10/13説教「あなたがたの信仰はどこにあるのか」

はじめに
今朝の話しは、主イエスと弟子たちがガリラヤ湖で嵐に出遭った時のお話です。私事ですが、私は船が結構好きです。鉄道マニアも結構いますが、私は船に興味があります。父親の実家は北海道の釧路で造船所を経営していましたが、8番目の子供であったので、次男がその後を継いだので造船所は一時手伝っていただけですが、船が好きでした。模型の帆船を作ったり、結構器用な人でした。明治時代から戦前までは木造の和船を作っていましたが、戦後は北洋漁業の鋼鉄船を作ったり修理をしていました。ところで西洋の舟と和船は構造が違います。西洋の舟は竜骨というかあばら骨のような構造で板を張っているのですが、和船は太い柱や梁を使っていますが構造が少し違います。ところで、主イエスの時代のガリラヤ湖の舟はどういうものであったかと言うと、当時の舟が1986年にキブツ・ギノサールという所で働いていた2人の兄弟によって発見されました。長さ8.2m、幅2.3mの漁師の舟です。干ばつでガリラヤ湖の水位が下がった時に偶然発見されたようで、博物館に展示されているようです。写真を見ると竜骨がはっきり残っているので、西洋の舟のルーツのようなもので、ガリラヤ湖の突風にも耐えられるように造られていたのです。では早速、ガリラヤ湖の突風の中で何があったのか、御言葉の恵みに与りましょう。

突風を静める
ある日主イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込み、ガリラヤ湖の向こう岸へと船出しました。弟子たちの中にはペトロを初めガリラヤ湖の漁師たちがおりましたから、舟をあやつることは彼らに任せて、主イエスはじきに眠ってしまいました。すると、「突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった」とあります。要するに嵐になり、ベテランの漁師たちの力をもってしても舟が沈みそうになってしまったのです。嵐の中で必死に舟を漕ぎ、水をかい出している弟子たちの傍らで、主イエスは眠り続けておられました。弟子たちはついにたまらなくなり、主イエスを起こして、「先生、先生、おぼれそうです」と言ったのです。主イエスは起き上がって、風と荒波とをお叱りになりました。すると風と波は静まって凪になったのです。そして主イエスは弟子たちに、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」とおっしゃいました。

あなたがたの信仰はどこにあるのか
この話において私たちが注目すべきなのはやはりこの主イエスのお言葉です。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」、これは、溺れ死んでしまうという恐怖の中でパニックになっていた弟子たちをたしなめる、お叱りの言葉です。この言葉は、「あなたがたの信仰は本当ならここにあるはずではないか」という積極的な期待を込めたお叱りの言葉だと言えると思います。私たちも、苦しみや悲しみの中で、あるいは突然の出来事にあわてふためく中で、この弟子たちと同じようにあわてふためいてしまうことがあります。そういう時に、「あなたの信仰はどこにあるのか」と、ある意味でどやしつけてくれるような、信頼できる信仰の友を持っている人は本当に幸いです。あるいは私たち自身が、後から振り返って見て、「あの時私の信仰はどこへいってしまっていたのだろう」と思うこともあります。これらのことはいずれも、私たちが信仰者であること、主イエスを信じていることが前提となっています。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」という主イエスのお言葉も、弟子たちが主イエスを信じている、信仰をもって生きていることを前提として語って下さっている、励まし、あるいは期待の言葉であると言えるのです。

