はじめに
私は1月1日、2日と箱根駅伝を応援しました。この6~7年は二宮の自宅から近くの1号線で応援しています。その前の10年間ぐらいは大体大磯教会付近の1号線で応援していました。礼拝の最中という時もありましたが、何とか応援していました。新年を迎えてまだお祝い気分の中なので、少し個人的なことを話すことをお許し願います。私が箱根駅伝が好きなのは、私の母校K大学が走っているからというわけではありません。それも少しはありますが、もっと歴史は古いのです。私は平塚市内の西海岸という湘南国道の近くに今から65年ぐらい前、小学校3年生から高校生まで住んでおり、それ以来の箱根駅伝ファンなのです。当時は日体大とか中央大学、順天堂大学などが強かったものです。当時は湘南遊歩道と呼ばれていた道をランナーは今と同じように住民からの応援を受けて走って行きました。平塚中継所では毎年、河野洋平国会議員も早稲田の応援をしていました。私は平塚市役所勤務時代は昼休みにマラソン好きの仲間と一緒に市役所の周囲を走ったり、今の湘南国際マラソンのはじめであった市民マラソンのような時に10キロのコースを走ったり、丹沢湖マラソンに市役所の仲間と参加したりしていました。タイムは遅かったですが。そしてその後、40歳から約20年間愛知県豊橋市に転居しても1月1日,2日は必ずテレビで箱根駅伝を見ながら応援していましたし、泊りがけで箱根芦ノ湖のゴールで応援したこともありました。私が牧師になることに導かれ、伝道師(補教師)として大磯教会への赴任が決まった時、嬉しかった理由の一つは、また箱根駅伝が毎年、直接応援できるということでした。もう一つは平塚のラオシャンのタンメンが食べられるということでした。こちらは冗談ということにしてください。長々と話してしまいましたが、駅伝や、マラソンのような競争は、太古のギリシャ時代から平和のシンボルのようで良い競争です。しかし悪い競争もあるのです。主イエスの弟子たちの間に「だれがいちばん偉いのか」という論争が起きたと聖書は伝えています。やや唐突に感じるこの言い争いが、弟子たちの中で起こったのはなぜなのでしょうか。世界が平和を望んでも戦争が絶えないこの現実の中に「だれがいちばん偉いのか」という人間の罪がそこにはあるのではないか。早速、今朝の御言葉の恵みに与りましょう。
言い争いの原因
今朝の箇所の冒頭46節に「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」とあります。主イエスがご自分はこれから人々の手に引き渡され、十字架に架けられて殺されようとしている、と告げられた直後に、彼らは「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」という言い争いを始めたのです。先週お話ししたことですが、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子は山の上で主イエスの栄光を目撃しました。その栄光は、主イエスの十字架と復活による罪と死の力に対する勝利の栄光の先取りでした。それに対して山の麓に留まっていたほかの弟子たちは、罪と死の力による苦しみの現実に、具体的には病の力に捕らえられた一人息子とその父親の苦しみに直面したのです。その上、彼らはこの子どもから悪霊を追い出すことができないという大きな躓きを経験しました。このように山の上と山の麓では対照的な出来事が起こっていましたが、山の上で主イエスの栄光を目撃した三人は、山の麓で悪霊を追い出すのに失敗したほかの弟子たちより自分たちのほうが偉いと勘違いしたかもしれません。あるいは山の麓に残された弟子たちは、なぜ主イエスはペトロとヨハネとヤコブの三人だけを連れて山に登られたのか、なぜ主イエスはあの三人を特別扱いするのか、と思ったかもしれません。想像をたくましくするならば、このことが「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論」を引き起こしたのかもしれないとも思われるのです。
だれがいちばん偉いか
「だれがいちばん偉いか」というのは、言い換えるならば「だれがいちばん優れているのか」「だれがいちばん価値ある者なのか」ということです。つまり彼らは心の中でお互いを比べ、優劣や価値を競い、順位を争いながら主イエスに従って歩んでいたのです。しかしよくよく自分自身を振り返るならば、私たちもこの弟子たちと大差ないのではないでしょうか。私たちは「だれがいちばん偉いか」について大っぴらに言い争うことはないかもしれません。しかし心の中では、私たちもいつも自分と他人を比べているのです。優劣や価値を競い、順位を争うことが積極的に肯定されている社会にあって、私たちは知らず識らずの内に、他人と比べて生きるのが当たり前になっているのです。そういう競争社会に生きるのが嫌になった人は緑多い山や野原で生きようとするかもしれません。しかし、教会の中でも同じようなことが起こります。それは信徒同士の間でも、信仰を比べてしまうことがありますし、牧師同士の間でも、神学理解や伝道の力で比べてしまうことがあります。さすがに「自分の信仰は完璧です」と誇ることはないと思いますが、逆に「自分の信仰はまだまだです」と言うことは割りとあります。それが神に向かっての言葉であるなら当然かもしれません。しかしそれがほかの人に向かっての言葉であるならば、そのとき私たちは自分とほかの人の信仰を比べてしまっています。いつのまにか信仰の優劣や信仰の順位を考えてしまっているのです。十二人の弟子たちと同じように、主イエスの弟子とされ、主イエスに従って歩んでいる私たちも自分とほかの人を比べて、優劣や価値を競い、順位を争う思いを心の内に抱きつつ歩んでいるのです。
