10/6説教「神の言葉を聞いて行う」

はじめに
あと2か月半で今年もクリスマスを迎えますが、大磯教会はクリスマスイブに燭火礼拝を行なっています。私が子供の頃に通っていた教会では、クリスマス直前の日曜日にクリスマス礼拝とお祝いの会を行なっていました。それは教会の一大イベントで楽しい時でした。ページェントや日曜学校の先生たちが演じた影絵はすばらしいものでした。しかし、今思うとクリスマスイブの日(12月24日)には何もやっていた記憶はありません。そして豊橋の教会に移った時も、私も信徒の中心メンバーでしたが、日曜日のクリスマス礼拝と祝会だけでした。大磯教会に来て初めてクリスマスイブの夜、燭火礼拝を経験した時、新鮮な思いといいますか、ローソクの光の中でキリストの誕生を祝い御言葉から聴く静かな礼拝はいいなと思ったのです。クリスマスイブの静かな夜に歌う讃美歌もいいものです。燭火礼拝後、全員で、だるま市の掛け声の中に向って歌う讃美歌の合唱も記憶に残るものです。大磯教会の、この伝統的とも言えるミニ・クリスマスキャロリングが、教会合同で、駅前で行うようになった市民参加のクリスマスキャロリングの原点にあるのです。
今朝は、主イエスがお語りになった、闇の中に輝く「ともしび」のたとえから御言葉の恵みに与ります。
どのように神の言葉を聞くか
先週の礼拝では、すぐ前の『種を蒔く人』のたとえから御言葉の恵みを与えられました。そこで読んだように「『種を蒔く人』のたとえ」では、主イエスが宣べ伝えた神の言葉をどのように聞くかが語られていました。「種」は御言葉のたとえであると言いました。主イエスによって蒔かれた神の言葉という種が落ちた四つの土地は、それぞれ神の言葉をどのように聞く人たちかを表していたのです。道端に落ちた種は、神の言葉を聞いても信じない人たち。石地に落ちた種は、神の言葉を聞いて信じても根が育たないので、外からの試練によって信じることをやめてしまう人たち。茨の中に落ちた種は、神の言葉を聞いても内から湧き上がってくる「人生の思い煩い」や欲望によって信じることをやめてしまう人たちのたとえです。それに対して良い土地に落ちた種は、15節にあるように「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」でした。しかしこのたとえは、私たちが自分の力で「良い土地」になりなさい、と語っているのではありません。私たちは道端であり石地であり茨の中の種であるにもかかわらず、主イエスが蒔き続けてくださる神の言葉の力によって、「良い土地」へと変えられていく。このことが語られていました。ですからこのたとえにおいて見つめられているのは、私たちが頑張って、努力して「良い土地」になることではなく、私たちを「良い土地」へと変えてくださる神の言葉をどのように聞くかです。私たちが神の言葉を聞き、受け取り、手放すことなく持ち続けることです。そのように神の言葉を聞き続けるとき、私たちは神の言葉の力によって確かに「良い土地」へと変えられていくのです。その恵のたとえとして聴きました。しかし神の言葉をただ受け取り、手放すことなく持ち続けるだけで良いのか、それで十分なのかというと、そうではありません。そのことが今朝の箇所で語られています。したがって「種を蒔く人」のたとえの続きといってよいのです。この箇所は16節から18節までの「ともし火」のたとえの話しと、19節から21節までの「主イエスの家族とは何か」という話になっています。
16節ではこのように言われています。「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」。これはごく当たり前のことが言われています。しかし問題は「ともし火」がなにを表しているのかです。4節から15節の「『種を蒔く人』のたとえ」の文脈の中で読むならば、この「ともし火」とは私たちが受け取った神の言葉ということです。ですからこの「『ともし火』のたとえ」では、誰でも「ともし火をともしたら、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりせず、燭台の上に置く」ようにするだろうと言っているのです。私たちは受け取った神の言葉をほかの人にも見えるようにするのです。ともし火を燭台の上に置くように私たちは神の言葉を高く掲げるのです。主イエス・キリストによる救いの良い知らせを、私たちはほかの人にも見えるように高く掲げていくのです。それは、主イエス・キリストによる救いを証ししていくことにほかなりません。私たちは自分が主イエス・キリストによって救われたことを隠すのではなく、ほかの人に証ししていくのです。そう語っているのです。
生き方によって証しする
