新しい局面へ
ルカによる福音書はいくつかの大きなまとまりに分けられます。今朝の個所の前までが一つのまとまりで、そこでは主イエスのガリラヤにおける伝道が語られていました。そこで見てきたように、ガリラヤ伝道において主イエスと弟子たちはガリラヤのあちらこちらを巡って、福音を告げ知らせ、病気を癒したのです。そして、今朝の個所である9章51節からは、主イエスがガリラヤからエルサレムに向かう旅の途上における出来事が語られています。私たちは今から、この部分を読み始めようとしています。ルカによる福音書は今朝の箇所から新しい局面へと進んでいくのです。その冒頭51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。ここで「天に上げられる」とは、単に主イエスの復活と昇天だけを見つめているのではありません。主イエスが苦しみを受け、十字架で死なれ、三日目に復活し、そして天に上げられる、その全体を見つめています。エルサレムへの旅は、神のご計画に従って、十字架と復活、その昇天に向けて、救いが完成していく歩みなのです。
ユダヤ人とサマリア人の確執
さて、エルサレムへの旅を始められた主イエスたちが、あるサマリア人の村に入ろうとしたけれど、その村の人たちから歓迎されず、拒まれたということです。この出来事の背景には、ユダヤ人とサマリア人の深い確執があります。紀元前8世紀に、北王国イスラエルは大国アッシリアによって滅ぼされます。アッシリア王は、北王国イスラエルの人たちを捕らえてアッシリアに連れていきました。それだけでなく、アッシリアの各地から色々な国の人たちをサマリアに強制移住させたのです。サマリアに残った人たちと強制移住させられた外国人との間に生まれた人たちが、後の「サマリア人」と考えられています。ユダヤ人にとって、サマリア人はユダヤとガリラヤの間に暮らす、自分たちとは民族的にも宗教的にも異なる人たちだったのです。ユダヤ人がエルサレム神殿で礼拝をしていたのに対して、サマリア人はゲリジム山に神殿を建てて、そこで礼拝をしていました。このような歴史的背景を踏まえるならば、ユダヤ人と敵対していたサマリア人が主イエスたちを歓迎せず、拒んだのも当然のことでした。「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたから」「歓迎しなかった」というのは、自分たちの認めていないエルサレム神殿に向かっている主イエスとその一行を拒んだということなのです。
主イエスを拒む人に対して
54節で、サマリア人の態度を見た弟子のヤコブとヨハネがこのように言っています。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」。ヤコブとヨハネの二人にはボアネルゲス、すなわち『雷の子ら』という名」(3章17節)を主イエスが付けられた、と語られています。「雷の子ら」という名から思い浮かぶように、彼らは、短気で怒りっぽい性格であったのかもしれません。そしてこの二人は、ペトロと共に、山の上で栄光に輝く主イエスがモーセとエリヤと語り合っているのを目撃しました。二人は自分たちが特別な出来事に立ち会ったという思いが強かったと思います。この特別な経験が、彼らを高ぶらせていた、高慢にしていたのではないでしょうか。前回の箇所でも、ヨハネは「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」と言っていました。主イエスと共に旅をしている自分たちだけが特別だ、という思いからこのように言ったのです。
主イエスを拒む人たちを救うために
しかし主イエスはヤコブとヨハネの方に振り向くと、二人を戒められました。ヤコブとヨハネは、主イエスがエルサレムに向かう決意を固められ、エルサレムへ向かって歩み始められたことの意味がまったく分かっていなかったのです。しかし、自分たちは特別だと思い、威勢のいいことを言っていたヤコブとヨハネも、後に十字架を前にして主イエスを拒み、見捨てて逃げ出しました。彼らだけでなくほかならぬ私たちも主イエスを迎え入れ、主イエスに従うより、しばしば主イエスを拒んで、自己中心的に歩んでしまいます。私たちこそ神の怒りによって天からの火で滅ぼされても仕方がない者なのです。しかし主イエスは神に背いて生きている私たちの代わりに、神の怒りをすべて負って十字架に架かって死んでくださり、私たちを救ってくださいました。今、主イエスは先頭に立って決然とエルサレムへ、十字架に向かって進んで行かれるのです。
この地上に枕する所がない歩み