神の言葉を聞いて行うとは
弟子たちは主イエスに叱られてしまいましたが、それでは、あの嵐の状況の中で、主イエスに叱られることのない、つまり信仰がそこにちゃんとある歩みとはどのようなものなのでしょうか。それは、嵐で舟が沈みそうになっても、この舟には主イエスが乗り込んでおられる、主イエスが共にいて下さるということに信頼して、漕ぐ者は漕ぎ続け、水をくみ出す者はくみ出し続けることです。つまり主イエスのご支配と守りと導きとを信じて、パニックに陥ることなく、今自分に与えられている役割、働きを担い続けることです。主イエスが弟子たちに期待しておられる、信仰がどこかへ行ってしまうことなくちゃんとそこにある状態というのはそのような姿なのです。そしてそれこそが、「神の言葉を聞いて行う」ことなのです
弟子たちは主イエスに叱られてしまいましたが、それでは、あの嵐の状況の中で、主イエスに叱られることのない、つまり信仰がそこにちゃんとある歩みとはどのようなものなのでしょうか。それは、嵐で舟が沈みそうになっても、この舟には主イエスが乗り込んでおられる、主イエスが共にいて下さるということに信頼して、漕ぐ者は漕ぎ続け、水をくみ出す者はくみ出し続けることです。つまり主イエスのご支配と守りと導きとを信じて、パニックに陥ることなく、今自分に与えられている役割、働きを担い続けることです。主イエスが弟子たちに期待しておられる、信仰がどこかへ行ってしまうことなくちゃんとそこにある状態というのはそのような姿なのです。そしてそれこそが、21節で主イエスが語った「神の言葉を聞いて行う」人たちということなのです。
私たちは、「神の言葉を聞いて行う」ということの意味を間違って受け止めてしまっていることが多いのです。神がみ言葉によって私たちに語っておられることは、根本的には、あれをしなさい、これをしなさい、あれはしてはいけない、これはしてはいけない、という掟や戒めではありません。この掟を守り実行したら、この規則通りにしたらあなたは救われる、という教えは神のみ言葉ではないのです。それでは神のみ言葉は私たちに何を語っているのか。それは、独り子イエス・キリストによる救いです。神の独り子、まことの神であられる主イエスが、あのベツレヘムの馬小屋で、貧しい一人の赤ん坊としてこの世に生まれて下さった。そしてその主イエスが成長して、神による救いを告げる福音を人々に宣べ伝えて下さった。さらにその主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを実現して下さった。神はその主イエスを復活させ、私たちにも、復活と永遠の命の約束を与えて下さった。神のみ言葉が私たちに告げているのは、この主イエス・キリストによって実現されている救いの恵みです。それを聞いて行うとは、この神による救いの恵みを信じて、どのような時にも主イエスに信頼して、主イエスと共に生きることなのです。
私たちを見捨てない
弟子たちは、それほどまでに愛してくださる主イエスが共にいるにもかかわらず、突風に襲われ「おぼれそうです」と言って、不安と恐れに駆られ、眠っている主イエスを起こしました。「なぜ、なにもしてくださらないのか」、「なぜ、助けてくださらないのか」と思ったのです。私たちも弟子たちと同じです。十字架で死に復活された主イエスが共にいてくださるのに、それぞれの歩みの中で、あるいは教会の歩みの中で、嵐に襲われるたびに「このままでは死んでしまいそうだ」と恐れ、不安になり、「なにもしてくださらない」と主イエスを疑うのです。しかし主イエスはそのような弟子たちと私たちを見捨てることはしません。主イエスの期待に応えて舟を漕ぎ続けることのできない私たちを「もうお前たちはだめだ」と切り捨ててしまわないのです。主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と、私たちを叱咤激励しつつ、「風と荒波とをお叱りに」なり、突風を静めてくださいます。私たちが共にいる主イエスを信頼できないにもかかわらず、主イエスは起き上がってくださりみ業を行ってくださるのです。
今朝、共にお読みした旧約聖書詩編107編28節から31節にこのようにあります。
28苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから導き出された。
29主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった。
30彼らは波が静まったので喜び祝い 望みの港に導かれて行った。
確かに主イエスは私たちに舟を漕ぎ続けることを期待されます。しかし主イエスは、その期待に応えられず「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶ」私たちを決して見捨てることなく、「苦しみから導き出」してくださるのです。私たちが人生の中で遭遇する「嵐に働きかけて沈黙させ」てくださり、波を静めてくださるのです。主イエスが共にいてくださる教会という舟に乗って、私たちはこの世という大海原を航海しています。試練や困難という嵐に襲われるとき、主イエスは私たちが舟を漕ぎ続けることを期待されます。しかしその期待に十分に応えられない信仰の小さい私たちを、共にいてくださる主イエスがいつも支え、守り、導いてくださっているのです。そして繰り返し私たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と語りかけてくださり、「私がいつも共にいることを信じ、恐れることなく不安になることなく歩み続けなさい」と励ましてくださるのです。
主イエスのみ業を目の当たりにする
主イエスは風と荒波とをお叱りになり突風を静めました。その驚くべきみ業を目の当たりにして、弟子たちは恐れ驚き、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と言います。私たちも幾度となく主イエスの驚くべきみ業を目の当たりにします。み業を体験するたびに今まで知らなかった新たな主イエスを知っていくのです。今までよりも、より大きな主イエスの愛に、より豊かな主イエスの恵みに気づかされ、「いったい、この方はどなたなのだろう」と驚き、感謝しつつ、私たちは歩んでいくのです。
主イエスはいつも私たちと共に、私たちの教会と共にいてくださいます。嵐の中にあって、「なにもしてくださらない」と私たちが思うときも、共にいて導き、支え、守ってくださり、私たちの苦しみや悲しみを共に担ってくださっているのです。私たちは嵐に遭遇しても、共にいてくださる主イエスに信頼し歩んでいきます。いつ終わるか分からない嵐の中にあっても、私たちのために命を捨ててくださった主イエスが共にいてくださることに信頼し、私たちは舟を漕ぎ続けるのです。そのようにして私たちがこの世という大海原を航海する中で、私たちは繰り返し主イエスのみ業を目の当たりにし、主イエスの愛と恵みとに与っていくのです。

