1/12説教「不信仰で無力な弟子」

はじめに
2025年が始まりました。今年は大磯教会として多くの行事や課題があり、にぎやかで忙しく、しかし明るい展望が見える一年ではないかと思います。念願の牧師館建築も先週、起工式が行われ、工事足場も設置され、いよいよ工事が開始されたことが実感として分かります。工事は二階建ての牧師館が出来るだけでなく、教会の事務室兼応接室も出来、礼拝堂の外壁と屋根の塗装も行います。海に向って二階建ての住いをもったノアの箱舟のような外観のきれいな建物になります。したがって、5月までの5か月間、いろいろ不便なこともあるかもしれません。集会室の一部を区切って牧師室を設けましたので、集会室が少し狭くなります。また教会への出入り口は玄関一か所になります。しかし、礼拝や諸集会を開くのに支障はないと思います。そしてまた教会の規則作成などの整備を進めます。どのようなことがあっても、どのような時代の変化、状況の変化があっても、主の教会は常に礼拝を捧げ、祈り、地域における宣教の拠点として変わることはありません。125年の大磯教会の信仰の歴史がそれを証明しています。そして礼拝説教の聖書箇所は今年も引き続きルカによる福音書の連続講解説教を基本として御言葉の説き明かしをして行きたいと思います。それでは早速、ルカによる福音書9章37節から45節の個所から御言葉の恵みに与りましょう。
「二つの話しのコントラスト」
イタリア、ルネサンスの巨匠、ラファエロ・サンテによる最後の絵画に「キリストの変容」という作品があります。ルカによる福音書9章の二つの場面が作品の上部と下部に描かれている大作です。作品上部には、イエス・キリストを中心にモーセとエリヤが空中に舞って光を放っており、そしてペトロ、ヨハネ、ヤコブの弟子たちが光輝くイエス・キリストにひれ伏している。そういう構図の絵が描かれています。つまり今日の聖書箇所のすぐ前の18節から36節の場面です。そして作品下部では、今朝の個所です。悪霊に取りつかれて体をねじっている少年が描かれ、山上にいるペトロたち3人の弟子たちを除いた9人の弟子たちが少年を救おうとしている構図の絵が描かれています。そして弟子たちが手を挙げている先はイエス・キリストに向いています。非常に鮮やかなこのラファエロの絵は、山の上の平和と栄光、そして山の下の苦悩と失敗が対照的に描かれているのです。ラファエロの最後の作品だそうです。
山上の変貌と今朝の聖書箇所である子供の癒しの話はいろいろな点で対照的です。変貌の話は「山の上」でのことです。それに対して子供の癒しはその山を下りてきた麓での出来事です。また山上の変貌の場にいたのはペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちのみです。しかしその山を下りてきてみると、37節にあるように「大勢の群衆がイエスを出迎えた」のです。その群衆たちの中で、子供の癒しは行なわれたのです。つまり山上の変貌においては、主イエスの栄光とそれを示された弟子たちの喜び、感動が語られていたのに対して、その山を下りてきたところで彼らが直面した事態は何だったか。一人の男が群衆の中から主イエスに声をかけ、自分の一人息子を癒して下さいと願ったのです。この子の病は悪霊に取りつかれることによって起るものでした。悪霊が取りつくと、その子は突然叫び出し、けいれんを起し、その場に倒れて引きつけを起こすのです。この子の父親が、主イエスの弟子たちに、この子から悪霊を追い出して下さるように頼んだけれども、弟子たちは誰も悪霊を追い出すことができなかった、と語りました。つまり山の麓で起っていたことは、主イエスの弟子たちの無力さが露呈されるという出来事であり、彼らの先生である主イエスご自身の評判をもおとしめ、その権威を失墜させるような事態だったのです。山の上の栄光と、山の麓でのこの醜態、無力さこそ、この二つの話の最も際立ったコントラストなのです。
悪霊を追い出せない弟子たち
それでは、この時、9人の弟子たちはなぜこの男の息子に取りつく悪霊を追い出すことができなかったのでしょうか。その答えは主イエスの言葉にあります。41節の主イエスの言葉を読みましょう。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」。この主イエスの言葉から、主がすでに十字架にかかることを間近に感じておられることが分かります。主イエスは弟子たちと3年間一緒に生活して来ました。いよいよ十字架に掛けられる時が近づいていましたが、弟子たちの主イエスに対する信仰はまだまったく不完全なものでした。弟子たちと別れる時が近づいていたので、主イエスは、弟子たちをしっかり訓練しなければならないと考えておられたに違いないのです。しかし弟子たちの不信仰が、彼らを無力にしていました。