最も有名なたとえ話
今朝ご一緒に読む聖書の箇所、ルカによる福音書第10章25節以下には、主イエスがお語りになったいくつかのたとえ話の中でも最もよく知られている、「善いサマリア人」の話が語られています。主イエスのたとえ話の中でも、「放蕩息子」のたとえと同じぐらい有名なたとえ話です。しかしこのたとえ話を私たちはどのように読んだら良いのでしょうか。別の言い方をすれば、主イエスはこのたとえ話を通して、私たちに何をおっしゃりたいのでしょうか。「善いサマリア人」のように私たちも隣人を愛さなくてはならない、と読まれることがあるかもしれません。でも本当にそうなのか。教会に来たことのない人でも聞いたことがあるほど有名なたとえ話ですが、しかしこのたとえ話で見つめられているのは決して当たり前のことではない。私たちは今朝の箇所を読み進める中でこのことに気づかされていきたいのです。
主イエスから問いかけられる
「ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして」このように言いました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。この問いかけからすべては始まります。「問いかけ」と言いましたが、彼は主イエスに質問したかったのではありません。そうではなく「イエスを試そう」としたのです。主イエスがどのように答えるかテストしようとしたのです。
ところが主イエスは、その問いに答えられるのではなく、逆に律法の専門家に問いかけられました。問いかけに対して問いかけで返されたのです。主イエスはこう言いました。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。主イエスに問いかけた者が、主イエスから問いかけられる者になったのです。私たちも信仰生活の中で同じようなことを経験します。この律法の専門家のように主イエスをテストしようとすることはないとしても、私たちも疑いつつ主イエスに問いかけることは少なくありません。今、世界はロシアのウクライナ侵略を止められるか、ガザでの停戦が本当に実現するのかを期待をもって祈っていますが、なぜ神はこのような戦争を許されているのかと。また突然の病気、事故や死に対しても。もちろん神に問いかけることが悪いのではありません。私たちは疑いや嘆きを主イエスに問いかけることが許されています。たとえ自分の苦しみや悲しみばかりに囚われ疑い嘆くときも、主イエスはその疑いや嘆きを受けとめてくださり、疑い嘆きの中にある私たちと共にいてくださるのです。しかし私たちは信仰を持って歩んでいく中で、主イエスに問いかけるだけでなく、主イエスから問いかけられることがあるのです。日々の生活の中で、小さなことから大きなことまで、私たちには決めなくてはならないことがたくさんあります。どう対応したらいいのか、何を優先したらいいのか、何を選べばいいのか悩みます。そのようなとき信仰による決断を求められていると感じるのではないでしょうか。それは教会においてだけではありません、家庭や学校や職場においてもそのように感じることがあります。そのとき私たちは主イエスから問いかけられています。「聖書には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問いかけられているのです。
御言葉の通りに行いなさい
主イエスから逆に問いかけられた律法の専門家は答えました。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。彼は、旧約聖書申命記6章5節の「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉と、レビ記19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」を引用して答えたのです。さすがは律法の専門家です。この二つの御言葉は、律法全体(旧約全体)の要約であり、その核心を突く御言葉です。律法の中心である十戒も、その前半で神を愛することについて語り、後半で隣人を愛することについて語っています。律法の専門家はどうすれば永遠の命を得ることができるか知っていました。少なくとも自分は知っていると思っていました。聖書のどの御言葉が答えであるかを知っていたのです。だからその御言葉を引用して、神を愛し、隣人を自分のように愛することによって永遠の命を得ることができる、と答えたのです。
この答えに対して主イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われました。この主イエスのお言葉を私たちは間違って受けとめないようにしなければなりません。主イエスは永遠の命を得るためには、つまり救われるためには神を愛し、隣人を自分のように愛さなくてはならない、それが救われるための条件だとおっしゃりたいわけではありません。このことはこの箇所を読み進めていくと分かります。そうではなくあくまでも律法の専門家の答えに対して、「そのように言うのならそうしなさい、その御言葉を知っているのなら、その御言葉の通りに行いなさい」と言われているのです。
