イエスは何者か
ルカによる福音書は、これまで「イエスは何者か」という問いを人々が抱いてきたことを語ってきました。主イエスが神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながらガリラヤの町々村々を巡っているという噂を聞いたガリラヤの領主ヘロデは「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」(9:9)と言いました。そして主イエスに従い共にいた十二人の弟子たちも「イエスは何者か」という問いに直面していったのです。前回お話ししたように、主イエスは弟子たちが持っていた五つのパンと二匹の魚を用いて、男だけで五千人もの多くの人たちを養われました。このみ業を目撃した弟子たちは「イエスは何者か」という問いの答えへと導かれていきます。
主イエスに従い共に歩む中で
この「イエスは何者か」という問いは、私たちの問いでもあります。私たちは色々なきっかけを通して主イエスに出会い、「イエスは何者か」という問いを抱きます。しかし、主イエスについての情報を得たり、知識を増やしたりすることによって「イエスは何者か」という問いが深まるわけでもなければ、ましてその問いへの答えが与えられていくわけでもありません。距離を取って眺めているだけでは、主イエスが何者かは分からないということです。弟子たちのように主イエスに従い共に歩む中でこそ「イエスは何者だろう」という問いが深まり、その答えへと導かれていくのです。その歩みの中で、私たちは主イエスのお言葉を聞き、そのみ業を体験します。距離を取って眺めて情報や知識を得るのではなく、主イエスと共に生きる中で私たちは驚くべき主イエスのみ業を経験し、「イエスは何者か」を知らされていくのです。私たちの信仰の歩みは、主イエスの恵みのみ業を体験するたびに、主イエスをより深く知らされていく歩みなのです。
主イエスからの問い
今朝の箇所、18節以下には、弟子たちが、「主イエスとは何者か」という問いを、主イエスご自身から問われたことが語られています。主客が逆転して、私たちが主イエスから「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問われるのです。主イエスからのこの問いを意識することが、信仰への大きな一歩です。そしてこの問いにどう答えるかが信仰の決断です。弟子たちはここでまさにその信仰の決断を求められたのです。
「わたしを何者だと言うのか」とお問いになったことにはもう一つの意味があります。それは、私たちが主イエスからこのことを問われる時、「他の人はこう言っています」とか「世間ではこう言われています」などという答えで逃げることはできない、ということです。私たち一人一人が、自分自身の答えを、この私は主イエスのことを何者だと言うのか、という答えを求められるのです。つまり主イエスと私たちとの一対一の関係が問われるのです。信仰というのはそのようにあくまでも私と主イエスとの一対一の関係において成り立つものです。主イエスの問いに、私たちも自らの実存をかけて答えていかなければなりません。
神のキリスト
「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いに、ペトロは「神からのメシアです」と答えました。「メシア」は旧約聖書が書かれたヘブライ語で「油注がれた者」を意味します。旧約聖書において、王が即位するときや、祭司が立てられるときに油が注がれました(サムエル記上16:13など)。そのため油を注がれた王や祭司が、「油注がれた者=メシア」と呼ばれたのです
新共同訳は「神からのメシア」と訳していますが、ギリシャ語で書かれた原文を直訳すれば「神のキリスト」となります。新共同訳は不思議なことに、ギリシャ語の「キリスト(クリストス)」を、わざわざヘブライ語を使って「メシア」と訳しているのです。また新共同訳は原文の「神の」を「神からの」と訳していますが、このように訳すと「神から遣わされたキリスト」と読めますそれだけを強調すると、主イエスは神から遣わされた預言者の一人に受けとめられかねません。しかしここでペトロが告白しているのは、主イエスは神が油を注いだ方である、神ご自身が油を注いで立てた方である、ということです。ですから「神からのメシア」と訳すのではなく、「神のキリスト」と訳すほうが良いと思います。口語訳はそのように訳していました。聖書協会共同訳は「神のメシア」と訳していて、新共同訳の「神からの」は「神の」に変わりましたが、「メシア」の方は変わっていません。いずれにしてもここでペトロは「あなたは、神のキリスト、神が油を注がれたお方です」と告白しているのです。それは、「あなたは、神ご自身が立てた救い主です」と告白していることにほかなりません。ペトロが告白したこの信仰こそ私たちの信仰です。私たちは主イエスに従い共に歩む中で、ペトロと同じようにこの信仰の告白へと導かれます。「イエスはキリストである」、「イエスは救い主である」というのが私たちの信仰なのです。だから私たちはイエス・キリストと言うたびに、「イエスはキリストである」、「イエスは救い主である」という信仰を告白していることになります。「イエス・キリスト」と言うことそれ自体が、最も簡潔な信仰告白なのです。このことを心に留めつつ、「主イエスは救い主」と告白できる恵みに感謝していきたいのです。
