2/23説教「必要なことはただ一つ」

はじめに
教会はキリストの体と言われ、木の幹につながる枝のように多くの人の奉仕によって成り立っています。大きな教会になると牧師も二人三人といて、専門の職員もいたりしますが、多くの教会は一人の牧師と長老や教会員の様々な奉仕によってなされています。大磯教会も「奉仕申し出で書」というものをお配りして出来る奉仕を書いてもらったりしていますが、礼拝自体が神に対する奉仕の行為です。今朝の聖書個所は、マルタとマリアという姉妹のお話ですが、奉仕に伴う問題点を主イエスは教えています。早速、御言葉の恵みに与りたいと思います。

弟子たちはある村にお入りになった
冒頭38節に「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」とあります。「一行」というのは主イエスと弟子たちのことですが、彼らはエルサレムに向かって旅をしていました。主イエスはご自分の十字架の死と復活、その昇天を見据えつつ、エルサレムに向かって進まれていたのです。そのエルサレムに向かう旅の途上で、主イエスと弟子たちはマルタとマリアが暮らしている「ある村」にお入りになりました。「ある村」というのは、ヨハネ福音書によれば、その場所はベタニアという所です。ベタニアはエルサレムの近くの村で、マルコ福音書によれば、エルサレムに来られた主イエスは、夜はベタニアに泊まっておられたとありますから、エルサレムのすぐそばだったわけです。おそらく主イエスが泊まっておられたのは、このラザロ、マルタ、マリアの家だ
ったのだろうと思われます。

主イエスを家に迎え入れる
38節後半に「すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」とあります。マルタは村にやって来た主イエスと弟子たちを自分の家に迎え入れました。この先を読むと分かるように、このことはマルタだけが主イエスを家に迎え入れたいと願っていた、ということではありません。マリアもそのように願っていたのです。ただマルタのほうがより主体的に、また積極的に動いたのではないでしょうか。おそらくマルタが姉で、マリアは妹ではないかと思います。自分と妹の願いをかなえるために、家の主人として、姉として、マルタは率先して動いたのです。彼女は家の前まで出て行って、主イエスと弟子たちを迎えたのかもしれません。大切なことは、主イエスを自分の家に迎え入れることが、単に主イエスを客として家に招くことを意味しているのではないということです。主イエスによる救いを信じ受け入れることです。マルタとマリアが主イエスを家に迎え入れたことは、彼女たちが主イエスによる救いを信じ受け入れたことを意味しているのです。この物語で語られているマルタとマリアは、どちらが主イエスを本当に信じ受け入れたか、ということが語られているのではありません。マリアは主イエスを本当に信じ受け入れたけれど、マルタはそうではなかったという話ではないのです。マルタとマリアのどちらもが主イエスを信じ、その福音を受け入れ、主イエスに従って歩もうとしていました。ここでは主イエスによる救いを受け入れた二人の信仰者の姿が描かれているのです。ですからマルタとマリアと同じように主イエスによる救いを受け入れた私たちは、この物語を通してこの二人の姿に自分たちの姿を見るのです。

主イエスの足もとに座るマリア
39節で「彼女にはマリアという姉妹がいた」とマリアが紹介されています。今朝の箇所はマルタとマリアの話ですが、実はこの話の中でマリアは一言も発していません。主イエスが家に入ってくると、「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」と語られています。「その話に聞き入っていた」という言葉は、直訳すれば「彼の言葉を聞き続けていた」となります。「彼の言葉」とは、主イエスの言葉、主の言葉にほかなりません。マリアは主の言葉を聞き続けていたのです。主イエスは、迎え入れられたマルタとマリアの家で、神の国の到来について語られたのです。「神の国はあなたがたに近づいた」と宣言し、赦しと救いを告げる良い知らせ、福音を伝え、神の御心をお示しになったのです。マリアはその主イエスの言葉を聞き続けていたのです。マリアは、主イエスが語る言葉を一言も聞き漏らすまいと集中して聞き続けていました。主イエスの足もとに座るとは、そのようにして主の言葉を聴く人の姿です。