マタイによる福音書によれば、主イエスは弟子たちに「あなたがたの信仰が薄いからです。」と言われました。不信仰も信仰が薄いのも、結局は同じことですが、これはどういう意味でしょうか。信仰は電気に例えられることがあります。電源があって、電源から電球まできちんと電線が引かれているとします。スイッチを入れれば電球は光を放ちますが、スイッチを入れなければ電球は光りません。私たちには悪霊を追い出す力はありません。働かれるのは主です。その神の働きにスイッチを入れるのが私たちの信仰だと言えるでしょう。もちろん弟子たちに全然信仰がなかった訳ではありませんが、この時、悪霊に取りつかれた一人息子を助けることに関しては信仰がありませんでした。マルコによる福音書の記事によると、弟子たちがそっと主イエスに「どうして私たちには追い出せなかったのですか。」と尋ねた時に、主イエスが「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」と答えておられますので、9人の弟子たちは、悪霊を追い出すということに関して、主イエスからの力と権威に委ねる信仰に立った祈りを捧げていなかったことが分かります。彼らに必要だったのは、主イエスの力と権威を信じる信仰による祈りでした。彼らは主イエスから力と権威を受けていましたし、実際に出かけて行った時に、病人を癒し悪霊を追い出す経験もしていたのです。しかし、この時、彼らは信仰の祈りをしていませんでした。弟子たちは、以前、悪霊を追い出し病人を癒すことができていたので、それらの経験から、彼らは自分の中に力があると勘違いしていたのかもしれません。以前できたのだから今度もできるだろうと思い込んで、以前のようには祈らなかったのではないでしょうか。この時、悪霊に取りつかれたひとり息子を助ける際に、弟子たちは、自分の力と経験に頼り、自分をよく見せようとする心があったために、主の力が働かなかったのです。主イエスは決して自分の力を人々に見せびらかすことはありませんでした。
信仰のない、よこしまな世代の人々
男の子の父親が「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした」と言うと、主イエスはこのようにお答えになりました。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」。主イエスは、今という時代が悪いから悪霊を追い出せなくてもしょうがない、と言っているのではありません。私たちは「現状がうまくいかないのは時代が悪いせいだ」と言ったり、「もっと違う時代に生まれていたら、このような結果にはならなかった」と言ったりしますが、そのような今という時代の良し悪しについて主イエスは言われたのではないのです。「時代」と訳されている言葉は、「世代」、「ジェネレーション」とも訳せる言葉です。ですからここで見つめられているのは、時代そのものというより「信仰のない、よこしまな世代」の人々なのです。では、その人々とは誰なのでしょうか。山の麓に留まった弟子たちでしょうか。確かに彼らは主イエスによって「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」を授けられ遣わされたにもかかわらず、このとき何もできませんでした。しかし彼らだけではないと思います。山の上と山の麓で起こった出来事が、主イエスの弟子ならば誰もが経験する対照的な出来事であるならば、当然山の上にいた弟子たちも含まれるのです。それだけではありません。主イエスの弟子とされた私たちも含まれるのではないでしょうか。
曲がった世代の人々
このことが、今朝共に読まれた旧約聖書申命記32章5節の御言葉から示されていきます。4節、5節にこのようにあります。
4主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく 正し
くてまっすぐな方。
5不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ その傷ゆえに、もはや神の子らではな
い。