57節の前に「弟子の覚悟」という表題があります。主イエスの弟子にはどのような覚悟が必要なのでしょうか。主イエスと一行がエルサレムに向かって進んで行く中で、名前の記されていない三人の人物が登場します。第一の人物は、自分から主イエスにこのように言いました。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。それに対して主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われました。狐にとっての穴、空の鳥にとっての巣は、住まいです。帰る場所であり、休める場所、安らげる場所です。しかし人の子には、つまり主イエスには「枕する所」もない、と言われます。それは、単に住む家がないということではなく、安心できる場所、安らげる場所がないということです。この地上に来てくださり、私たちと同じ人となってくださった神の独り子である主イエスは、この地上に居場所がありません。確かに傍から見たら、主イエスは弟子たちを引き連れ、大勢の群衆に囲まれながらエルサレムへ進んで行っています。しかし弟子たちも群衆も、主イエスが十字架で死なれるためにエルサレムへ向かっていることを理解できなかったし、受け入れられませんでした。だからエルサレムへ向かう主イエスの歩みは孤独な歩みであり、そこには安心できる場所、安らげる場所はないのです。第一の人物は、エルサレムへ向かって進んで行かれる主イエスに、主イエスが行く所ならどこでも従う、と言いました。それは、主イエスの受難の歩みに従うということなのです。
最も大切なこと
第二の人物は、主イエスの方から「わたしに従いなさい」と招かれました。するとその人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。この時、おそらくこの人の父親は亡くなったばかりか、あるいは今まさに亡くなろうとしていたのだと思います。ユダヤ教において、父親を葬ることは子どもにとって最も大切な義務でありました。ユダヤ教にはほかにも色々な義務がありますが、父親を葬るためには、それらの義務を守らなくても良かったのです。それほど父親を葬ることは最も優先しなくてはならない義務だったのです。ですからこの人は、「まず、父を葬るという自分の義務を果たさせてください」と言っているのです。それに対して主イエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われました。これはどういう意味なのでしょう。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」という主イエスの言葉が何を意味しているのか、実はよく分かりません。しかし、おそらく主イエスは、主イエスに従うことを、父親の葬式を出すことよりも優先せよとおっしゃるのです。そのくらいの思いを持っていないと主イエスに従って生きることはできない、と言っているのではないか。「死者の葬りのことまで心配することはない」という意味かもしれません。解釈は色々あるようですが、いずれにしろ大切なことは、主イエスがユダヤ教において最も大切な義務を果たすことよりも、主イエスに従うことを求められたということです。そして主イエスは「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われます。ユダヤ教で最も大切な義務を果たすことより、「行って、神の国を言い広める」ことこそ、ほかならぬあなたにとって最も大切なことであり、第一に考えるべきことである、と言われているのです。
第三の人物はこのように言いました。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」。この人は、主イエスに従うけれど、その前に「家族に別れを告げに行きたい」と言ったのです。それに対して主イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。「鋤に手をかけてから」、つまり主イエスに従い、その働きを担い始めてから、家族のことを振り返ってはならない、ということです。それは、神の国のために仕えていくのにふさわしくないのです。
私たちは、第二、第三の人物に対する主イエスのお言葉から、主イエスに従うためには家や家族を捨てなくてはならないと思いがちです。しかし主イエスは、「主イエスに従って一緒に行きたい」と言った人に、「自分の家に帰りなさい」と言われる方でもあります。自分の家に帰って、神が自分にしてくださったことを証しする。そういう形で主イエスに従い、主イエスの働きを共に担いなさいと言われる方でもあるのです。ですからここでは、家や家族を捨てて主イエスに従うことを強調しているわけではないのです。もちろん主イエスに従う中でそのようなことがないとは限りません。家族の猛反対の中で洗礼を受け信仰生活を続けた多くのクリスチャンがいます。何よりも、主イエスに従うことを第一にすることが見つめられているのです。最も大切なことは、「行って、神の国を言い広め」、「鋤に手をかけたら」、後ろを振り返らずにまっすぐに進むことなのです。
何を第一とするか