忙しく動き回るマルタ
マリアが主イエスの足もとに座り主の言葉を聞き続けていたのに対し、マルタは「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いて」(40節)いました。マルタの「いろいろのもてなし」、つまり「多くの奉仕」が間違っていたのではありません。主イエスは七十二人の弟子を遣わすとき「(その)家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである」(10:7)と言われています。このことは裏を返せば、主イエスや弟子たちを家に迎え入れるならば、彼らに食事や飲み物を提供し、あるいは寝る場所を用意して、彼らに奉仕するのは当然だ、ということです。マルタはその通りのことをしました。主イエスと弟子たちに奉仕し、食事や飲み物を用意してもてなしたのです。そこには彼女の主イエスへの愛がある、と言って良いと思います。主イエスを愛しているからこそ、主イエスのために奉仕し、主イエスに仕えようとしたのです。しかしそのために彼女は「せわしく立ち働」かなくてはならなくなりました。マリアが主イエスの足もとに座ってじっとしていたのとは対照的に、マルタは忙しく動き回っていたのです。マルタは主イエスによる救いを信じ受け入れ、その救いの恵みにお応えしたいと願って、一生懸命に主イエスと弟子たちに奉仕し、仕えようとしたのです。しかしそのために彼女は忙しくなりました。あれもこれもしなくてはと悩まされました。段取りはうまく行っているだろうか、食事や飲み物はすべての人に行き渡っているだろうか、と気が気でなくなりました。心に余裕がなくなり、段々奉仕を重荷に感じるようになったのかもしれません。つまりマルタは、主イエスを家に迎え入れた本来の目的から「引き離されて」しまったのです。彼女が主イエスを迎え入れたのは、なによりも主イエスの言葉を聞きたかったからです。赦しと救いを告げる主の言葉を聞きたかったからです。しかしいつのまにかそのことから引き離されてしまった。そのことによってマルタは忙しくなり、心を悩まし、気が気でなくなり、気持ちが混乱し、奉仕を重荷に感じたのです。

不平や不満がわき起こる
そしてマルタの心をいつのまにか不平や不満が占領するようになります。マルタは主イエスに近寄って言います。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。このマルタの訴えは、「なんでわたしだけが」というマルタの気持ちを言い表しています。なんで私だけが奉仕を重荷に感じるほどまで苦しまなくてはならないのか。私だけでなくマリアも主イエスを家に迎え入れたいと願ったのだから、マリアも少しはもてなしてくれても良いのに。そのような不平や不満が、マルタの心に次から次へとわき起こり、渦巻いていたのです。

奉仕に潜む誘惑
繰り返しになりますが、マルタは主イエスを愛していました。主イエスに仕え、主イエスのために奉仕したいと願っていました。私たちも主イエスによる救いに与った者として、その救いにお応えして、主イエスに仕え、奉仕を担っていきたいと願います。しかし、私たちもしばしば奉仕において自分の正しさを示そうとしてしまいます。主イエスへの奉仕が、いつのまにか自分の正しさを示すものになってしまうのです。そのとき私たちは、ほかの人も自分と同じように奉仕するべきだと思うようになります。自分とほかの人を比べて、自分はこんなに忙しく奉仕しているのに、あの人が何もしないのは間違っていると批判したり裁いたりしてしまうのです。そうなってしまうなら私たちの主イエスへの奉仕は歪んでしまっているのです。
それだけではありません。私たちは主の言葉から引き離される誘惑に絶えずさらされています。その意味で、主イエスへの奉仕にも誘惑が潜んでいるのです。私たちはしばしば主の言葉を聞き続けることよりも、奉仕を優先する誘惑に負けてしまいます。なぜでしょうか。それは救いの恵みにお応えするために奉仕するのではなく、自分の満足のために奉仕するようになってしまっているからです。忙しく、心を悩まし、気が気でなくなり、気持ちが混乱し、奉仕を重荷に感じる。でも、それほどまでに奉仕している自分にどこかで満足し、充実感を覚えているのではないでしょうか。私のように牧師として立てられている者は、そのような誘惑に最もとらわれやすいと思います。説教をするために何でも分かっているように見えを張って見たり、余分なストレスをため込んで余裕がなくなり、感情が爆発して教会員と争ってしまったり、その結果、多くの牧師が神経を病んでしまうことも起こります。主への献身、主への奉仕を願っているのに、いつのまにか働きの忙しさに満足を求めてしまうこともあります。私たちは奉仕においても、そのような弱さ、欠け、罪を抱えています。その弱さ、欠け、罪によって主の言葉から引き離されるとき、私たちの奉仕はやはり歪んでしまうのです。