そもそも律法の専門家が主イエスを試そうとして問いかけたのは、何をしたら「永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という問いかけでした。彼は「永遠のいのちを受け継ぐ」とは、どうしたら神の国に入ることができるか、ということとイコールであることを最初からちゃんと知っていたのです。彼はもうその答えを知っていながら、主イエスがどういう答えをするかを試したのです。主イエスはそれを心得ていますから、投げられたボールをまた投げ返しました。すると律法の専門家は、「では、私の隣人とは、だれですか。」と更に質問したわけです。それに答えて、主イエスはこの「善いサマリア人のたとえ」を話されたのです。
私の隣人とは誰か
エルサレムは、標高780メートルに位置しています。エリコは、海抜マイナス250メートルに位置している古くからあるオアシスの町です。都から地方へと言うだけでなく、本当に下っていくというような地理的状況のようです。千メートル位を下るわけですから。
ある人が、エリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにして逃げたというのです。祭司も、レビ人も、傷つき弱った人を見ると、道の向こう側を通っていった、というのです。祭司は身を汚すとエルサレムの神殿で儀式を取り扱うことができないから、去っていったのかもしれません。この人を介抱している間に死んでしまったら、祭司は汚れてしまって、当分の間、儀式に携わることができなくなるという思いがあったからでしょう。保身を考えたのです。人の面倒に関わりたくないという思いが私たちにもありませんか。街中でトラブルや騒ぎがあると出来るだけ避けてしまう自分がいます。己の如く隣人を愛しなさい、という律法を守らなくてはならないはずの祭司が、ここを素通りしてしまったのです。そしてレビ人は下級祭司でした。上級の祭司たちの下働きをするというようなことを極めて真面目にやっていた人たちです。経済的にも非常に貧しい人たちであったと言われています。その意味で聴衆には、レビ人は自分たちの仲間のひとりであるという思いが聴衆にはあったでしょう。しかし、レビ人も、付近にまだ居るかもしれない強盗を恐れて、強盗に襲われ瀕死の人を、見ぬふりをして、通り過ぎてしまいました。このことは、私たちが自分を愛するように、他の人を愛することがなかなかできないこと、また、自分に都合のよい人は愛せても、都合の悪い人は愛することができないことを教えています。すると、次に第三の人物が登場します。たいていの話は三つ目の場合が多いのです。いよいよ主役がでてくる。「さあ、それはだれだろう」と期待していたら、何とサマリア人だったのです。人種も宗教も違ったサマリア人です。当時、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪く、互いに反目していました。しかしこのサマリア人は、自分の都合を二の次にして、このけがをして動けないでいる旅人を助け、介抱してあげたのです。傷ついた人に、愛と哀れみを示すことの出来る人でした。このサマリア人だけが、危険を顧みずこのけがをして動けないでいる旅人を助け、介抱してあげたのです。
教えの通りに生きているか
この話をした上で主イエスは律法の専門家に、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とお問いになりました。答えははっきりしています。「その人を助けた人です」と彼が答えると、主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃったのです。ここには、先ほどの28節までの問答と同じ構造があります。つまり、主イエスが問い、彼が答えます。その答えは間違っていないのです。正しいのです。それを受けて主イエスは、あなたの答えは正しい、その答えの通りに実行しなさいとおっしゃるのです。つまりこの話において主イエスが彼に一貫して問いかけておられるのは、「あなたは自分が知っていること、分かっていること、その正しいことを、その通りに実行しているか、そのように生きているか」ということなのです。その思いがはっきり現れているのが、「あなたはそれをどう読んでいるか」という問いです。律法の専門家に対してこのように問うのは主イエスの皮肉かユーモアでしょう。しかしここにはさらに深い、真剣な問いかけがあるのです。あなたは律法によってこそ永遠の命が得られると思い、そのように主張している。しかしその律法を本当に真剣に読んでいるのか。それによって救いが得られると信じて本当に真剣に読むなら、律法に語られているように生きているはずではないか。そうなっていないとしたら、あなたはいったい律法をどう読んでいるのか。そう主イエスは問いかけておられるのです。この人は、専門家だけあって律法のことをよく知っています。その中心となる教えは何かを的確に捕えています。しかし主イエスに、あなたはそれを実行しているのか、その教えの通りに生きているのか、と問われた時、彼は、そのように生きていない自分を正当化し、自分の立場を弁護しようとするのです。つまり主イエスの問いによって彼は、自分はこの教えの通りに生きていないということに気付かされたのです。そして主イエスからの問いかけによって、私たちも同じように体験するのです。そしてこれが私たちの姿でもあるのです。「私は隣人を愛せないのです。私は夫を愛せません。私は妻を愛せません。子供を愛せません。友人を赦すことができません。」と言ったらどうでしょうか。そういう気持ちで、この善きサマリア人のたとえ話を読むと少し意味が解るような気がします。つまり、このたとえ話に登場してくる6人の人物の中で、自分はどれにあたるのだろうかということです。傷ついた旅人、追いはぎ、祭司、レビ人、サマリア人、宿屋の主人の六人の中で、自分はどの人物だろうかと考えて見るのです。