教会は船
先週の聖日礼拝後に、牧師館増築を主たる目的とする会堂増改築工事についての臨時教会総会が開催されました。総会資料に建築予定図面を付けて説明致しました。海側の二階のベランダが広くとってあり船の形になっています。ノアの箱舟をイメージしています。必要以上に広いので建築費を抑えたいのに無駄ではないのか。という意見もありましたが、船は教会を表わすシンボルですから、主イエスが乗った大磯教会丸が荒波に向って漕ぎ出すイメージなのです。それほど金額が上るわけでもないので、是非実現させたいなと個人的には思っています。

人生の嵐の中で
今朝の聖書箇所から教えられるのは、人生の嵐の中でも主イエスにあって平安を保つことができるということ、これを会得することを主は望んでおられるということです。そこで、私たちは嵐の中でも平安を保つということを会得しなければならないのではないか。それに関する実話を紹介します。嵐が吹き荒れる船上で、主イエスの弟子たちと正反対の信仰姿勢を見せた人たちがいました。時は1735年、ジョン・ウェスレーは福音布教教会の宣教師としてアメリカのジョージア州へ派遣されました。その航海の途上で、ウェスレーの心を捉える出来事が起きたのです。ウェスレーはイギリスのオックスフォード大学のホーリークラブの指導者をしていましたが、そのクラブでは、聖書の学びと祈り、囚人伝道、貧しい人々への奉仕活動等に熱心だったようです。彼らは真面目で几帳面だったので、「メソジスト」(几帳面屋)とあだ名を付けられたのです。ウェスレーはイギリスの国教会の司祭の資格を持ち、宣教師としてアメリカのジョージアに向かったのですが、航海途上で、激しい嵐に襲われました。彼は恐れに捕らわれ、死の恐怖を感じたと言っています。ところが、その激しい嵐の中で平安を保ち、神を賛美する人々がいました。モラヴィア兄弟団の人たちです。モラヴィア兄弟団と言うのは、ドイツに本部があるアナバプテスト(再洗礼派)の流れを汲む人々です。恐れ惑う自分とは全く違う平安に満ちた彼らの態度に、ウェスレーは深い感銘を覚えたのです。アメリカ上陸後に、モラヴィア兄弟団の指導者が、「あなたはイエス・キリストを知っておられますか」とウェスレーに尋ねる。イギリスで熱心に活動し、アメリカの宣教師となったウェスレーに対してである。ウェスレーは、自分は彼らほどにイエス・キリストを知っていないと気づいていたのです。ウェスレーのアメリカでの伝道は大失敗に終わり、二年余りで帰国することになります。彼の落胆は大きく、「私は怒りの子であり、地獄の相続人である」とまで述べています。しかし転機が訪れることになります。彼は帰国後、ロンドンの集会で、モラヴィア兄弟団の宣教師の信仰義認の説教を聞き、ルターの「ローマの信徒への手紙の序文」が朗読されたときに、心が「不思議に熱く燃える」という体験をしたのです。これはウェスレーの第二の回心とも言える出来事として知られています。ウェスレーにとってイエス・キリストは真の意味で生ける存在となったのです。
私たちの信仰というのは、やはり、試練の時に試されるものです。その時、主イエスをほんとうに知っているのか、どれだけ信頼しているのかが試されるのです。私たちも、激しい嵐の中でも平安を保っているような人物でありたいと願い、あわてふためく、うろたえる、恐れる、そういったことは最小限度にしたいと思いつつも、やはり、主イエスに心の目が開かれていなければ、思うようにはいかないのです。
私たちは、主イエスの助けは遅いと感じられる時もあるでしょう。ガリラヤ湖上の弟子たちの場合、死の予感が走るまで助けはなかったわけですが、主の助けのタイミングというのは、私たちが願っているより遅く感じられるときもあります。しかし、主は無関心なわけではないし、無力なのでもありません。だから、信頼と賛美を持って待ち望むことができればいいのです。人生の航海はちょっと危なっかしいのが当たり前であるとも言えます。ベストの航路を選択し、ベストのタイミングで船出したとしてもそうなのです。私たちの航海もまだ続きます。この航海を主とともに信仰をもって続けられるように祈りたいと思います。お祈りします。

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