中には、道端や石地や茨の中のような人がおり、たまに「良い地」であるような人がいる、ということではないのです。主イエスはここで弟子たちに、つまり主イエスを信じて従って来ている信仰者たちに、あなたがたは「良い地」なのだ、道端や石地や茨の中のように御言葉の種が実を結ぶことのない「他の人々」とは違って、御言葉の種はあなたがたの中で百倍の実を結ぶのだ、と語りかけておられるのです。
何を見つめるか
しかし、私たちは、自分のことを、客観的に見つめるなら、自分が道端や石地や茨の中のような者であることを認めざるを得ないのです。しかしそのような私たちに、主イエスは、あなたがたは良い地だ、あなたがたにおいて御言葉の種は百倍の実を結ぶのだ、と語りかけておられます。この主イエスの語りかけを聞き取るためには、大いなる発想の転換が求められるのです。
種が芽を出し、育っていき、やがて実を結ぶのは私たち人間の力によることでしょうか。その実りは私たちが生み出したものなのでしょうか。実を結びやすい環境を整えているだけのことであって、人間の力によって実を造り出しているわけではありません。実を結ぶ力は種の中にあるのです。そしてその種を私たちは自分で造り出すことはできないのです。信仰もそれと同じです。信仰は、私たちの中にもともとその種があって、それを私たちが努力して育てていって実を結ばせるというものではありません。信仰の種は私たちが自分で造り出すものではなくて、外から蒔かれるのです。それを蒔いて下さるのは主イエス・キリストです。その種は神の言葉です。神が恵みによって私たち罪人を赦し、神の民として新しく生かして下さるという福音を告げる御言葉という種が、主イエス・キリストによって蒔かれているのです。私たちがこのたとえ話を読む時に本当に見つめ、注目すべきなのは、種を蒔く人である主イエス・キリストです。そして主イエスが蒔いて下さっている御言葉の種です。自分はどの土地かと自分のことばかりを見つめ、自分が生んでいる実りにばかり注目している私たちの目を、種を蒔いて下さっている主イエス・キリストと、主イエスが蒔いて下さっている御言葉という種にこそ向けていく、そういう発想の転換が必要なのです。私たちも神の言葉を伝えることに心しましょう。教会はひたすら種を蒔き続けましょう。祈ります。