必要なことはただ一つ
マリアへの不平と不満が心に渦巻いていたマルタに、主イエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。聖書において名前が二度呼ばれるのは、その人に対して大切なことが告げられるときです。ダマスコに向かっていたサウロ(パウロ)に、主イエスは「サウル、サウル」(使徒9:4)と呼びかけましたし、神の山ホレブに来たモーセに、主なる神は「モーセよ、モーセよ」(出エジプト記3:4)と呼びかけました。ここでも主イエスはマルタに大切なことを告げようとしているのです。主イエスはマルタを愛され、「マルタ、マルタ」と呼びかけ、大切なことを告げられたのです。主イエスは「あなたは多くの奉仕のことで思い悩み、心を乱しているけれど、しかし、必要なことはただ一つだけである」と言われます。ただ一つの必要なこと、決して欠くことができないこと、それが、主イエスの言葉を聞き続けること、赦しと救いを告げる主の言葉を聞き続けることにほかなりません。マルタは主イエスを信じ受け入れ、その救いの恵みに感謝し主イエスに奉仕しました。それはとても大切なことです。決して軽んじてはならないことです。しかしマルタは「ただ一つ必要なこと」から引き離されてしまった。「ただ一つ必要なこと」を見失ってしまったのです。だから奉仕のために思い悩み、心を乱したのです。それに対してマリアは、ほかのどんなことにも優先して主の言葉を聞き続けたのです。ほかのどんなことにも優先して赦しと救いを告げる主の言葉を聞くことこそが「ただ一つ必要なこと」です。マリアはそこから引き離されることがなかったのです。

主に望みをおき御言葉を待ち望む
今朝私たちに与えられたもう一つの御言葉は詩編130編です。この歌は、都に上る歌と1節の説明にあるように、都に上る人たちが、おそらく、この歌を口ずさみながら神殿に上って行ったのだろうということが想像できます。みんなこの詩篇の歌を歌いながら、大丈夫、神さまは私たちを赦してくださるお方だからと、心にとめながら、礼拝に出かけて行った歌だということなのです。イスラエルの人々はこの時代、年に数回、神殿に出かけていって礼拝を捧げることを心待ちにしていました。それぞれ、その歩みの中で、自分が落ち込んでしまうことがある。深い淵に落ち込んでしまっているような気持になることがある。そういう時に、エルサレムの神殿で行われる礼拝に出かけていって、自分がリセットされるかのように、もう一度、神の御前に出て、新しく生活の仕切り直しをするということができることを心待ちにしていたのです。130編の5節は次のように歌っています。
5わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。
待ちに待っている。自分がもう一度回復することを待ち望んでいるのですが、自分がそうやって、神殿に出かけて行って、主の御言葉を聞くことを待ち望んでいるというのです。神の言葉を聞くことだというのです。この祈り手は、何を待ち望んだのかというと、神の言葉だというのです。神の言葉こそが、私を生かすことになるということを、この祈り手は知っています。自分を本当に生かすものは、自分が集めてきた知識や、経験や、人間関係ではなくて、神の言葉なのだと歌っているのです。この祈り手は神がそのみ言葉に従い、救いを与えてくださるように、「見張りが朝を待つにもまして」希望と期待をもって待つと歌っています。

み言葉に聞き入る
主イエスはマルタに、「あなたのしていることは意味がない」などと言っているのではありません。そもそも、何度も繰り返し申していますように、マルタは主イエスを迎え入れ、奉仕するという信仰に生きている人です。彼女の奉仕は、主イエスに従う者たちにとってとても大事なことなのです。意味がないとか必要ないなどということは絶対にないのです。主イエスがマルタに望んでおられるのは、彼女がそのおもてなし、奉仕を、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなくて、本当に喜んで、自発的にしていってほしい、ということです。そして、そうなるために必要なただ一つのことを主イエスは教えて下さっているのです。それが、マリアのように、主イエスの足もとに座って、その御言葉に聞き入ることです。主イエスはどのような御言葉を語っておられるのでしょうか。それは、主イエスご自身において、神の国が、つまり神の恵みのご支配が、確立しようとしているということです。人間の力や努力によって神の国を築いていかなければならないのではなくて、神が、その独り子をこの世に遣わし、その方によって神の国を実現し、そこに私たちを招いて下さるのです。その神の国の実現のために、主イエスは今エルサレムへと、つまり十字架の苦しみと死、そして復活と昇天へと歩んでおられます。神の独り子である主イエスが、私たちと同じようにこの世を歩み、そして私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、神の国、神の恵みのご支配は実現するのです。主イエスを信じ、従っていくとは、この主イエスのもとに集い、その足もとに座って主イエスの語られる御言葉に、神の恵みのご支配の到来を告げる福音に聞き入ることです。そしてその御言葉を本当に聞いた者は、先週の「善いサマリア人」の話の最後のところにあったように、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの励まし、勧めを受けるのです。主イエスの愛の業に倣う奉仕は、この主イエスの励ましの中でこそなされていきます。主イエスによって実現する神の国、神の恵みのご支配を告げる御言葉に聞き入り、それを本当に受け止めることによってこそ、私たちは本当に喜んで、自発的に、奉仕に生きることができるのです。「必要なことはただ一つだけである」という主イエスのお言葉は、そのことをマルタに、そして私たちに教えています。祈ります。

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