この三人の人物が、この後、どのように歩んだのかは何も語られていません。どう歩むのかは、この箇所を読む読み手に、つまり私たちに委ねられているのです。そう言われても、私たちは主イエスが言われるようにはとてもできないと思ってしまいます。努力や頑張りによって、家や家族のことよりも主イエスに仕えることを第一にすることができるわけでもありません。この57節以下に語られているのは大変厳しいことです。私たちはこの厳しさを割り引かずにしっかりと受け止める必要があると思います。主イエス・キリストに従うことが私たちの信仰であり、そこにはこのような厳しさが伴うのです。父を葬りに行くとか、家族にいとまごいに行くというのは、人間として最も大事な、なすべきことです。それは当然優先にされるべきだと誰でも思うのです。しかし私たちは、そういう、当然優先されるべきことを他にもたくさんかかえています。この世を生きる者として、この社会の一員として、家庭の中で、いろいろな責任を負っている者として、これは大事だ、これは優先にしないと、ということはいくらでもあるのです。そういう現実の中で私たちは、主イエスに従おうと思いつつも、いつしかそれを二の次三の次四の次にしてしまう、放っておけば必ずそうなるのです。主イエスのこの厳しいみ言葉は、そのような私たちに、本当に大切なこと、最終的に第一とすべきことは何なのかを教えています。そういう意味で私たちはこのみ言葉をしっかりと受け止める必要があるのです。信仰者になるとは、私たちが生まれつき属している集団、そこに連なっていれば安心でき、連帯感が得られるような群れ、その中で自然に共有されている考えや感覚、常識、社会の風習、ならわしなどを離れて旅立ち、主イエス・キリストと共に生きることにおいて与えられる新しい意識、感覚、思いや志に生きていくことなのです。
しかしそのような私たちに、詩編の言葉は語ります。詩編55編23節のみ言葉です。「あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる」。主イエスに従う歩みは、私たちが頑張って主イエスについていく歩みではありません。むしろ主イエスに従う歩みは、主イエスが共にいてくださり、私たちの重荷を担ってくださり、支えてくださる歩みなのです。重荷を主に委ねればいいのです。主イエスに従う歩みにこそ、揺るがない支えがあり、本当の安心と安らぎがあります。家や家族との関係も、主イエスに従うことを第一にする中でこそ整えられていくのです。
主は家族をも支えてくださる
他教会の方ですが、最近受洗されたある方のお話を紹介します。私が20数年間信徒として過ごした愛知県の教会の話しですが、奥さんが熱心なクリスチャンで、教会の長老として今も奉仕を続けています。そのご主人のことですが、奥さんと子供たちと共に毎週の礼拝に出席していましたが、古くから続く家の長男として先祖のしきたり、お墓も守るということもあったのではないかと私は思っていましたが、その教会を会場にして練習していた合同ゴスペルグループにも熱心でしたが、洗礼を受けられませんでした。その後、私は牧師としてその教会を離れ大磯教会へ赴任しました。15年以上経ちましたが、昨年、その方が洗礼を受けられたと知りました。意外なことに、最近赴任された女性の牧師が受洗を勧めたら、洗礼を受けると言われたそうです。私たちの配慮や遠慮は必要なかったのかもしれません。また、受洗者から聞くことですが、子供の頃教会に通っていたことや、ミッションスクールで聖書の話しを聞いていたことが、後になって受洗に結び付くこともあります。牧師たちの会で最近聞くことは、若い人の洗礼もあるのですが、高齢の方々の洗礼が最近は多いということです。家や家族との関係も、主イエスに従うことを第一にする中でこそ整えられていくのです。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださるのです。
信仰の旅路における恵み
主イエスに従って旅立つことによって、私たちは新しい思いと志を与えられます。そしてその信仰の旅路において、神の大きな恵みを体験していくのです。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」という謎のようなみ言葉も、その恵みの中で読むことができます。父を葬る、それは愛する身近な者の死に直面するということです。死の力が、私たちから愛する者を奪い去っていくのです。そして私たち自身もいずれ、その死の力に捕えられ、命を失っていくのです。葬り、葬儀は、死の力の支配に直面させられる時です。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」という言葉はいろいろに読むことができますが、それは要するに、葬られる者も葬る者も共に死の力の支配の下に置かれている中で行なわれる葬り、ということでしょう。それに対して主イエスは、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」とおっしゃったのです。神の国とは、神のご支配ということです。主イエス・キリストが天に上げられたことによって神のご支配が実現したのです。もはや私たちを支配しているのは死の力ではない、十字架にかかって死なれた主イエスを復活させて下さった神が、死の力を打ち破り、今や私たちを、この世界を、支配して下さっている、それが神の国の福音であり、主イエスに従うとは、この神の国を言い広めることなのです。この神の国の福音が言い広められ、告げ知らされる所でこそ、私たちは、愛する者の、そして自分自身の死と向き合うことができるのです。単なる気休めでない、本当に慰めと希望のある葬りはそこでこそできるのです。ですから主イエスのこのお言葉は、親の葬式を出している暇があったら伝道せよ、ということではありません。主イエスに従って旅立ち、神の国の福音に生き、それを宣べ伝えていく所でこそ、本当の慰めと希望が告げられ、死の悲しみや恐れに打ち勝つような葬りがなされる、ということをこのみ言葉は告げているのです。