一人の子供を
47節に「イエスは彼らの心の内を見抜き」とあります。主イエスには隠していても、弟子たちの間にそのような議論、争いがあることを主イエスは見抜かれたのです。問題の根本、本質を見抜いた主イエスが、弟子たちに何を語られたかが以下に示されているのです。主イエスは一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせました。つまり主イエスは、この問題について弟子たちを教えるために、一人の子供を言わば教材として用いられたのです。
ここで、「子供」というのが当時の人々の間でどのような存在だったかを確認しておく必要があります。つまり、私たちの感覚においては、子供というのは、かわいいもの、純真で無垢なもの、守ってやるべきか弱いもの、といったイメージがあります。そういう積極的な見方も聖書には語られています。この福音書でも18章17節には、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という主イエスのお言葉が記されており、そこでは神の国を疑わずに受け入れる者として子供が位置づけられています。しかし今朝の箇所は、それと同じ感覚で読んでいると分からなくなります。ここでは「一人の子供」は、価値ある大切な存在としてではなくて、無価値な、一人の人間として受け入れるに足りない、軽んじられる存在としてたとえられているのです。それは主イエスが子供のことをそう思っていたということではなくて、当時の社会の一般的な感覚がそうだったのです。これは女性もそうでしたが、子供は、物の数に入らない、無価値な存在だったのです。主イエスはそういう一人の子供をそばに立たせて、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われたのです。つまり主イエスは子供を教材として用いることによって、弟子たちに、無価値な存在として軽んじられている者を受け入れることをお求めになったのです。それは、子どものような小さな者、軽んじられている者、無価値と思われている者を、主イエスであるかのように受け入れるということです。目の前にいる子どもを、その横にいる主イエスであるかのように見るのです。「私だけでなく、この子どもを見なさい」、「私だけでなく、軽んじられている者を見なさい、私であるかのように見なさい」と伝えるために、主イエスはご自身のそばに子どもを立たせ、弟子たちの目の前にご自身と子どもが並んで立つようにされたのです。
父なる神を迎え入れる
主イエスは「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と言われます。主イエスの名のために、小さな者を主イエスであるかのように受け入れる者は、主イエスを受け入れるのであり、主イエスを遣わした父なる神を受け入れるのです。小さな者、軽んじられている者、価値がないと思われている者を自分たちの群れに仲間として迎え入れ、共に歩むとき、その交わりに主イエスが共にいてくださり、神が共にいてくださるのです。
最も小さい者、最も偉い者
48節の終りで「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と言われています。これはどういう意味でしょうか。この言葉だけだと、これまで主イエスが言われていたこととのつながりがよく分かりません。主イエスは、子どものように小さな者、軽んじられている者、価値がないと思われている者をご自身のように受け入れることを語ってきました。そのことを踏まえて言葉を補ったほうが良いと思います。つまりここで主イエスは、「あなたがた皆の中で、小さな者をイエスの名のために受け入れる人こそ、最も偉い人である」と言われているのです。どちらが偉いかを比べることによって、本当に偉い人が決まるのではありません。小さな者を、あたかも主イエスであるかのように受け入れ、共に歩む人こそが本当の意味で偉い人なのです。主イエスのこの教えを受けて弟子たちが、そして私たちが取るべき道は、最も偉い者になろうとすることではなくて、最も小さい者を受け入れる者となることなのです。
わたしの名のために