このサマリア人は主イエス・キリスト
しかし私たちはこのサマリア人のようにはなれないと思わざるを得ません。私たちはこのことに打ちのめされるしかないのでしょうか。隣人を愛そうと思っても愛せない自分の罪に苦しむしかないのでしょうか。そうではありません。このサマリア人の姿もまた、私たちの姿だからです。キリスト教会の歴史においては、このたとえ話のサマリア人は、主イエスであると受けとめられてきました。このサマリア人に主イエスを見るのです。なぜなら33節の「その人を見て憐れに思い」の「憐れに思い」と訳されている言葉は、基本的に主イエスに用いられる言葉、あるいは父なる神に用いられる言葉なのです。ルカ福音書7章11節以下で、主イエスは一人息子を失った母親を見て「憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」と語られていました。また15章11節以下の「放蕩息子のたとえ」でも、放蕩の限りを尽くした後に帰ってきた息子を見つけた父親が「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と語られています。この父親の姿は父なる神のお姿です。ですから主イエスが「憐れに思う」、あるいは父なる神が「憐れに思う」というように使われるのです。この言葉は人間の内臓を意味する言葉に由来するため、「憐れに思う」を「はらわたが痛む」と訳した方がいます。「心を激しく動かされる」と訳すこともできます。主イエスは、一人息子を失った母親の悲しみをはらわたが痛むほどに憐れんでくださり、父なる神は、失われた息子が帰ってきたのを見て、走り寄って首を抱きしめ接吻するほど心を激しく動かされるのです。そうであるならば半殺しにされた人のそばに来て、その人を見て、はらわたが痛むほど憐れに思い、心を激しく動かされて傷の手当をして、宿屋に連れて行って介抱したサマリア人は、主イエス・キリストにほかならないのではないでしょうか。そして半殺しにされた人とは、罪と死の力によって死にかけている私たちです。主イエス・キリストこそ、罪と死の力によって死にかけている私たちのそばに来てくださり、憐れんでくださり、十字架で死なれることによって私たちの深い傷を癒してくださり、そして甦ることによって私たちを新しく生かしてくださったのです。だからこのサマリア人は、主イエス・キリストにほかならい。そのように言えるのです。
道に倒れている自分を、主イエスが見て下さって憐れに思って下さった。そして傷口にオリーブ油とぶどう酒を注いでくださった。これはイエス・キリストの霊と贖いの十字架の血潮を意味しています。わたしの傷の痛みに触れ、その痛みを十字架の上でご自分の上に引き受けてくださいました。そしてその傷口の上に包帯をしてくださいました。これは、私たちの弱さや欠点を聖霊でカバーして下さるということです。そして自分のろばに乗せてくださいました。これは倒れて動くことのできない私を、担ぎ、引き揚げ、助け出してくださり、帰るべきところ教会へと連れ戻して下さったということです。宿屋とは教会です。主にある交わりのあるグループです。介抱して下さったというのは、その暖かい家族の交わりの中で、心のケアと体の介護をしてくださったということです。しかも罪のしみや傷が完全に治るまで、最後まで面倒を見てくださるということです。治療費も支払って下さるのです。そしてもっと費用が掛かったら、帰りがけに来て寄ってまた支払うと言われたのです。これは主の再臨を示しています。本当の隣人とは、実はこの主イエス・キリストのことではないだろうかということです。主イエスが、私たちを愛してくださったから、私たちも愛し合うのです。主イエスが私たちのところに近づいて来て下さったから、私たちも友のところに行くのです。主イエスが、手当をしてくださったのです。主イエスがろばに乗せてくださり、介抱して下さったのです。主イエスが私たちを教会に連れて来て下さり、いやして下さったのです。主イエスが必要なお金を全部立て替えて下さったのです。私たちが完全に回復し立ち直るまでです。本当の私たちの隣人は主イエス・キリストです。私たちは、道端に倒れていた旅人です。主イエスだけが私たちに近づいて来て下さたのです。主イエスだけが私たちを罪の中から引き上げてくださったのです。そしてこの主イエスの大きな愛の故に、私たちも助けを求めている人の隣人になることが出来るのです。お祈りします。