はじめに
今朝は、アドベントの第二主日の礼拝です。あと二週間でクリスマス礼拝ですが、今年もクリスマスキャロリングを大磯駅前で歌うべく、練習しています。賛美歌は神を賛美する歌で、いろいろなジャンルの歌が入っていますが、神を大きくして、自分を小さくして賛美するのが目的です。しかし、なかなか自分のパートを覚えるのが大変で、歌詞をゆっくりと味わって歌うまでいっていません。本番までにもう少し練習したいと思っています。しかし、22日のクリスマスキャロリング当日だけでも、できるだけ多くの人に参加していただいて、救い主の誕生、そして世界の平和を祈り、賛美の歌声で満たしたいと思っています。今朝のみ言葉、まずヨハネの黙示録3章20節のみ言葉から主のメッセージを聴いてゆきましょう。
ラオデキヤの教会への忠告
ヨハネの黙示録は、紀元一世紀の後半が舞台です、当時、キリスト者は激しい迫害を受けていました。教会の指導者であった、この黙示録の著者ヨハネも、地中海のパトモス島に流刑になりました。このヨハネは主イエスの弟子のヨハネでも洗礼者ヨハネでもないと言われます。今でいえば牧師か指導的長老であったかもしれません。黙示録と言う意味は、神が特定の人に秘密を明らかにした。つまり「予言」という意味合いです。神はその地でそのヨハネに、これから起こる出来事を幻によって教えてくださったのです。今は苦しい目に会っていても必ず報われる時が来る、もはや、死も悲しみもない新天新地が来る、と慰めてくださったのでした。このことを、現在のトルコの位置になりますが、小アジアのキリスト者に知らせようと書かれたのがヨハネの黙示録です。ヨハネはアジア州にある七つの教会へ手紙というかメッセージを書いているのですが、その中のラオデキヤという教会にあてて書いた手紙の中の1節がこの言葉です。
20見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者
があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をす
るであろう。
ここで語っている「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」という言葉は、これはラオデキヤの教会への忠告なのです。キリストから与えられた、宣べ伝えるべき御国の福音から離れたことを悔い改めなさい、という忠告です。多くの学者は、ラオデキアには清潔な水がなく、近くの温泉から水を引く必要があったことを指摘します。しかし、その水は市内に届いた時にはすでに、汚染され、ぬるくなり、使い物にならなくなっていたことが多かったのです。主イエスは、ラオデキヤの教会の霊的な状態を、生ぬるい水を飲むという不快な体験と結びつけておられるようです。ラオデキヤの教会が自分たちの飲み水を吐き出すことがあったように、主イエスもまた、ラオデキヤの教会の行いが御国にとって役に立たないので、吐き出すと宣言しておられるのです。この文脈の中で、主イエスは教会を厳しく警告されます。「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている」。この「たたいている」は、どっちつかずで生ぬるい教会、使命を忘れてしまった教会に対する訓戒とさばきです。しかし、教会が悔い改めるために戸を開くなら、主イエスは入って彼らとともに食事をし、彼らは主イエスが共におられることを喜ぶ、と言っているのです。西洋絵画には「扉をたたくイエス」の絵が多くあります。ホルマン・ハントという画家の「真夜中の友人」という絵には、扉の外で執拗に懇願している男性の様子が描かれています。主イエス自身が戸をたたいている絵です。
この警告は、今日の教会にも当てはまります。主イエスのいのちと死と復活のメッセージを捨てて、自分たちの能力に自信を持つようになったら、もはや真の教会として機能しなくなり、主イエスに退けられる危険性があります。いくら立派な教会堂を建てても、いくら教会に人を集めても、十字架の主の救いを語らなければ、意味はないのです。教会は、失われている世界に和解と解放の務めを宣べ伝えるために存在していることを忘れてはならないのです。
主イエスが私たちを待っておられる
アドベントは、救い主を待ち、救いを待っている時です。しかし、この「待つ」ということを百八十度回転して理解してみたらどうなるか。つまり、私たちが待っているのではなく、少なくともそれだけではない。そうではなく、もっと深い意味において、私たちを待っている方がおられる。つまり、私たちこそ待たれているのではないか。ということです。聖書は「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている」と言っています。主イエスは私たちを待っておられるというのです。応えるのは私たちの方なのです。主は、もう戸をたたき始めているのです。ごく近くで私たちを待っているのです。そして私たちは主が来られるのを待たなければなりません。主は私たちと共にあろうとしてくださるのです。アドベントはアドベンチュアつまり冒険に通じると言われます。主は危険な冒険を冒してやって来られたのです。そして私たちが、心の戸を開け、信仰の戸を開ければ、「食事を共にする」と言われています。それは神の国の食事です。私たちが礼拝の中で祝う聖餐は、このキリストとの食事を指し示しています。そういう主なる神との交わりの時、共にする喜びの食事があるというのです。主は私たちと共にあることで、「生きよ」と言ってくださるのです。喜んで生きよ、と。そして主によって生きていく力が与えられるのです。キリストが戸をたたいてくださるのは、そのような意味で、私たちと共にあるためであり、そして私たちを健やかに生かしてくださるためです。
戸を開くことができない
