2/9説教「名が天に記されている」

二つの喜び
皆さん一人ひとりに生活の喜びがあると思います。家族が幸せに生活できることが喜びだと言う方は多いでしょう。健康が第一だと思うのは私も同じです。ところで、すぐ目の前の海岸を走っている西湘バイパスを毎日車で通っていますが、昨日あたりも大磯港の東側の海に何十人ものサーファーが黒いウェットスーツの水着を着て浮いていました。最強寒波の中で海に入っているのですからよほど楽しいのでしょう。音楽が好き、讃美歌を歌うのが楽しい、水彩画を描くのが好き、ヨガをするのが好き。野菜を収穫するのが好き、花を育てるのが好き。喜びの気持ちは、人生に必要な、とても大切なものです。私たちは喜びのある生活をしたいと願っています。人は皆、自分が思い描く楽しいこと、というのはそれぞれに違っています。また喜んでばかりいられない災難や苦労もやってくるわけですが、しかし、喜びがなければ、生活は苦しく、虚しいだけのものになってしまうでしょう。また、信仰にも喜びが必要です。喜びは信仰生活を生きるエネルギーの元です。喜びがなければ、信仰も行き詰まってしまいます。私たちの人生には喜びが必要です。 
今日の聖書箇所には二つの喜びが出てきます。一つは七十二人の弟子たちの喜びです。17節に「七十二人は喜んで帰って来て」と書かれています。もう一つは、主イエスの喜びです。21節に「イエスは聖霊によって喜びにあふれて」とあるとおりです。今朝の聖書の御言葉を読むと、どうやら喜びには2種類あるようなのです。早速見てみましょう。
七十二人を派遣する
ルカによる福音書10章17節以下に、七十二人の弟子たちが伝道から帰り、主イエスに伝道の成果を報告している様子が記されています。弟子たちは「主よ、お名前を使うと、悪霊でさえもわたしたちに屈服します。」と喜んで主イエスに語っています。この七十二人の弟子のことについては先週お話しました。七十二人の弟子たちは、後から来られる主イエスの先駆けとして派遣されたのでした。これからこの町に来られる主イエスを、人々が救い主としてお迎えするように備えをするために派遣されたのです。七十二人の弟子たちは、主イエスによって二人ずつ、町や村に遣わされました。病人を癒やし、「神の国は近づいた」と宣べ伝えるためです。当時、病気は悪霊が人に取りついて生じさせると考えられていました。そういう悪霊に打ち勝つ権威、「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」(19節)を授けて、主イエスは七十二人を遣わしたのです。だから、72人の弟子たちは〝悪霊よ、イエスの名によって命じる。この人から出ていけ〟とやったのです。すると、その人から悪霊が出て行き、病気が癒やされました。このことは、弟子たちにとって、喜ばしいことだったに違いありません。何だか自分に力が付いたようで、得意ですらあったかもしれません。それで、喜んで報告したのです。
悪魔祓いと近代医学
弟子たちは悪霊を屈服させ、追い出したとルカによる福音書は記しています。私たちが普段親しんでいる近代医学的視点が生まれたのはここ数百年のことであり、それ以前は心身の不調、病というものの原因が超自然的な領域に求められるのが普通でした。近代医学は、それら不合理な考え方を迷信としてしりぞけることによって、より確実な医療の技術を発達させてきた一方で、なぜ自分の人生に病気などという不幸が飛び込んでくるのか、という「意味」の領域は、扱うことが殆どありませんでした。しかし、いまや主にホスピスなどの終末期医療など、医学・医療にはまさにその、人生の意味、苦難の意味を問う人間の営み、いわゆる「霊」の部分への手当てが求められる時代になってきました。主イエスや弟子たちによる悪霊払いと癒しは、まさに人が誰しも持つ生きる意味への欲求、自己を超えたこところにある存在すなわち神との和解のためのわざではなかったでしょうか。ところで、西湘南地区の信徒研修会で2年続けて精神科医の石丸昌彦氏の講演を聞きましたが、キリスト者でもある石丸氏の著書で『不安と孤独の処方箋』という本を読みました。スピリチュアルケアについてのことが書かれています。WHO(世界保健機関)は健康について「健康とは単に病気・病弱ではないことに尽きるものではなく、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態にあることをいう。」と定義しているけれども、実はこれらに加えて、もう一つ大切な第4の視点があると言っています。それはスピリチュアルという側面が健康にとって不可欠だという主張です。日本語で訳すなら「霊的」と訳されるのでしょうか。まだこの言葉を健康の定義に加えることはWHOでも採択されていませんが、実はこの言葉が既に定着し、日常的に用いられている領域があります。緩和ケアの領域だそうです。スピリチュアルペイン(霊的な痛み)の問題だそうです。石丸氏の『不安と孤独の処方箋』の一部をお読みします。
