12/15説教「マリアの賛歌」

深い淵の底から
今朝、アドヴェント第3主日の礼拝に、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉は、詩編130編です。この詩編は、キリスト教の伝統の中で懺悔の詩編として用いられてきました。讃美歌21には、この詩編130編を歌っている2つの賛美歌が収録されています。22番と160番の讃美歌で、共にマルティン・ルターの作詞で、異なる旋律をつけて2曲収録されています。「深き悩みより」という題名の曲です。歌詞は、ほとんど詩編130編の詩を歌っています。ルターと言えば、宗教改革を始めた人です。ドイツ東部アイスレーベンに炭鉱夫の子として生まれ、アウグスティヌス派の修道士になり、ヴイッテンベルク大学神学部教授になりますが、カトリックの教義に疑問を抱き、有名な「95か条の提題」を掲げ、宗教改革ののろしをあげました。彼は礼拝の改革を行い、聖書のみ、信仰のみ、万人祭司、ということを掲げ、宗教改革を進めました。そして、はじめて聖書をドイツ語に翻訳し、また会衆の賛美のための歌であるコラールを生み出した人です。
この詩編130編を書いた詩人については、どのような人であったかは、分かりません。しかし、感受性豊かで誠実な言葉、それに罪と恵みの本質についての最も深い理解とを合わせ持った詩と言っていいと思います。ルターは確かな宗教的感受性をもって、この詩の中に新約聖書の敬虔の精神に近いものを認め、この詩を讃美歌に取り入れたのです。詩編130編1~6節はこの詩人の叫びのようであるのに対して、7節以下はイスラエル全体に対し、神に信頼するようにと歌っています。この詩の全体の調子は罪に対する神の厳しい審判というよりは、むしろその寛大な赦しが強く出ており、そこからくる希望が強調されています。1節の「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」という表現は、海の深み、あるいは、底の知れないほど深い淵の中からの叫びのように思われます。この詩人にとってその苦悩は罪の不安であるのか、あるいは救いのない病気であるのかは分かりませんが、底知れぬ淵の中から詩人を救い出す者は、ただ神のみであることを詩人は知っているのです。それゆえ詩人は 
「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」(2節)
と歌うのです。
「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。」(3節)
「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。」(4節)と歌っています。
外部からの悩みや困難も苦しいけれども、心の中の罪の悩みはもっと苦しく、深い淵の底から攻めるのです。あなたが罪をすべて心に留められるならば、とても耐えられません。わたしの罪を赦し給うのは主なる神しかいないのです。あなたを畏れ敬います。とこの詩人は歌うのです。
5節から後半は、希望です。この詩人は神がその御言葉に従い、救いを与えてくださるように、希望と期待をもって待つと歌っています。「見張りが朝を待つにもまして」と繰り返し歌っているのが、切実に朝を待ち望む思いが伝わってきます。見張りの兵隊ということでしょうが、寒い夜、警備の緊張から早く解放されたいという心情かもしれません。
この詩編は、苦しむ者たちに救いをもたらす神の審判を歌っているのです。 教会では、昔から、終末を語る詩編として、このアドヴェントに読まれる御言葉として読まれてきました。アドヴェントのこの時期に、馬小屋に生まれ、最も低いところに来られ、貧しい者、弱い者の立場に常におられた救い主イエスをあらためて覚える時であり、二千年前のキリストの誕生にもう一度私たちの思いを向ける、他には変えがたい時です。そして、それはまた、やがて終わりの日に再びおいでになる再臨のキリストに、希望をいただき、私たちの思いをはっきりと向けるかけがえのない時なのです。