「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ」と言っていますが、この「曲がった」という言葉が、ルカによる福音書9章41節の「よこしまな時代」の「よこしま」と同じ言葉です。つまり「よこしまな時代」は、「曲がった時代」と訳すことができるのです。申命記32章5節において、「曲がった世代」の人々は神を離れたとは、神が遣わしたモーセに導かれてエジプトから救い出されたイスラエルの民が、荒れ野を放浪する中で、主なる神に逆らい、神から離れ、ほかの神々を礼拝したことを申命記の作者は見つめています。神の一方的な恵みによって救われたにもかかわらず、その救いの恵みを忘れ、神に背いている姿が「曲がった世代」の人々の姿なのです。そうであるならば、「信仰のない、よこしまな時代」の人々とは、救いの恵みによって生かされているにもかかわらず、そのことを忘れ神から離れようとするすべての人たちのことであり、ほかならぬ私たちも含まれるのです。主イエスの「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」という嘆きは、私たちに対する嘆きでもあります。私たちは山の上と山の麓を行ったり来たりしているようです。山の麓で、主イエス・キリストによる救いが「いまだ」完成していない世界にあって、私たちは不条理な現実に、病や死に、苦しみや悲しみに直面するだけでなく、私たち自身が神から引き離そうとする罪と死の力に絶えず晒されています。その力によって、救いの恵みに感謝して生きるのではなくて、その救いの恵みを忘れ、神から離れて生きようとしているのが私たちの姿なのです。
弟子たちが立派な信仰を持っていなかったということではなく、主イエスが与えてくださった力を自分自身の力のように勘違いしたということです。主イエスから授けられた力を、あたかも自分自身の力として使おうとしたのです。彼らは主イエスによって遣わされ、ガリラヤの至るところで福音を告げ知らせ、病気を癒しました。その素晴らしい経験を、彼らはいつのまにか自分の実力によるものと勘違いしたのです。あのとき主イエスが一緒にいなくても自分だけでできたのだから、今回も主イエスがいなくても悪霊を追い出せると思ったのです。ところが彼らは何もできませんでした。なぜなら主イエスから授けられた力は、いつでもその力を授けてくださった主イエスを信じ、主イエスと結びつくことなしに用いることはできないからです。イスラエルの人たちの心が、主なる神から離れほかの神々の方に「曲がって」しまったように、弟子たちの心は、この前は出来たという自分の経験や実力の方に「曲がって」しまっていたのです。私たちも他人事ではありません。弟子たちのように主イエスから授かった力を用いて病を癒すという経験はなくても、しばしば私たちは同じように曲がってしまい、歪んでしまうのです。私たちは神を信じ、主イエスによる救いの恵みによって生かされていることを信じるよりも、しばしば自分を信じ、自分の力や経験によって生きていると勘違いしているからです。
私たちを背負い続けてくださる
しかしだからといって、主イエスはもう私たちに我慢できない、もう私たちを背負って行けないと言っているのではありません。もう私たちを見捨てる、と言っているのではないのです。私たちは、本当は見捨てられても文句を言えません。主イエスを信じず、自分勝手に生きようとする私たちにもう我慢できない、そのような私たちをもう背負えない、と主イエスに言われても仕方がないのです。けれども主イエスは、そのような私たちを決して見捨てることなく、なお私たちに忍耐して我慢してくださり、私たちを背負って行ってくださるのです。
主イエスはその弟子たちを決して見捨てることはありませんでした。主イエスの歩みの先には十字架の死があります。その苦しみをこれっぽっちも分かっていない弟子たちに、主イエスは我慢してくださり、彼らを背負って行ってくださるのです。イザヤは「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう」という主の言葉を告げました。私たちは生まれてから死に至るまで、その人生のすべてにおいて、主イエスに背負われて生きていきます。「いまだ」主イエス・キリストによる救いが完成していない世界にあって、救いの恵みを忘れ、神から離れて、自分の力や経験の方に「曲がって」しまう私たちを、主イエスは決して見捨てることなく、背負い続けてくださるのです。信仰のない曲がった世代の人々に嘆きつつも、主イエスは苦しんでいるこの父親の一人息子と、我が子が苦しんでいるのを傍で見ているしかなかった父親を憐れんでくださり、み業を行ってくださったのです。同じように主イエスによる救いが「いまだ」完成していない世界にあって、主イエスはこの世界の不条理な現実、病や死、苦しみや悲しみを憐れんでくださいます。主イエスが、信仰のない曲がった世代の私たちに嘆きつつも、私たちを決して見捨てないように、主イエスはこの世界の苦しみや悲しみを目に留め続けてくださっているのです。山の上と山の麓を行ったり来たりしているような私たちを、またこの世界を、主イエスは決して見捨てることなく、背負い続けてくださっているのです。神に不可能はありません。主なる神に信頼しなければなりません。働くのは自分ではなく神です。

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