例えば、がんなど予後不良の疾患にかかって余命を宣告されたとき、誰しも生死について考えずにはいられなくなります。「なぜこんな病気にかかったのか」「どうして今。死んでいかなければならないのか」といった個人的な問いから「死後の世界はあるのか」といった一般的な問い、さらには「命とは何か」「人は何のために生きるのか」といった形而上の問いに至るまで、健康な時には意識しなかったさまざまな自問が人の心を悩ますことになるでしょう。これらはいずれもスピリチュアルな問題であり、・・・
そして『母を訪ねて三千里』という物語の例を挙げています。主人公のマルコ少年は行方不明に
なった母を探してイタリアから南米のアルゼンチンまで苦しい旅をします。苦労の末ようやく探し当てたとき、母は病気のため手術を受けるように医者からすすめられていましたが、生きる希望を失って手術を受けようとしませんでした。けれども、再会を諦めていた息子が目の前に現れたとき、一転して生きたいと強く望み、手術を受けて一命を取り留めるのです。スピリチュアルペイン(霊的な痛み)とか緩和ケアの領域など、一見してつかみどころのない話のようでいて、実は至って明瞭なことです。キーワードは「希望」と「意味」。人生に意味を見いだせるかどうか。未来に希望をもてるかどうか、要するにそういうことです。と石丸氏は言っています。
キリスト者の場合、それは永遠の命ということであり、今朝の説教題にある私たちの「名が天に記されている」ということになるのです。
今朝の御言葉に戻ります。〝悪霊よ、イエスの名によって命じる。この人から出ていけ〟と七十二人の弟子たちはやったのです。すると、その人から悪霊が出て行き、病気が癒やされました。このことは、弟子たちにとって、喜ばしいことだったに違いありません。
名が天に記されることを喜ぶ
ところが、主イエスは、悪霊が屈服することを喜んで報告する弟子たちに言われました。
20しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。
自分のしていることがうまくいった。結果が出た。都合良く運んだ。それは人間の目から見れば喜ばしいことである訳ですが、主イエスはそれとは違う喜びがあると言うのです。それは、自分の名が天の名簿に書き記されている喜び、自分の名前が神に覚えられている喜びです。もっと端的に言えば、自分が神に愛されている喜びということなのです。天に記されている名簿というのはどういうものなのでしょう。手掛かりを聖書から見てみましょう。ダニエル書12章1節(旧約1401頁)にはこう記されています。
1その時、大天使長ミカエルが立つ。
彼はお前の民の子らを守護する。
その時まで、苦難が続く
国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。
しかし、その時には救われるであろう
お前の民、あの書に記された人々は。
ここには「あの書に記された人々は」と書かれています。そしてフィリピの信徒への手紙4章3節(新約365頁)には次のように記されています。
3なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしたちと共に戦ってくれたのです。
ここには「命の書に名を記されている」と書かれています。もう一か所見てみましょう。ヨハネの黙示録20章15節です。次のように記されています。
15その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。
ここにも「命の書」と書かれています。神が、ご自分の救いにあずからせる者として私たちの名を書き記して下さっているのです。神のリストに書き記されているということは、もはやそれは消し去られることはありません。地上の人生においてどのようなことがあっても、神は「この人の名は、私のこのリストに書き記されている。この人は私の民、私の救いにあずかる者だ」と宣言して下さるのです。私たちの信仰は、主イエスの十字架と復活と昇天によって、神が私の罪を赦して下さり、私の名が天に記されていることを信じることです。そこにこそ、私たちに与えられる本当の喜びがあります。主の十字架によって私は罪赦され、主のものとされている、この喜びが与えられるとき、地上の人生において何があっても、「あなたがたに害を及ぼす者はまったく無いであろう。」(19)と言われる約束が真実であることを知ることができるのです。
天に記されている名簿に私たちの名前が書き記されるということは、私たちに大きな安らぎと喜びを与えてくれるのです。自分の名が天に書き記されている。それは、目に見える確かな現実ではありません。だから、理解しにくいのです。けれども、その喜びは、目に見える喜び、人生の表面的喜びよりも、もっと必要なものです。私たちの魂を支える根源的な喜びです。不安と落ち込みの中にあっても、〝自分はだめじゃない〟という魂の平安を得るのです。それが私たちに最も必要な喜び、根源的な喜び、イエス・キリストを信じる者に与えてくださる大いなる喜びです。
シオンの残りの者
今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉は、イザヤ書4章2節から6節までです。その3節に次のように記されています。
3そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。