神を大きくする
そして、今朝、私たちに与えられた新約聖書のみ言葉は、ルカによる福音書1章39節から56節までです。後半はマグニフィカートと言われるマリアの賛歌が歌われています。
マリアの賛歌は、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」という言葉で始まります。「あがめる」とは、大きくするという意味です。神を大きくして、自分を小さくすることです。そして、マグニフィカートというラテン語の言葉は、「大きくする」という意味です。相手を大きくするというという言葉です。神をあがめるというのは、神を大きくするということです。自分が大きいと傲慢になります。物質的なものが大きいと無駄使いします。他人が大きいと劣等感に陥ります。私たちの中で、救い主なる神が大きければ、これらすべてのことから自由になれます。「神を喜びたたえる」ことは、特別な大喜び、歓喜です。この歌でマリアは、身分の低いはしために神が恩恵を与えてくださったことをほめたたえていますが、神は、貧しい者や弱い者、世に圧迫されている者に、これから行うことを先取りしてそのモデルを示しているのです。

エリサベト訪問の意味
39節に「急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とあります。マリアが住んでいるのはガリラヤの町ナザレです。ザカリアとエリサベト夫妻の住む「ユダの町」がどこなのかは分かりません。しかしザカリアはエルサレム神殿の祭司なのですから、エルサレムからそんなに離れた所ではなかったでしょう。ガリラヤのナザレからユダのエルサレムの近くまでというのは、聖書の付録の地図を見ていただけば分かりますが結構な距離です。ちょっとそこまで、というわけにはいきません。急いでも数日はかかるのです。当時の旅には危険がつきものです。しかもマリアは14歳ぐらいの若い女性です。それでもマリアは出かけたのです。マリアはなぜそんなに急いでエリサベトに会いに行ったのでしょうか。その気持ちは想像してみることができます。マリアはある日突然神に選ばれ、とてつもなく大きな使命を与えられたのです。神の子と呼ばれる救い主イエスの母となる、という使命です。しかもそれはヨセフと結婚することによってではなくて、聖霊の力によって、まだ一緒になる前に妊娠するということでした。神はとんでもないことを彼女に求めてこられたのです。しかし彼女はそれを受け入れました。「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。それは大変な信仰の決断です。それはもちろん神の導きによってできたことですが、彼女がその決意をするための一つの支えとなったのが、天使が語った、親類であるエリサベトのことでした。不妊の女と言われて年をとっていたエリサベトが、神の力によって子供を与えられたのです。神はそのように、人間の常識や力を超えて働き、恵みのみ業を行って下さる、その神の力の目に見える印として、エリサベトのことが示されたのです。マリアが、そのエリサベトと直接会って、神の力あるみ業をこの目で見て確認したいと思ったのは当然のことでしょう。また、エリサベトは、神のみ心によって子供を授かり、今その子をお腹の中に宿しています。マリアがこれから体験しようとしていることを、一足先に体験しているのです。神に選ばれ、み業のために用いられている信仰の先輩です。その人と直接合って話がしたい、同じように神に白羽の矢を立てられ、子供を産もうとしている者どうし、語り合いたいと思うのも当然のことです。マリアはそのような思いで、エリサベトのもとに急いで出かけて行ったのです。

マリアとエリサベトの信仰
このようにエリサベトは、マリアの胎内に宿っている子のゆえにマリアに敬意を表していますが、45節においては、マリア自身の信仰が見つめられています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。マリアは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」のです。それが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉の意味でした。神がお語りになった恵みのみ言葉は必ず実現する、たとえそれが人間の常識や理解を超えたものであっても、神の力によってそれは必ず現実となるのだと信じたゆえに、マリアはあのように言ったのです。マリアが祝福された者、幸いな者であるのは、この信仰によってです。エリサベトはこのマリアの信仰を称えているのです。