受難予告
21節以下には、主イエスが弟子たちに、「このことをだれにも話さないように」とお命じになったことが語られています。「このこと」とは、「主イエスとは何者か」という問いの答え、主イエスは神のキリスト、救い主であられることです。そして次の22節には、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」という、いわゆる受難の予告が語られています。「人の子」とは主イエスがご自分のことを語られるお言葉です。神のキリスト、救い主であられる主イエスが、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される、そして三日目に復活すると言っておられるのです。「主イエスが神のキリスト、救い主であることは、神のご意志によるこの受難と復活によって実現するのです。ペトロは弟子たちを代表して、「主イエスこそ神のキリスト、救い主です」という信仰告白をしました。それは主イエスとは何者かという問いの正しい答えです。しかし、十分な答えではないのです。神のキリスト、救い主としてのみ業がどのようにしてなされるのか、そこまでを知らなければ、主イエスとは何者かを正しく知ったことにはなりません。主イエスは、私たちのために多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することによって、救いを実現して下さる方なのです。主イエスが神のキリストであることが分かるとは、このことが分かることなのです。主イエスがご自分こそ神のキリストであることを誰にも話すなとお命じになったのは、そのキリストが苦しみを受け、排斥されて殺されるということを伴わずに「神のキリスト」ということだけが伝わっていくと、人々が主イエスのことをかえって全く誤解してしまうことになるからです。
十字架を背負って従う
今朝の箇所のペトロの信仰告白も、主イエスの受難予告も、「主イエスとは何者か」という問いを軸にして語られていることを見てきました。23節以下もそうです。23節には「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とあります。主イエスに従う者、弟子、信仰者として生きるための心構えを教えているお言葉です。それを18節以下の文脈の中で読むならば、主イエスご自身から「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問われ、「あなたこそ神のキリスト、救い主です」と告白した者は、その救い主イエスに従い、その後について行く者となる、ということです。主イエスは、多くの苦しみを受け、排斥され、殺されることによって救い主として歩まれた。その主イエスを知った私たちは、主イエスの後について、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従っていくのです。
自分の命を救うために
それは大変なことだ、そんなこととても出来そうにない、と私たちは思います。けれども主イエスは24節で「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言っておられます。つまり自分を捨て、十字架を背負って主イエスに従うことは、本当の意味で自分の命を救うことなのです。なぜならば、この主イエスに従って共に歩むところでこそ、私たちの全ての罪を引き受けて下さった救い主と出会い、その救い主が私たちを愛していて下さり、私たちのためにとりなし祈っていて下さることを知ることができるからです。そして主イエスとは何者かを知ることによって、本当の自分として新しく生き始めることができるのです。今朝の箇所に即して言えば、自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従っていくことの中でこそ、救い主を知ることができるのです。この救い主を知ることによって私たちは、本当の自分を見出して新しく生き始めることができるのです。本当の自分を見出すとは、主イエスの十字架の死によって自分の罪が赦されていることを知り、主イエスの復活によって自分にも死に勝利する新しい命の約束が与えられていることを知ることです。この、神の恵みによって生かされる新しい命を得ることは、自分で自分の命を救おうとしている間はできません。私たちのために十字架を背負い、苦しみを受けて死んで下さり、そして父なる神によって復活の命を与えられた主イエス・キリストに従っていくことの中でこそそれは与えられるのです。この新しい命を得ることは、全世界を手に入れるよりも価値があると言っているのです。
