二つの奇跡物語
今朝の新約聖書の御言葉、ルカによる福音書第8章40節以下には、主イエスがなさった二つの奇跡が語られています。一つは十二年間出血が止まらなかった女の人の癒し、もう一つは会堂長の十二歳ぐらいの娘が死んでしまったのを生き返らせたというみ業です。しかもこの二つの奇跡物語が一つに組み合わされて語られているのです。十二という数字に意味がありそうにも思うのですが、どういう共通点があるのか御言葉の恵みに与りましょう。
会堂長ヤイロの娘
今朝の箇所の冒頭40節に「イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである」とあります。先週お話ししましたが、主イエスはガリラヤから湖を渡って、向こう岸にある異教の土地、ゲラサ人の地方を訪れ、「悪霊に取りつかれている男」を悪霊から解放し、救いのみ業を行いました。しかしその救いのみ業を目の当たりにしたゲラサの人たちはとても恐れ、主イエスにゲラサから出て行ってもらいたいと願いました。そこで主イエスは舟に乗ってゲラサを去り、再び湖を渡って、ガリラヤに戻って来たのです。ですから40節冒頭の「イエスが帰って来られると」とは、「主イエスがゲラサから帰って来ると」ということであり、主イエスがゲラサから帰って来るのを待っていた群衆は喜んで主イエスを迎えたのです。ここに会堂長のヤイロという人が出てきます。彼も主エスを喜び迎え、主イエスの帰りを今か今かと待っていたのです。早速主イエスのもとに来てひれ伏し、娘を助けて下さるように願ったのです。彼は会堂長でした。会堂というのはユダヤ人たちが礼拝や集会のために集う場所で、その長であった彼はその地域のユダヤ人社会の重鎮、指導的な立場にある人でした。このヤイロの十二歳の一人娘が病気で死にかけていたのです。十二歳というとまだ幼い気がしますが、当時はそろそろ結婚してもいいという年齢なのです。これからいよいよ自分の人生を歩み出そうとする年齢にあったこの娘が、病気で死にそうになっているのです。自分の娘が死にかけている。父親ヤイロは勿論娘の病気を直すために必死になったでしょう。様々な医者に見せ、治療を試みたに違いありません。それだけの財産も、人脈も彼にはあったはずです。しかしそのように八方手を尽くしても病気は悪くなるばかりで、ついに娘は危篤状態に陥ったのです。そういう絶望の中で彼は主イエスに、来てくださるように願ったのです。主イエスはその願いを聞き入れて彼の家へと向かいました。
もう一人の女性の癒し
ところが主イエスがヤイロの家に向かう途中で、群衆が主イエスのまわりに押し寄せてきました。その中に一人の女性がいました。43節にこのようにあります。「ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた」。先ほど見たように、ヤイロの娘は十二歳ぐらいでしたから、この女性はヤイロの娘が生まれてから今にいたるまでずっと「出血が止まらず」にいたことになります。十二年という時間が、ヤイロの娘とこの女性を結びつけているのです。新しい命が生まれすくすくと育っていく十二年。父親にとっても、娘にとっても「自分の人生が前進している」という思いがあったはずです。結婚してもいい時期にもなっているのです。順風満帆とまでは言えなくても、確実に人生が前に進んでいると思えたのです。そしていよいよこれから新たな歩みへと進んでいこうとしていました。
それに対して出血が止まらない十二年。この女性にとって自分の人生は十二年間止まったままでした。何歳のときに彼女がこの症状を発症したのかは分かりません。しかし何歳で発症したとしても、今より寿命の短い時代にあって、十二年という時間は、彼女の人生の大きな部分を占めています。それだけに自分の人生が十二年間止まったままであることは深い苦しみでした。彼女はなんとかして治りたい、再び人生を前に進めたいと願い、医者を探し求めました。しかし全財産を使い果たしても、だれも彼女の症状を癒やすことはできなかったのです。彼女は病の症状に苦しむだけでなく、その治療のために全財産を失う苦しみをも味わいました。それでも病は治りません。財産を失って日々の生活も厳しくなっていたはずです。なお且つこれは肉体的につらい病気であるだけでなく、ユダヤ人の社会においてはむしろ精神的に大きな苦しみを引き起こす病気でした。律法においては、生理の出血のある期間はその女性は穢れているとされていました。ということはこの人は一年中穢れた者であり続けることになります。だから彼女はまともに人と接触することができないのです。普通の社会生活を送ることができないのです。ですから彼女が群衆の中に紛れて主イエスに近付いたのは相当の勇気が必要なことでした。そして彼女が主イエスの服の房に触れたというのもまことに大それたことです。自分の穢れを移すような行為なのです。彼女がそんな思いきったことをしたのは、この十二年の間、病気の癒しを願ってほうぼうの医者にかかり、全財産を使い果たしたけれども治してもらえなかったという苦しみ、絶望によってです。彼女は最後の望みを主イエスにかけ、群衆の中で後ろからそっとその服の房に触れたのです。すると、「直ちに出血が止まった」とあります。十二年間苦しんできた病が、たちどころに癒され。そのことを彼女自身自分の体に感じたのです。
なぜ主イエスの服の房に触れたか