ところで、人間はなぜ戸を閉ざすのでしょう。自分の外に心を開こうとしないのはなぜでしょうか。自己中心的な存在だからです。宗教改革者ルターは「罪」について、「自分の中へと折れ曲がること」「自分の中へとカーブすること」だと言っています。何をするのも自分のため、自分だけのためという姿勢に折れ曲がるのです。自分が主になる、そして結果的に孤独になるのです。なぜ、いじめが起きるのでしょうか。だれにでもある問題、罪というしかない問題があるのではないでしょうか。人間には生活全体、習慣、からだ全体にしみついているものがあるのです。自己中心性を抜け出して戸を開くことができないのです。心を許せない。他者を迎えられないのです。しかし、もしキリストに私たちの戸を開き、中に入っていただくことができれば、私たちは他者にも戸を開けることができるのではないでしょうか。主に向かって閉じて生きるのか、それとも私たちの生涯を通して、主の問いかけに応え、心と生活を開いて生きるかです。あらゆる瞬間は、主と共に、主のために生きることのできる瞬間です。
ザカリアの賛歌
さて、今朝私たちに与えられた新約聖書はもう一か所あります。ルカによる福音書1章67~79節までです。ザカリアの賛歌です。67節以下は、ザカリアが口を開いて語った、神を賛美する歌です。46節以下の「マリアの賛歌」と並んで、ルカによる福音書の第1章には二つの賛美の歌が歌われているのです。マリアの賛歌がその冒頭の「あがめ」という言葉のラテン語訳から「マグニフィカート」と呼ばれているように、このザカリアの賛歌も冒頭の「ほめたたえよ」のラテン語である「ベネディクトゥス」という呼び方で親しまれています。その内容を見ていきましょう。
ヨハネの誕生は、67節以下のザカリアの賛歌でイスラエルの民全体に起こった出来事として語られているのです。ザカリアの賛歌は、ヨハネの誕生をイスラエルの歴史と結びつけイスラエルの民の救いを語ります。それは、もう子どもが与えられないと思っていた父親が、神さまのみ業によって自分に子どもが与えられたことを感謝している歌ではありません。またわが子洗礼者ヨハネについて語っている歌でもありません。そうではなくザカリアの賛歌は、主イエスとイエスの救いについて、そして私たちの救いについて語っているのです。その中で、洗礼者ヨハネも位置づけられているのです。ザカリアは、アブラハムとの誓いを主が覚えていてくださり、その約束がすでに実現したと神を賛美しています。私たちは神の恵み深さを告げられた者として、ザカリアと共にこの賛美へと導かれているのです。
生涯、主に仕える
74、75節では、救われた者の歩みが語られています。救われた者は「恐れなく主に仕える」のです。「仕える」とは「礼拝する」ことをも意味します。私たちは罪に囚われていたとき恐れずに主を礼拝することはできませんでした。しかし今や救われた者として恐れず主を礼拝することができるのです。それは生涯に渡ることです。「生涯」とは、直訳すれば「私たちの一日一日のすべて」となります。私たちは救われた者として、一日一日のすべてにおいて主を礼拝し、主に仕えるのです。
罪の赦しによる救い
76、77節で語られているのは、66節の生まれてくる子どもに対する「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」という問いへの答えであると言えます。つまり洗礼者ヨハネはどんな人になるのかが語られているのです。彼は、いと高き方の預言者と呼ばれ、主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせます。その中心は、彼が主の民に罪の赦しによる救いを知らせることにあります。しかしヨハネは、罪の赦しによる救いを実現するのではありません。彼は、主イエス・キリストこそ罪の赦しの救いを実現される方であることを人々に知らせるのであり、指し示すのです。66節の終りに「この子には主の力が及んでいたのである」とあります。直訳すれば「主の手が彼と共にあった」となります。「主の手が共にある」とは「主の力が共にある」ことです。ヨハネという名は主が恵み深いことを意味しました。つまり主が恵み深いとは主の力が共にあることにほかならないのです。洗礼者ヨハネは、主の力が共にあって、主が恵み深いことを指し示していくのです。
あけぼのの光
78節で、神の憐れみによって「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」とあります。主が私たちのところに来てくださったように、あけぼのの光も私たちのところに来てくださいます。私たちがなにかしたからあけぼのの光が私たちを訪れるのではありません。ただ神の憐れみによって私たちを訪れてくださるのです。その光が、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」のです。ザカリアは、自分は余りにも年を取りすぎているというあきらめと絶望の中にあったに違いありません。そのような暗闇をあけぼのの光が照らしたのです。私たちもどこかで諦めてはいないでしょうか。悩み苦しみ悲しみにぶつかる度に、主が恵み深いことを忘れるどころか、諦めてしまっているのではないでしょうか。主が、今も生きて私たちに働かれていることを、私たちの世界に働かれていることを諦めてしまっているのです。そこに絶望があり、暗闇があり、死の陰があります。神はそのような私たちの現実の只中にあけぼのの光として独り子主イエス・キリストを送ってくださったのです。この主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちは死に打ち勝つ希望が与えられ、永遠に生きる者とされているのです。あけぼのの光に照らされて、暗闇と死の陰にうずくまっていた私たちがその希望によって立ち上がるのです。その希望の内に生きることによって、私たちの歩みは平和の道へと導かれます。私たちが生きる社会は、たとえ夜中であっても多くの光に囲まれています。コンビニの光、ネオンの光などです。しかしそれらの明るすぎるほどの光は、絶望と暗闇と死の陰にうずくまっている私たちを救うことは決してありません。それどころか、これらの光は私たちの暗闇をより深くより濃くするのです。ただ神が与えてくださったあけぼのの光のみが私たちに希望を与えるのです。神の独り子主イエス・キリストのみが私たちの希望です。私たちはあけぼのの光に照らされて、たとえ苦しみ悩み悲しみが消えることがないとしても、主にある平安の道へと導かれていくのです。祈ります。