「残りの者」と言うのは、神が救われる者として選び、残しておいてくださった人々ということです。その人々の名が、神の手元にある命を得る者のリストに書き記されていると預言者イザヤは言うのです。地上の人生においてどのようなことがあっても、信仰の歩みにおいて害を加えられ、たとえ志し半ばで命を失うようなことがあっても、また人生の戦いに敗れて、望んでいた成果をあげることができなくても、あるいは誘惑に負けて罪を犯し、サタンに「この人はこんな罪を犯した」と神の前で訴えられてしまうことがあっても、神は、「いや、この人の名はわたしのこのリストに書き記されている。この人はわたしの民、わたしの救いにあずかる者だ」と宣言して下さるのです。私たちの信仰は、主イエスの十字架と復活と昇天によって、神が私の罪を赦して下さり、私の名を天に記して下さったことを信じることです。そこにこそ、信仰者に与えられる本当の喜びがあります。この喜びを与えられる時、地上の人生において何があっても、「あなたがたに害を加えるものは何一つない」と言う約束が真実であることを知ることが出来るのです。
主イエスの賛美
ルカによる福音書10章21節以下には、主イエスが聖霊によって喜びあふれて「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と父である神を賛美する言葉が記されています。「そのとき」とあるように、この賛美の言葉は20節までの所と結びついています。あなたがたの名が天に書き記されている、という大きな喜びを告げて下さった主イエスが、聖霊に満たされて、私たちの喜びをご自分の喜びとして喜び、神をほめたたえて下さったのです。
主イエスがここで賛美しておられるのは、「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼児のような者にお示しになりました。」ということです。「これらのこと」とは、18節から20節に語られてきたこと、その中心は、あなたがたの名が天に書き記されている、ということです。そのことが、知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示されると言っているのです。つまり、自分の力に寄り頼み、自分の力で何とかできると思っている者には、名が天に記されているという恵みは隠され、分からないと言っているのです。「幼子のような者」、それは自分の無力を知っている者、いやもっと正確に言えば、自分の力ではどうにもならない、という現実の中で途方に暮れている者です。そのような者にこそ神は、「あなたがたの名が天に書き記されている」という恵みを示して下さるのです。
信仰者の幸い
23、24節は再び弟子たちに対する、つまり私たちに対するお言葉です。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。「あなたがたの見ているもの」、それは、主イエス・キリストが示して下さった父なる神の恵み、あなたがたの名が天に書き記されている、という事実です。主イエスを信じる者は、知恵ある者、賢い者には隠されているこの事実を見ることを許されているのです。それは本当に幸いなことです。信仰者は、多くの預言者や王たちが見たいと願いながら見ることができなかったことを見、聞きたいと願いながら聞くことのできなかった言葉を聞くことができるのです。主イエスが十字架の死と復活を経て天に上げられたことによってサタンは既に天から落ちた。神が私たちの罪を全て赦し、私たちの名を天のリストに書き記して下さっている。その恵みから私たちを引き離すことができるものはもはや何もないのです。狼の群れの中に送り込まれた小羊のように無力な私たちが、自分ではどうすることもできない現実の中で、主イエス・キリストを信じ、主イエスに従って歩もうとする時に、主イエスご自身が私たちの目と耳を開いて、多くの人々が願いながらも見ることも聞くこともできないでいる喜びを与えて下さるのです。
救いを見て、聞いて
主イエスは弟子たちに「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」と言われました。それは、主イエス・キリストの十字架と復活において示された、神の救いのみ心とみ業を見る者が「幸い」である、ということにほかなりません。旧約の時代の「多くの預言者や王たち」が願っても見ることも聞くこともできなかったこの救いを、今、私たちは見て、聞いて、味わい体験しています。救いにまったくふさわしくないにもかかわらず、父なる神は、独り子イエスによって私たち一人ひとりを、救いを見聞きする者としてくださったのです。私たちは主イエスによる救いを見て、聞いて、味わい体験する中で、父なる神との豊かで親しい交わりを与えられ、父なる神が私たち一人ひとりをどこまでも大切にしてくださり、愛してくださっていることをより広く、より深く知っていくのです。私たちは神の独り子イエスの十字架と復活によって救われ、主イエスに結ばれて神の子とされ、父なる神を知る者とされて歩んでいるのです。祈ります。

TOP