ところでなぜ服の房なのでしょう。言葉にこだわりますが、服の房とは何か分かりますでしょう
か。ユダヤ人にとってはとてもなじみのある、しかし日本人にとってはなじみの薄い、そんな服
の房について考えてみたいと思います。この服の房は、ユダヤ人男性が服の四隅に必ずつける房
飾りです。神がモーセを通じてイスラエルの民に命じたことに由来しています。民数記15章3
7節以下には衣服の房について記されています。ちなみに旧約聖書239ページ下の段ですが、
37節から40節までをお読みします。
37主はモーセに言われた。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。
代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。
39それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を
思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしない
ためである。
40あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属す
る聖なる者となりなさい。
昔のイスラエルの男性はこの飾り房が四隅についた四角い上着を着ていました。やがてそれは現代でも使われている祈りのショールに変化していきました。この飾り房にはモーセが神より受けた613の戒めにちなんで、613の結び目があります。そして、ひもの青色は「神聖」を意味しました。つまり、この飾り房のついた服を着るということは、み言葉をぶら下げて歩いているようなもので、神の戒めをいつも思うことを意味しているのです。
この主イエスの服の房に触れた女性は、主イエスの神聖で神秘的な力、神より受けた613の戒めの力によって、あるいは主イエスの服に宿る癒しの力によって癒されたということになるわけですが、この話が示そうとしているのはそういうことではありません。大事なのはむしろその後の所です。主イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言って、自分に触れた人を探し出そうとなさったのです。しかし誰も名乗り出る者がいません。弟子のペトロは「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言いました。しかし主イエスは46節で、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言っておられます。誰かが救いを求めて自分に触れたことを主イエスは敏感に感じ取り、その人を見つけ出そうとなさるのです。
47節「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した」。彼女は、できることならこの出来事を隠しておきたかったのです。穢れた者である自分が群衆に紛れて主イエスに触れたことが明らかになれば、人々からどんな非難を受けるか分かりません。またそれは主イエスに対しても大変申し訳ないことです。できれば、誰にも気付かれずにそっと家に帰りたいと思っていたのです。けれどもここに、主イエスのなさる癒しのみ業、救いのみ業の基本的な性格が示されているのです。それは、主イエスがその人と正面から向き合い、出会おうとなさるということです。この女性は、イエスという人が数々の癒しのみ業を行なっているといううわさを聞き、その人に触れるだけで癒されるかもしれないと思って、後ろからそっと触れました。そしてそのまま静かに立ち去るつもりだったのです。つまり主イエスと出会うことなしに、自分のことを知られることもなしに、癒しの恵みだけをいただいて帰ろうとしていたのです。しかし主イエスは振り返って彼女を探し出し、彼女と出会い、交わりを築こうとなさるのです。皆さんの中にも、この女性と同じような思いでこの礼拝に集っている方がおられるかもしれません。教会の礼拝に行って、イエス・キリストの恵み、慰め、助けをいただいて、誰にも気付かれずに家に帰りたい、あるいは聖書のお話を聞いてそれを自分の生活の中で参考にしていこう、という思いで来ている人もおられるかもしれません。しかし、主イエスご自身との出会いと交わりなしにただ癒しや慰めや支えだけを受けるということはあり得ないのが、主イエス・キリストによる救いの基本的な性格なのです。それは言い換えれば、主イエスによる救いの中心は病気が癒されたり苦しみが取り除かれたり、何らかの教えを受けることにあるのではない、ということです。それらはあくまでも付随的なことであって、救いの中心は、主イエスとの出会いと交わりにこそあるのです。それゆえに、後ろからそっと触れて癒しや慰めだけをいただくということはあり得ません。しかし、後ろからそっと触れてはいけない、ということではありません。この女性はまさにそのようにして癒されたのです。ですから、それはそれで良いのです。しかし大事なのは、それだけで終わることはない、ということです。救いを求めて後ろからそっと触れたこの女性の思いを、主イエスはしっかりと感じ取って下さり、振り向いて、その人と向き合い、出会おうとなさるのです。本当に主イエスとの出会いと交わりに生きるならば、そのことが他の人の前でも明らかにならなければなりません。洗礼を受けるとはそういうことです。洗礼において私たちは自分の信仰を人々の前で言い表し、人々の前で水を注がれてキリストの救いにあずかる者となるのです。ある意味で恥ずかしい、つらいことかもしれませんが、人々の前で主イエスを信じることを公にすることによってこそ、救いにあずかることができるのです。
