はじめに
先週の月曜日は神奈川連合長老会の長老・執事修養会に大磯教会からも長老2人と私が参加致しました。14教会から80数名の長老・執事が集まり、教会員の高齢化とコロナ後多くの教会で教勢の低下と財政が危機的な状況にあることを確認し、話し合いました。3人の長老からの発題があり、その後分団に分かれて食事をしながら話し合いました。長く長老をされている方、最近長老に選出された方などいろいろですが、確かに教会の規模の大小にかかわらず危機に直面しています。ある地方の教会グループでは少ない牧師が掛け持ちで教会を牧会している例なども紹介されましたし、将来予測では教会員の少ない教会は消えてゆくという結果も出ていました。しかし、分団での話しの中では、コロナ後さまざまな新しい取り組みで教会が活性化してきているという話もありました。二千年前パウロが伝道した教会、コリントの教会など今は存在しませんが、福音の宣教は二千年を経て世界各地に多くの教会を生み出しました。そしてコリント、ガラテヤ,エフェソ、フィリピ、コロサイなどの教会は今も聖書を通して人々に信仰を伝えています。今朝は主イエスが十二人の使徒を神の国の宣教に遣わした個所から御言葉の恵みに与ります。
十二人の派遣
ルカによる福音書9章は、1節に記されているように、十二弟子の伝道の記事から始まっています。主イエスに召されて弟子となった者たち十二人は、いつも主イエスと一緒にいました。第8章が語り伝えているところでは、いつも主役は主イエスであって、主が神の国を宣べ伝え、悪霊を追い出し、信仰を呼び起こし、病気を癒されたと記しています。ところがこの9章におきましては、弟子たちがいわばひとり立ちするのです。先触れとして主イエスの先遣隊として働いたという訳ではありません。主イエスは十二弟子に、悪霊を制し、病気を癒す力と権威をお与えになったのです。つまり、ご自身が持っておられるのと同じ力を弟子たちにお与えになり、神の国を宣べ伝え、病気を癒すために遣わされたのです。ご自分と同じことをするために弟子たちをお遣わしになったのです。神の国を宣べ伝える、今日の言葉でいうと伝道です。病気を癒す。今日の言葉でいうと悩みある者に対する奉仕ということです。この十二弟子は,その後十二使徒と呼ばれるようになって、ユダは入れ替わらなければなりませんでしたけれども、教会の最初を担い、教会の基礎を作り、教会の歴史を作ったのです。今朝の箇所の最後の6節にはこう語られています。「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」。このように、彼ら十二人は実際に、主イエスに授けられた力と権能を行使したのです。自分でも驚くような業が行われていったのです。主イエスによって選ばれ、派遣された者は、このような驚くべきことを体験します。自分の力では到底起り得ないようなことが、自分を通して起ることを体験するのです。
神の国の福音を宣べ伝えるために
さてしかし、主イエスが彼ら十二人を派遣したのは、悪霊を追い出したり病気の人を癒すという奇跡を行わせることが目的ではありませんでした。そういう力と権能をお授けになりましたが、彼らを派遣する目的はむしろ2節に語られています。「そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり」、つまり、彼ら十二人を派遣なさる第一の目的は、神の国を宣べ伝えることです。8章1節を見ると「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」とあります。主イエスが町や村を巡りつつしておられたのも、「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせる」ことだったのです。「神の国」とは、神のご支配という意味です。しかもこのご支配は、何をするか分からない暴君の支配ではなくて、恵みに満ちた、救いを与えて下さるご支配です。その神の恵みのご支配が、救いのみ業が、今や決定的に始まっている、と主イエスは宣べ伝えたのです。それは良い知らせ、救いの喜びを告げる知らせ、つまり福音です。主イエスはこの神の国の福音を人々に告げ知らせながら町や村を巡られたのです。そしてこの神の恵みのご支配を具体的に示し表すために、悪霊に打ち勝ち、病気をいやすという奇跡を行われたのです。主イエスにとって、奇跡を行うことは目的ではなくて、神の国の福音を告げ知らせるための手段でした。主イエスによって遣わされる十二弟子においてもそれは同じです。彼らに与えられた使命、ミッションの中心は、神の国の福音を宣べ伝えることであり、それをするために、悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能が授けられたのです。
私たちの選びと派遣