日々、自分の十字架を背負って
「十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われると、主イエスがローマ帝国の十字架刑で処刑されたように、殉教の死を覚悟して主イエスに従うよう命じられているように思えます。しかしそのような極端な状況だけが見つめられているのではありません。「日々、自分の十字架を背負って」と言われていることに、私たちは注目したいのです。私たちキリスト者は、日々の生活の中で、この世の基準によって、この世の当たり前によって斥けられることがあります。とりわけキリスト者が圧倒的に少ない私たちの社会においては、しばしばそのようなことが起こるのです。日々の生活の中で、世の中の人々から誤解されたり、価値がないと思われたり、斥けられたり、奇異の目で見られたり、ときには憎まれたりします。それらすべてのことが、「日々、自分の十字架を背負う」ということにほかならないのです。「主イエスはキリスト」、「主イエスは救い主」と信じる私たちキリスト者は、主イエスがこの世から斥けられ価値がないと思われたように、日々の歩みの中でキリスト者故の苦しみを味わいます。しかしその歩みに主イエスは共にいてくださり、私たちは主イエスの苦しみを僅かばかり担うことにおいて、主イエスの救いの恵みを豊かに受けていくのです。
ところで、多くの人は、十字架を自分の人生で背負っている重荷、つまり緊張した人間関係、感謝されない仕事、肉体的病気などと解釈しています。私たちは、少し深くお付き合いすると、誰にも悩みがあることに気が付きます。この人にこんな悩みがあったとは知らなかったと思うことはよくあります。どの家庭にもあるものです。それは自分の人生で背負っている重荷と考えます。パウロにもそれはありました。日々悩まされる持病がありました。またキリスト者を迫害した過去もありました。しかしパウロはそれを感謝に換えているのです。人々は言います。「それは私が背負わなければならない十字架です。」と。 そのような解釈は、主イエスが「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい。」と言われた意味ではありません。主イエスがゴルゴタの丘で十字架につけられるために十字架を負って行かれたとき、十字架が人類が負う重荷の象徴だとは誰も思いませんでした。一世紀の人にとって、十字架は、唯一、一つの意味しかありませんでした。最も苦しい屈辱的な、人間が発明した残虐な死刑方法による死という意味でした。しかし、二千年のちに、クリスチャンは十字架を贖い、赦し、恵みと愛の貴重な象徴として見ています。しかし、イエスの時代には、十字架は拷問の死以外の何も代表していませんでした。 ローマは有罪になった犯罪人に十字架刑の場所まで十字架を背負っていくのを強制していたからです。 十字架を負うということは、自分の処刑の道具を背負って、死に行く道のりの途中、あざけりを 浴びながら行くという意味でした。だから、「自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。」というのは、主イエスに従うためには死をもいとわないという意味なのです。主イエスは十字架を負うことを命令された後、言われました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」(ルカ9:24-25)この召命は難しいことですが、その報酬は他に類のない喜びとなるのです。
神の国を見る
27節には「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」とあります。あなたがたの中には、生きている間に神の国を見ることができる者がいる、という主イエスの約束、祝福の言葉です。これは通常、弟子たちが生きている間にも主イエスの再臨による世の終わりが来て、神の国が完成すると考えられていたことの現れとして読まれます。しかし必ずしもそう読まなくてもよいのです。私たちだって、生きて神の国を見ることができます。自分の思いを実現することによって命を得ようとする思いを捨て、日々自分の十字架を背負って、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスに従って生きる中で、私たちは、主イエスの十字架と復活によって実現している神の恵みのご支配、神の国を確かに見るのです。共にあずかる聖餐も、私たちがこの世の歩みの中で神の国を垣間見、その恵みを味わう一時です。「あなたは私を何者だと言うのか」と問いかけることによって「あなたこそ神のキリスト、救い主です」という信仰告白へと私たちを導き、自分の十字架を背負って従う者として下さる主イエスは、御言葉と聖餐の恵みによって常に私たちを養い、神の国を望み見つつ生きる者として下さるのです。