2/2説教「七十二人を派遣する」

はじめに
主イエスの十二弟子といえば、マタイによる福音書10章1節から4節に記されているように、「まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダということになります。そしてユダが抜けた後は、マティアが加わりました。
ところで、欧米人には12使徒や聖人に由来する名前が多くあります。ペトロに由来する「ピーター」、アンデレからは「アンドリュー」、大ヤコブからは「ジミー」や「ジェイムス」、ヨハネから「ジョン」、トマスから「トーマス」や「トム」、シモンからは「サイモン」などです。ちなみに、ビートルズのジョンは12使徒のヨハネ、ポールは使徒パウロに由来します。女性のメアリーは、イエスの母マリア、エリザベスはバプテスマのヨハネの母に由来します。欧米においては十二使徒がいかに大きな存在であるかを表わしています。因みに日本においては、昭和になってすぐ人気だったのは、年号の「昭」「和」の漢字が使われた名前でした。男の子だと、「昭二」や「昭」「和夫」などが、女の子では「和子」「昭子」といった名前が上位に。時は流れ、昭和50年代に入ると、男の子の名前で「大輔」ブームが起きます。これは、昭和55年の高校野球で活躍した荒木大輔選手の人気にあやかったものです。一方、女の子の名前では、昭和40年代から「○子」という名前が減少していき、「○美」という名前が流行していきます。また「愛」という漢字は昭和50年代から平成2年まで人気でした。ちなみに、2024年の男の子の名前の上位3位は、1位:「碧(あお)」2位:「蓮(れん)」3位:「凪(なぎ)」だそうです。そして女の子の名前は、1位:「凛(りん)」2位:「陽葵(ひまり)」3位:「翠(すい)」だそうです。時代と共に変わっているし、流行があるようです。
今朝の御言葉は主イエスの十二弟子以外の弟子たちの話しです。
72人の派遣
主イエスの“弟子”と言えば‥‥‥ペトロやヤコブ、ヨハネといった、いわゆる12弟子を、皆さん、思い浮かべるのではないでしょうか?けれども、主イエスの弟子は12人しかいなかったのかと言えば、どうやらそうではないらしい。少なくとも今日の聖書箇所に、「主はほかに七十二人を任命した」(1節)と書かれています。十二弟子のように、聖書の中に名前が記録されているわけではありません。名もなき弟子です。けれども、名もなき弟子たち、記録にも残らないような弟子たちの働きが、伝道の業(わざ)を進展させ、教会を造り出していったのだと思います。
冒頭の10章1節には、「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあります。主イエスの弟子は使徒と名付けられた十二人の弟子たちだけではなかったのです。ほかに七十二人を任命」したとは、十二弟子のほかに主イエスに従っていた弟子たちの中から「七十二人」を任命したということです。なぜ「七十二人」なのでしょうか。72という人数には、どのような意味が込められているのでしょうか。この福音書の著者ルカは、おそらく旧約聖書創世記10章を念頭に置いて「七十二人」としたのだと思います。創世記10章にはノアの子孫である72民族の名前が記されています。ほかの写本では70人となっているものもあります。この72あるいは70という数字が、洪水後の世界のすべての国々、あるいは世界のすべての人々を象徴する数として用いられてきました。ですからルカにとって、「七十二人」の弟子たちの任命は、彼らをその数字が象徴する世界のすべての国々へ、すべての人々のところへ遣わすことを意味したのです。そこには、洪水後、ノアの息子セム、ハム、ヤフェトから「氏族、言語、地域、民族ごとにまとめた」(創世記10章31節)72人の子どもたちが記されていることによるからだと思います。これに合わせ、神の国の到来という福音を伝えるために12部族である12の6倍である72人が新しいイスラエルとして選ばれました。主イエスは彼らを通して、「すべての民に神の国に生きよ」という招きを与えておられるのです。
主イエスの先駆けとして証する
ルカによる福音書は、先週お話ししたように、9章51節から新しい局面に入りました。50節までは主イエスのガリラヤにおける伝道が語られていましたが、51節からは主イエスがガリラヤからエルサレムへ向かう旅の途上における出来事が語られています。主イエスはご自分がエルサレムで十字架に架けられて死なれ、復活し、天に上げられる時が近づいているのを悟り、エルサレムに向かう決意を固められ、エルサレムに向かって歩み始められました。そして主イエスは、十二弟子のほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされたのです。もちろん今朝の箇所のすぐ後を読むと分かるように、ここで任命された七十二人の弟子たちはすぐに主イエスのところへ帰ってきますので、世界のすべての国々へ行ったわけではありません。しかしルカは、この七十二人の任命において、主イエスの十字架と復活、その昇天の後に、聖霊が降って誕生した教会の働きを頭に描いて書いているのです。
今年の大磯教会の年間の教会目標は「なぜ、何を、いかに伝道するか」です。そして週報の裏面に毎回、その聖句を掲げています。実際の歩みは、教会の増改築のことで明け暮れてしまい、伝道集会も教会の修養会も行えませんでしたが、常に一人一人がキリストの福音の証人として伝道にかかわっていることを覚えたいと思います。そして教会目標の聖句はルカによる福音書24章45節から48節の言葉です。お読みします。
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に延べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」
罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に延べ伝えられるのです。そして私たちもこれらのことの証人なのです。使徒言行録1章8節の言葉です。
そして、ルカによる福音書の続きである使徒言行録においても、復活したキリストは天に上げられる前に使徒たちにこのように言われています。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりで
なく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」