マリアの賛歌
46節以下に語られているいわゆる「マリアの賛歌」は、このエリサベトの「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」という言葉を受けて語られているものです。「あなたは幸いな人です」と告げられたマリアが、それを受け止め、「そうです、私は幸いな者です」と歌っているのです。マリアは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌い出しました。「あがめる」という言葉が冒頭に来ていて、それはラテン語で「マグニフィカート」という言葉だと言いました。この「マグニフィカート」という意味は「大きくする」です。「主を大きくする」それが「主をあがめる」の意味なのです。「主を大きくする」それは、自分を小さくする、ないしは自分の小ささを認める、ということです。自分を大きくし、自分の大きさを主張している間は、主を大きくすることはできません。神をあがめるためには、自分の小ささを認めてへりくだることが必要なのです。マリア自身がそれをしていることが、48節の「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」という言葉に現れています。マリアは自分のことを「身分の低い主のはしため」と呼んでいるのです。
神を大きくする、ほめたたえることは、社会的地位の如何にかかわらず、自分自身をこのように神の僕として位置づけることと言えます。
しかしマリアはここで、自分は神のはしためです、とへりくだっているだけではありません。その自分に主が「目を留め」て下さったのです。49節の言葉で言えば、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」ということです。神のみ前で低い者、卑しいはしためでしかない自分が、神に選ばれ、その偉大な力によって用いられて、神の恵みのみ業を担う者とされたのです。マリアはそこに自分の幸いを見ています。このことのゆえに、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と言っているのです。つまりマリアが幸いな者であるのは、神のみ前で卑しい、ちっぽけな者でしかない自分に主が目を留めて下さり、つまり選んで下さって、そのみ力によって偉大なことをして下さり、み業のために用いて下さったからなのです。この幸いのゆえに、彼女は神をあがめ、大きくしているのです。

神を喜ぶ
「わたしの魂は主をあがめ」と並んで、「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」とあります。主なる神をあがめ、大きくすることは、救い主である神を喜びたたえることでもあるのです。信仰に生きることは、神を喜ぶ喜びに生きるということなのです。この喜びは、先ほどの「幸い」と結びついています。卑しい、ちっぽけな者でしかない自分に神が目を留めて下さり、そのみ力によって偉大なことをして下さり、み業のために用いて下さる、マリアはその幸いを味わっていたからこそ、「私の霊は救い主である神を喜びます」と歌ったのです。神を喜ぶというのは、神を自分の好きなように利用して楽しむことではありません。自分が神の主人になるのではなくて、神の僕、はしためとなって、み業のために用いていただくことにこそ本当の幸いが、そして喜びがあるのです。自分を小さくして神を大きくする喜びと言ってもよいでしょう。それゆえに、「わたしの魂は主をあがめ」と、「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」とが並んで理由なのです。

私たちも「幸いな者」に
さてマリアはこのように、取るに足りないちっぽけな者である自分に神が目を留めて、恵みのみ業のために用いて下さることを喜び、自分が幸いな者であることを感謝して、神をあがめ、ほめたたえていますが、彼女が歌っているのはその自分の幸いだけではありません。自分に与えられた幸いが、これからも、神を信じて生きる多くの人々に与えられていくことを語っているのです。「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」というのも、マリアのことが「幸いな者」として記憶されるというだけではなくて、今から後、いつの世にも「幸いな者」が現れる、その人々が、自分たちが受けている幸い、喜びに最初にあずかった人としてマリアのことを思い起こしていく、ということでしょう。つまり私たちが、マリアと共に幸いな者となるのです。マリアの賛歌を読むことの意味はそこにあります。マリアの信仰に感心しているだけでは意味がないのです。私たち一人一人も、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌いつつ生きる者となることが、この賛歌が歌われた目的なのです。

神の憐れみ
つまり、幸いな者として生きるとは、神の憐れみによって生かされる者となることです。「神の憐れみ」こそが、マリアの賛歌の基本的なメロディーです。50節には「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とあり、54節にも「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」とあります。そして55節には、この憐れみが、イスラエルの民の最初の先祖アブラハムに与えられた神の約束に基づくものであることが語られています。神がその僕イスラエルを受け入れて憐れみによって生かし、導いて下さるのは、神がアブラハムとその子孫に与えて下さった約束に忠実であって下さるからなのです。神の憐れみは人間の罪や悲惨さに対する単なる同情ではありません。それは神の約束に基づくものです。神はこの憐れみの約束を果たすために、独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしになられたのです。マリアはその神の憐れみの約束の実現のために選ばれ、用いられたのです。そこに彼女の幸いがありました。私たちも、主イエス・キリストによって実現した神の憐れみのみ心によって生かされ、そのみ心のために用いられていくことによって、「幸いな者」となるのです。祈ります。

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