さてルカがこのことを記しているのは、この十二人の話が、この福音書を読む全ての者たちにとって自分自身の事柄であることを教え示すためです。私たちも、この十二人と同じように派遣され、彼らと同じことを体験していくのです。そのように言うと、いやいやこの十二人は多くの弟子たちの中から主イエスによって特別に選ばれた人々であって、言わば選りすぐりの信仰者だ、自分はそんな特別な人間ではないし、信仰においてもあやふやな弱い者だから、使徒たちの話を自分にあてはめることはできない、と誰もが思うのではないでしょうか。けれどもそれは勘違いです。主イエスの十二人の弟子たちが特別に信仰の深い、選りすぐりの信仰者だったと考えることが間違っています。主イエスが弟子たちの中から特に信仰の深い立派な人材を選んだなどということは一言も語られていません。そして実際どの福音書からも分かることは、十二人の弟子たちが他の人よりも特別に信仰が深いなどということは全くない、ということです。この十二人の一人が主イエスを裏切ったイスカリオテのユダだったことがその動かぬ証拠です。一番弟子のペトロですら、主イエスが捕えられた時には、三度にわたって「そんな人は知らない」と言ったのです。十二人の使徒たちは、まさに私たち一人一人と同じ、信仰においてあやふやな弱い者たちだったのです。私たちは使徒たちの信仰を受け継ぎ、共有しているのです。それは、主イエスが使徒たちにお与えになった使命を共有しているということでもあります。キリストを信じ、教会に連なっている信仰者は誰でも、使徒たちと共に、神の国の福音を宣べ伝えるという使命を与えられているのです。そして、そういう者たちを使徒として選び派遣なさった主イエスは、私たちをも選び派遣なさるのです。そもそも主イエスを信じる信仰を与えられているということ自体が、既に主イエスによって選ばれているということです。選ばれたのは私たちが立派だからでも力があるからでもありません。私たちの中にある何らかの価値によってではなく、ただ神の恵みのみ心によって、私たちは選ばれ、信仰を与えられ、そして派遣されているのです。けれども、今信じている人しか神が選んでいない、などということはありません。今信じている人だって、信じたから選ばれたのではなくて、選ばれたから信じているのです。今日皆さんが何らかのきっかけによってこの礼拝に集っておられること自体に、神の選びと招きがあるのです。
何も持たずに
主イエスは十二人を派遣するに当って、3節でこう言われました。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」。何も持っていくな、と主イエスはおっしゃっています。十二人の派遣の話はマタイ、マルコ福音書にも共通して語られていますが、それらを比較してみると、ルカにおけるこの話の特徴が見えてきます。ルカによる福音書は、主イエスに派遣される者たちは何も持たずに出かけることを強調しています。主イエスは、神の国を宣べ伝える旅のためには、あれこれ準備することを禁じておられるのです。マルコでは「杖一本のほか何も持たず」と記されていますが、ルカはその杖さえも持っていくなと言っています。ルカによる福音書において、このように伝道に際して「なにも持っていないこと」が徹底して求められているのは何故なのでしょうか。このことにおいて何が見つめられているのでしょうか。一つの捉え方として、主イエスが「何一つ持っていくな」と言われたのは「貧しくなりなさい」ということだ、という捉え方があります。確かにルカ福音書4章16節以下で、主イエスがナザレの会堂で朗読されたイザヤ書の御言葉は「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」(4:18)でした。そして主イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのです。そうであるならば「貧しい人に福音を告げ知らせるために」、福音を伝える人も相手と同じように貧しくなって、「なにも持たずに」伝道する必要がある。主イエスが「何一つ持っていくな」と言われたのはそのことを見つめている、と捉えるのです。けれども、伝道の旅に「なにも持っていかない」ことといわゆる「貧しくなる」ことは違うと思います。むしろここで見つめられているのは、自分の持ち物に頼るのではなく、徹底的に神と神の御支配に信頼することではないでしょうか。
神のご支配に信頼する
神の国とは神のご支配ということです。神の支配と福音の喜びを伝える使命は、自分の備え、蓄え、能力によってそれを果たそうとしてはならない、と主イエスは言っておられます。ただひたすら、主イエスの力、神の力に依り頼み、それに信頼して、神の国の福音を、救いの知らせを宣べ伝えなさい、と主イエスは言っておられるのです。