「ともし火」は私たちが受け取った神の言葉だと言いました。しかしこのように言うこともできると思います。「ともし火」とは、神の言葉を聞き、受け取り、手放すことなく持ち続けている私たち自身である、と。受け取った神の言葉をほかの人にも見えるようにするとは、神の言葉を聞き、受け取り、持ち続けている私たち自身の生き方を見えるようにすることでもあるからです。私たちは、キリスト教や聖書を知らない方に、どこまで説明したら良いか迷ってしまうことがあります。しかし、私たちがキリストによる救いの恵みに感謝し喜んで生きているならば、その私たちの姿が周りの人たちへの証しとなるのです。そのような私たちの姿を見て、周りの人たちが「なんであの人は、大変な中にあっても喜んで生きられるのだろうか」と関心を持ってくれるかもしれないのです。だから私たちは「ともし火」である自分自身の姿を、隠すことなく、周りの人にも見えるようにするべきなのです。
ところでこの「『ともし火』のたとえ」はマルコによる福音書にもあります。今朝の箇所と比べるといくつか違いがありますが、なによりも大きな違いは今朝のルカによる福音書8章16節では「入って来る人に光が見えるように」と言われていることです。家の中にいる人が暗いと不便だから光を灯すのではなく、家を探している人たちが迷わず入って来られるように光を灯して燭台の上に置くのです。この社会にあって希望を持つことができずに助けを求めている方が、教会に入って来られるように、私たちは福音を高く掲げていくのです。受け取った救いの良い知らせをほかの人にも見えるようにし伝えていくこと、そのことが語られているのです。
聖霊が理解を与える
今朝の旧訳聖書の御言葉は詩編119編129-136節までを読みました。その130節に次のようにありあります。
130 御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。
あなたの言葉が開かれ、光を輝かせ、「無知な者」とありますが「普通の人」ということです。私たちのような普通の者でも意味が分かるということ。つまり、聖書の言葉が聖霊によって開かれる時、普通の人でも神が何を語っているのか理解することができるのです。多くの人が直面する問題は、意味が理解できないということではなくて、生きることが難しいということです。この詩編の詩人の苦しみもそうであったのです。すなわち、神は確かにおられ、神の約束が無数に与えられていることが分かるようにされるのです。御言葉の光が差し込む時、そのような神の世界が私たちに突入してくる。これは御言葉の力であり聖霊なる神の御業です。私たちはこの世の意見に振り回され、人の言葉に傷つき、いろいろな物事に巻き込まれながら生きていますが、御言葉の光が射し込むことによって、御言葉を「私の足のともしび」として生きることができると詩人は歌っているのです。
「神の国の秘密」を告げ知らせる
17節にはこのようにあります。「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」。「『種を蒔く人』のたとえ」とその説き明かしに挟まれた9節から10節の箇所で、「このたとえはどんな意味か」と尋ねた弟子たちに、主イエスは「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている」と言われました。弟子たちには特別に「神の国の秘密」を知ることが許されました。しかし弟子たちは、その「神の国の秘密」を、自分たちだけが知っている秘密として、隠してしまってはならないのです。弟子たちは彼らに与えられた「神の国の秘密」をほかの人にも知らせなくてはならないし、世に対して「公」にしなければならないのです。彼らは「神の国の秘密」を知らせるために特別に選ばれたということなのです。この世に対して「公」にしていくために、弟子たちは特別な働きを与えられたのです。そして私たちも同じです。私たちも神の言葉を聞き、「神の国の秘密」を与えられました。主イエス・キリストの十字架の死という弱さの極みにおいて、私たちの救いが実現したという驚くべき秘密を受け取ったのです。そして私たちもその秘密をほかの人に知らせていくために選ばれ、その働きを与えられています。言い換えるならば、私たちが救われたのは、私たちだけが救いに入れられるためではなく、私たちがその救いを告げ知らせることによって、救いに入れられる人たちが起こされていくためなのです。私たちだけが神の言葉の力によって、道端や石地や茨の中から「良い土地」へ変えられれば良いというのではなく、すべての人が「良い土地」へ変えられていくために、教会は神の言葉を蒔き続け、私たち一人ひとりもキリストによる救いを証しし続ける使命(ミッション)があるのです。