(1章8節)。
「地の果てに至るまで」、あらゆる国の人々に、主イエス・キリストを証しすることが、教会に与えられている使命です。つまり伝道こそが教会の使命なのです。2000年に亘って教会はこの使命を担い続けてきましたし、今も担っています。ですから私たちは七十二人の弟子たちの任命と派遣を自分自身のこととして読み進めていきたいと思います。エルサレムに向かう主イエスについていく中で、弟子たちはただ主イエスと共にいるだけでなく、主イエスによって遣わされました。同じように私たちも主イエスに従い、主イエスと共に歩む中で、主イエスによって遣わされるのです。
救いの恵みの証人として
その意味で先ず注目したいのは、この七十二人が「二人ずつ」遣わされたということです。一人一人ではなく、二人がチームとして派遣されたのです。主イエスの先駆けとして派遣される私たちは、一人で孤独な戦いをするのではありません。主が与えて下さる仲間と共に、助け合って歩むのです。しかしこの二人ずつということの背景には、裁判における判決は二人または三人の証言によって下される、という旧約聖書以来の教えがあります。その背景から考えるならば、二人ずつの派遣は、彼らが「証人」であり、彼らが語る言葉は「証言」だということを意味しているのです。証言とは、自分が目撃したこと、体験したことを語ることです。伝道の言葉とは、基本的に証言です。伝道において私たちは、思想を語るのでもなければ、評論や解説を語るのでもありません。自分が見聞きした、体験した、主イエス・キリストによる神の救いの恵みを証言するのです。自分が体験した神の救いを証言することは、誰にでも出来ます。伝道の言葉は、誰にでも語ることができるのです。しかも、共に証言をしてくれる仲間が与えられています。「二人ずつ」ということから私たちは、このような伝道への励ましを読み取ることができるのです。
収穫のための働き手
2節には、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という主イエスのお言葉があります。主イエスはここで先ず、「収穫は多い」と断言して下さっています。私たちが主イエスの先駆けとして遣わされて神の救いの恵みを証言する時、そこには豊かな収穫が約束されているのです。私たちが主イエスの先駆けという意味は、キリストが再び来られる再臨の先駆けという意味です。伝道には必ず多くの実りがあるのです。そうは思えない、伝道しても伝道しても、実りはほんの少ししか得られないではないか、と私たちは思うかもしれません。しかし、収穫が少ししか得られないのは、「働き手が少ない」からです。畑は豊かに実っているのに、収穫する人が少ないから収穫も少ないのです。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われているのです。収穫のための働き手がもっと沢山になれば、収穫は多くなると約束されているのです。主イエスはここで私たちに、「あなたがたは収穫のための働き手だ」と言っておられるのです。そのお言葉の最も大事なポイントは、畑を耕して種を蒔くところから始め、その作物を世話して育て、実を結ばせ、そして収穫せよと言われているのではない、ということです。ここに描かれている働き手のイメージは、既に豊かに実っている畑に派遣されて収穫だけをする臨時雇いの労働者です。「収穫のための働き手」は、自分が育てたのではない作物の実りを収穫だけするのです。「収穫は多い」、それは彼らの、あるいは私たちの働きによることではありません。では誰が働いたのか。それは収穫の主です。神です。神が、畑を耕して種を蒔くことから全てのことをして下さって、豊かな実りがそこにあるのです。私たちは、収穫のための働き手としてそれをただ刈り入れるだけです。私たちに出来ることはそれだけだし、命じられているのもそのことだけなのです。「収穫が多いなんて嘘だ。伝道してもなかなか実りは得られない」と思っている私たちは、根本的な誤解をしています。自分で畑を耕し、種を蒔き、作物を育てて収穫を得なければならないと思っているのです。それだったら確かに収穫は少ないでしょう。いやほとんどないでしょう。しかしそれは神がして下さることなのです。神が、独り子イエス・キリストによって、豊かな実りを既に実らせて下さっているのです。このことこそ、ここに語られている約束の中心です。「働き手が少ない」というのは、この約束をわきまえて働いている者が少ないということです。つまり、「自分は収穫のための働き手だ。神が実らせて下さったものを収穫するのが自分の使命なのだ」ということをわきまえている者が少なく、むしろ何から何まで自分でして、自分で収穫を多く得なければならない、と思っている者が多いのです。ですから収穫のために働き手が送られるといのは、牧師、伝道者の数が増えることではなくて、神が恵みによって豊かな実りを既に備えて下さっていることを信じて、自分が育てたのではない実りを感謝しつつ集める、という思いを持っている者の数が増えていくことなのです。そのことによってこそ、「収穫は多い」という約束が実現していくのです。
伝道は大きな喜び
私たちの伝道は、「収穫の主」が畑を耕し、種を蒔き、それを育み、実りを結ばせたものを刈り入れることです。農作物を育てる中で、刈り入れの時こそが最も大きな喜びの時であるに違いありません。詩編126編5-6節にこのようにあります。「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。種蒔きの時は涙を流すほどの労苦を伴うのに対し、刈り入れの時は喜びの歌を歌うほどの喜びで満ちているのです。私たちの伝道において、「収穫の主」が涙を流すほどの労苦を担ってくださっています。「収穫の主」が実を結ばせてくださった実りを、私たちは喜びの歌と共に刈り入れさせていただくのです。だから私たちにとって、伝道は大きな喜びにほかなりません。教会と私たちには、伝道という喜びの使命が与えられているのです。主イエスは「収穫は多い」と約束してくださっています。主イエスに先立って遣わされた私たちは、この約束に信頼し、「神の国は近づいた」と伝え、主イエスを証しします。それぞれに遣わされた場所で、喜びの歌と共に、「神の国が、今、現にここにある」と語り、自分自身を生かしている主イエスの恵みを証しするのです。祈ります。

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