信仰による救い
さらにこの話を読み進めていきたいと思います。会堂長の家に向かう途中で、この女性の癒しの出来事が起ったために時間がかかってしまいました。そこに、会堂長の家から人が来て、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と言ったのです。最後の望みをかけて主イエスに来ていただこうとしていたのに、間に合わなかった、父親のヤイロはその場にくずおれてしまったに違いありません。しかし主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」とおっしゃいました。信じることによって救われる、信仰による救いということです。それが、この二つの奇跡物語を結び付けている絆であると言えるでしょう。この二つの話が語っているのは、主イエスが奇跡を行う力を持った方であることだけではなく、信仰による救い、ということなのです。主イエスは「恐れることはない」と言われました。娘を奪った死の力に屈服して絶望している父親に、恐れるな、死の力を打ち破って娘を救う力のある者がここにいる、と語りかけたのです。会堂長の家に着くと、人々が娘の死を悼んで泣いていました。主イエスは「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃいました。すると人々は主イエスをあざ笑ったとあります。この娘は本当に死んでしまったのです。眠っていたのを人々が死んだのと間違えたのではないのです。「死んだのではない。眠っているのだ」という主イエスのお言葉は、人々からあざ笑われるたわ言としか思えないのです。しかし、主イエスが手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけると、娘は生き返り、起き上がったのです。つまり、死の力の前では主イエスも無力だという常識がくつがえされ、主イエスの力の前では死こそが無力なのだということが示されたのです。「ただ信じなさい」というのは、このことを信じなさいということです。主イエスの前では死も無力であることを信じることによって、私たちは救われるのです。
信仰と救い
ヤイロは救いを求めて主イエスのもとにやって来ましたが、主イエスこそ死に打ち勝つ救い主だとはっきりと信じていたわけではありません。それは病を癒されたあの女性も同じです。「あなたの信仰があなたを救った」と主イエスはおっしゃいましたが、彼女も、救いを求めて後ろからそっと主イエスの服の房に触れただけで、主イエスをはっきり信じていたわけではありません。できれば主イエスにも気付かれずに立ち去ろうとしていたのです。「信仰による救い」がこの二つの話を繋ぐ絆ですが、そのように言われるに値するほどの信仰は、あの女性にも、会堂長ヤイロにも見出すことはできないのです。
そうであるならば私たちは、信仰と救いとの関係を、この物語に即して考え直さなければなりません。主イエスこそ病や死に打ち勝つ救い主だという確固たる信仰を持つことによって救われる、ということをこの話は語っていません。ここに登場する人々は、苦しみ悲しみの中で主イエスの救いを求めたのです。そういう思いなら私たちにもあります。私たちはそういう思いを抱いて主イエスのもとにやって来るし、救いの恵みだけをそっといただいて気付かれずに帰ろうとします。そのような思いは、本来信仰などと呼べるものではありません。けれども主イエス・キリストは、そのようなあやふやな、また自分勝手な思いを抱いてやって来た私たちと、正面から出会い、交わりを持とうとなさるのです。私たちの願いを受け止めて下さり、私たちが期待している以上の救いのみ業を行なって下さるのです。そしてその中で、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と語りかけて下さるのです。私たちは、主イエスのこの語りかけによってこそ、主イエスを信じる信仰を与えられ、安心して歩み出すことができるのです。私たちが死の力に捕えられ、苦しみ悲しみ絶望の中でうちひしがれている時に主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば救われる」と語りかけて下さるのです。私たちは、主イエスのこの語りかけを聞くことによって、恐れから解放されるのです。勿論この語りかけだけでそれが実現するわけではありません。主イエスのご生涯の全体、とりわけ十字架の死と復活を見つめなければなりません。主イエスは私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを実現して下さいました。そして父なる神が、死の力を打ち破って主イエスを復活させて下さったのです。主イエスの十字架と復活によって実現した神の救いの恵みによって、罪に支配され、死の力に屈服して恐れの中にいる私たちに、罪の赦しの恵みと、主イエスの前では死も無力なのだという信仰が与えられていくのです。お祈りします。