さてしかし、主イエスのこの教えにおいてもう一つ注目しておかなければならない大事な言葉があります。それは、「わたしの名のために」という言葉です。主イエスは、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は」と言われたのであって、一般論として「一人の子供を受け入れる者は」と言われたのではないのです。一人の子供を、つまり小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を受け入れるのは「主イエスの名のため」です。見つめるべきは、主イエスがどのような方であり、どのように歩まれたか、なのです。その主イエスに従っていくところに、小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を受け入れる歩みが生まれるのです。なぜならば、主イエスが受けて下さった苦しみと十字架の死は、神が、まさに受け入れ難い罪人である私たちを受け入れて下さった出来事だからです。私たちは、私たちに命を与え、導いて下さっている神に背き逆らい、そのみ名を汚している者です。私たちは、無価値な、受け入れるに足りない者として、神に軽んじられ、捨てられても当然の者なのです。しかし神は、そのような私たちを愛して下さり、大切に思って下さり、私たちの罪を赦し、ご自分の子として下さるために独り子の主イエスを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって私たちを受け入れて下さったのです。
反対しない者は味方
そのような弟子たちの無知や無理解が引き起こしたもう一つの間違いが、49節、50節で語られています。弟子の一人であるヨハネが主イエスにこのように尋ねました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」。ヨハネが言っているのは、主イエスの名が悪用されていたから、やめさせようとしたということではありません。主イエスの名によって「悪霊を追い出している者」とは、主イエスを信じ、主イエスの働きを共に担って悪霊を追い出し、病を癒している者です。その働きそのものは、むしろ神に用いられた尊い働きなのです。それにもかかわらずヨハネが、その人の働きをやめさせようとしたのは、「わたしたちと一緒にあなたに従わないので」とあるように、その人が自分たちと一緒に主イエスに従っていなかったからです。ヨハネが問題にしたのは、「自分たちと一緒にいない」ということなのです。主イエスと共に旅をしているこの自分たちと一緒にいない人が、主イエスの働きを担うのはやめさせるべきだ、と思ったのです。しかしそのように考えるのは間違いです。確かに使徒と呼ばれる十二人は、主イエスによって選ばれ、主イエスと共に旅をし、主イエスから特別な務めを与えられました。けれどもそれは、彼らだけが主イエスに従っていたということでも、彼らだけが主イエスの働きを共に担っていたということでもありません。彼らとは違う形で主イエスに従っている人たちがいたのです。この後の第10章の冒頭には、十二人の他に七十二人の人々が主イエスによって派遣されたことが語られています。また、主イエスによって悪霊を追い出していただき、癒していただいた人が、お供をしたいと申し出た時に、主イエスがそれをお許しにならず、自分の家に帰って近隣の人々に神がしてくださったことを語り伝えるようにとお命じになったこともこれまでにありました。主イエスを信じ、従っていく人は、この時既に様々な形で存在したのです。だから主イエスはヨハネに「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と言われました。味方であるとは、助けてくれるということでもあります。色々な形で主イエスに従っている者たちが共に助け合い、共に主イエスの働きを担っていくのです。主イエスに従う自分たちの歩みを、自分たちとは違う形で主イエスに従っている人たちが助け、支えてくれているのです。
私たちは、それぞれが、自分の信仰の良心に基づいて、神が自分に与えて下さったと信じる働きを担い、行なっていきます。私のあり方とあの人のあり方とは違うということが当然そこには起ってきます。そこで、どちらがより大事だとか、重んじられるべきだという序列をつけ始めるなら、結局のところ「誰が一番偉いか」という子供じみた争いに支配されていくのです。主イエスが弟子たちに、そして私たちに求めておられるのは、自分とは違う仕方で主イエスに従い、仕えていく人の存在を受け入れることです。「反対しない者は味方である」という感覚を持つことです。それには当然、自分もその人のすることに反対しない、ということが必要です。そしてそれらのことの根本にあるのは、私たちは十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さった主イエス・キリストを信じ、その主イエスに従っていく者だということです。受け入れ難い罪人である私たちを受け入れて下さった神の恵みに生きる私たちは、同じその主イエスによって神が受け入れて下さった人々を、受け入れて、大切な仲間として共に歩むのです。新年最初の礼拝においてこのみ言葉を与えられたことは意味深いことだと思います。私たちがこの新しい年、教会において、どのような交わりを築き、どのように主に仕えていくのか、その大切な指針がここに示されているのです。