神の言葉を新たに聞き続ける
18節には「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」とあります。この一文だけを切り取って読むならば、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる格差社会の現実を言い表しているようにも思えます。しかし、ともし火のたとえの文脈の中で読むならば、このみ言葉も神の言葉をどう聞くべきかについて語っているのです。それは18節の冒頭で「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」と主イエスが言われていることからも分かります。つまり、ここで言われているのは「神の言葉を持っている人は更に与えられ、神の言葉を持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」ということを意味しているのです。逆説的な言い方なのです。神の言葉を持っていない人とは、自分はみ言葉をよく分かっていると思い込んでしまっている人のことです。それに対して神の言葉を持っている人とは、常に神の言葉を新たに聞き続ける人のことです。「持っている人は更に与えられ」とは、そのように御言葉を聞き続ける人に神の言葉が、その恵みがますます与えられていくということなのです。主の日の礼拝ごとに語られる御言葉を、今の自分に働きかけ、今の自分を生かす言葉として聞いていないならば、私たちは自分が神の言葉を持っていると思い込んでしまっているのです。自分が新たにされ、変えられる言葉として神の言葉を聞かなくなることこそ、神の言葉を持っていると思い込むことだからです。本当に神の言葉を持っているとは、神の言葉によって絶えず自分が変えられていくということです。そのような言葉として神の言葉を聞き続けることなのです。私たちは常に神の言葉を新たに聞き続けることによってこそ、その御言葉をほかの人に見えるように高く掲げ、ほかの人にも告げ知らせ、世に対して公にすることができます。大昔に書かれた書物の言葉としてではなく、今、自分を生かしている言葉として、ほかの人に福音を証しすることができるのです。
神の言葉を聞いて、行う
このように16節から18節の箇所は、「どのように神の言葉を聞くか」という一貫したテーマによって結びついています。次に後半の19節から21節はどうなのでしょうか。ここでは、主イエスのところに主イエスの母と兄弟たちがやって来たことが語られています。一見、ともしびのたとえで語られている「どのように神の言葉を聞くか」というテーマと関係が無いように思えますが、しかし、そうではないのです。この出来事はその結論部分といえます。それは21節の主イエスの言葉から分かります。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と主イエスは言っています。ここで主イエスがお語りになったのは、「神の言葉を聞いて行う」ことに集中しているのです。「どのように神の言葉を聞くか」というテーマで語られてきた4節から18節の結論と言うことができるのです。
「神の言葉を聞いて行う」の「行う」は、単に実践する、実行するということよりも、神の言葉を聞きっぱなしにしないということです。「ともし火のたとえ」で言えば、「入って来る人に光が見えるように」受け取った神の言葉を示し続けることです。また、常に新しく聞き続けることです。
神の家族
そしてこのように「神の言葉を聞いて行う人たち」こそが、主イエスの母、主イエスの兄弟であり、神の家族にほかなりません。神の家族は血のつながりによるものではなく、神の言葉の力によるものです。道端であり石地であり茨の中である私たちを「良い土地」へと変えることができる神の言葉の力が、神の家族を築いていきます。しかしそれだけではありません。主イエスが神の言葉を蒔き続けたのは、神の家族が広がっていくためでした。神の家族がより広がっていくために私たちは用いられていくのです。主イエス・キリストによる救いの良い知らせを言葉と生き方で周りの人に証ししていくのです。世にあって救いを求めている人たちに、本当の救いはここにある、本当の救いは教会にある、と福音という光を高く掲げるのです。主イエスによって蒔かれ続ける神の言葉の力に信頼して、私たちは神の言葉を聞いて行っていくのです。そこに神の家族が確かに築かれていくのです。
御言葉の恵みは無尽蔵です。その無尽蔵の恵みにあずかるために、私たちは、御言葉をどう聞くかに注意し、その姿勢を整えていきたいと思います。お祈りします。

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