今、私たちは教会の増改築工事を行なおうとしています。今回の工事の発端は、教会の牧会・伝道の中心となり、み言葉の説き明かしを使命とする牧師と家族の住まいを作るということが主たる目的です。今、牧師である私は自宅から通っていますが、これはかなり例外的な例であって一般的には牧師及び家族は教会の牧師館に住み、いずれ主の御用に仕えるために全国の教会に派遣されて行きます。世襲の政治家や檀家を引き継ぐ僧侶のようなことはありません。牧師は教会に、あるいはその付近に牧師館として居住します。10年前の会堂増改築工事の際に古い、雨漏りも多かった古い牧師館は取り壊し、今は牧師館がありません。早い完成を皆さんと共に願っているところです。今、その真っ最中ですが、建築には工事費用が必要です。これは前回の工事でも感謝したことですが、私たちの想定以上のことが起こるのです。良い想定外もあるし、悪い想定外もあります。前回もいくつも想定外があり、工事途中で、2階の和室の根太が腐っていて、崩壊してもおかしくないぐらいシロアリに浸食されていました。そのためにようやく工面した工事費に更に多額の費用が必要になりました。古い建物を改修する際には起こりがちです。さまざまな困難がありましたが、すべてが主によって導かれていたと感謝いたしました。今回も建築資金零から出発しましたが多くの想定外の恵みによって進んでいることに感謝しています。とは言え、悪い想定外が起こるたびに、右往左往して落ち込む私たちです。まさに主イエスの弟子たちと同じです。
すべてをご支配していてくださる神がその旅を導き、支え、必要なものを備えていてくださることに信頼し、自分の持ち物を何一つ持たずに遣わされなさいと言われるのです。そしてそうでなければ、本当に神の国を宣べ伝えることはできないのです。神の国を宣べ伝えるとは、神の国について解説したり説明したりすることではありません。そうではなく私たちの歩みをご支配していてくださり、それも好き勝手にではなく愛の御心によってご支配していてくださり、支え守っていてくださる神にあらんかぎりの信頼を寄せて生きていくよう伝えていくことです。そのように生きていく歩みに神が本当に必要なものを備えていてくださると伝えていくことです。そうであるならば、まず神の国を宣べ伝える人が神のご支配に信頼して生きていなければ、そのことを伝えられるはずがありません。自分の持ち物を支えとしている人が、神の国、神のご支配を語ったところで、誰も耳を傾けてくれないのです。
あなたと共にいて、必ず救い出す
5節でこのように言われています。「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」。「あなたがたを迎え入れない」とは、主によって遣わされた者が宣べ伝えている神の国を受け入れないということであり、告げ知らせている福音を拒むということです。そのときは、その人たちへの「証として足についた埃を払い落としなさい」と主イエスは言われるのです。「足についた埃を払い落とす」のは、相手に対して埃一つとして関係がないことを示すジェスチャーです。
今朝の箇所を読み進めてきまして、なお私たちは自分自身を見つめるならば、主によって遣わされることへの不安や恐れを拭い去ることができないのではないでしょうか。備えなしに遣わされる不安や恐れがあります。神のご支配に信頼しきれない自分がいます。だから色々と理由を作って遣わされるのに抵抗しようとするのです。かつて預言者エレミヤも主によって遣わされるのに抵抗しようとしました。今朝の旧訳聖書のみ言葉、エレミヤ書1章6節で、エレミヤはこのように言っています。「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」。私たちもエレミヤと同じです。「神様、私は若者に過ぎませんから」とか、逆に「私はもう高齢ですから」とか、「私は忙しくて余裕がありませんから」、「私は遣わされた先で何を語ったら良いのか、どうしたら良いのか分かりませんから」。そのように色々と理由を並べて抵抗するのです。しかしそのようなエレミヤに、そして私たちに神は言われます。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ」(7節)。私たちは「若者に過ぎないから、もう高齢ですから」と言ってはならないし、「忙しくて余裕がありませんから、何を語ったら、どうしたら良いのか分かりませんから」と言ってはならないのです。しかしそのように神が言われるのは、神が私たちの不安や恐れに関心を持っていないからではありません。そのような不安や恐れはたいしたことない、と言われているのでもありません。神は私たちの不安や恐れを私たち以上に知っていてくださいます。だからこそ神は私たちに「わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」(8節)という約束を与えてくださっているのです。私たちが遣わされた先で何を語ったら良いか、どうしたら良いか分からなくても、「わたしはあなたの口に わたしの言葉を授ける」(9節)と約束してくださっているのです。主によって遣わされる私たちは自分の不安や恐れを見つめるのではなく、この神様の約束を見つめていきたいのです。神に全幅の信頼を寄せ、そのご支配を信じて遣わされる歩みは、私たちが自分の力で自分の不安や恐れを押し殺す歩みではありません。なお不安や恐れを抱えていたとしても、神が与えてくださっている約束にこそ目を向け、私たちを愛し、必ず救い出してくださる神に支えられて、私たちは遣わされたところで神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせていくのです。主によって遣わされ、主によって支えられて、神のご支配を信じて生きることの本当の慰めと喜びを証ししていくのです。 祈ります。