3/2説教「ペトロを見つめる主の眼差し」

ペトロの否認
次週の礼拝から受難節(レント)に入ります。私たちは今、ルカによる福音書から御言葉を連続して聴いていますので、今日からルカによる福音書の受難の個所から御言葉の恵みを受けたいと思います。今朝の新約聖書箇所はルカによる福音書22章54節から62節の個所、つまり「ペトロが三度主イエスを知らないと言ったことで有名な個所です。ペトロは12弟子の筆頭であり、初代キリスト教会の中心的人物です。そのペトロが、主イエスが捕えられ裁判を受けている時、主イエスを三度知らないと否認したことを聖書は伝えています。なぜペトロは主イエスを裏切ったのか。また主イエスを裏切ったそのペトロがやがて挫折から立ち直り、教会の創立者といわれるほどの者になったのか。どのようにしてペトロは挫折から立ち直れたのか、御言葉から聴いて行きたいと思います。
主イエスと弟子たちは最後の晩餐を終えて、一晩を過ごすためにオリーブ山に行きました。そこに大祭司から派遣された兵士たちが来て、主イエスを捕えます。一緒にいた弟子たちはみな逃げ、ペトロも逃げましたが、主イエスのことが気にかかり、「遠く離れて従った」(22:54)と記されています。ペトロは「イエスに従った」、それは主イエスを愛していたからです。しかし「遠く離れて」様子を見ていたのは、自分も捕えられることを恐れていたからです。ペトロは大祭司の屋敷の中庭まで入り込み、人々が火にあたりながら主イエスを見張っている所まで行きました。主イエスは夜中に捕らえられ、夜が明けるまで大祭司の中庭に拘留され、その間、兵士たちから暴行や侮辱を受けていたということが63節以降に記されています。その大祭司の中庭にペトロは忍び込んだのです。彼は目立たないように身を潜めて、主イエスの様子をうかがっていました。
ある説教者はこう言っています。ペトロが受けた誘惑、つまり主イエスを否認してしまったことは、彼が主イエスを愛する思いから勇気をもって行動したことから起こったことだと気づかされたと言っています。ペトロは危険だと分かっていながらも主イエスについて行ったのです。ペトロとヨハネ以外の弟子はさっさと逃げて行きました。ペトロは主イエスのことが心配で、怖い中でもついて行ったのです。そしてバークレーという学者はこう言います。「ペトロはなるほど誘惑に負けはしましたが、それはいわば勇気ある人にのみ与えられた誘惑であった。勇敢な人はそれだけ、安逸を求める人間より危険な目に会うことが多い」と言っています。
ところで、大祭司の屋敷の中庭で焚き火がたかれていました。その焚き火の明かりがペトロの顔を照らし出します。すると、そこにいた女中の一人が、ペトロが焚き火に照らされて坐っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」(22:56)と告発します。ペトロは予想もしない所からの指摘にあわてて、「私はあの人を知らない」(22:57)と言いました。最初の否認です。ペトロは最後の晩餐の席上で、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(22:33)と言っています。彼は主イエスと一緒に死ぬ覚悟だったのです。だから他の弟子たちが逃げ去っていった中で、危険を冒して大祭司の屋敷まで追って来ました。そのペトロの覚悟が女中の一言で吹き飛んだのです。女中に指摘されて、ペトロは身の危険を感じ始めます。すると火の周りにいた他の者が、「お前もあの連中の仲間だ」と告発します。ペトロは「いや、そうではない」と否定します。二回目の否認です。人々は疑わしそうにペトロを見つめ、別の人が言います「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」(22:60)と言ったのです。ペトロの言葉の中にガリラヤの訛りを聞いたのでしょう。ペトロはそれをも否定します「あなたの言うことは分からない」と(22:60)。そして、ペトロがまだ「言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた」とルカは記しています。その鳴き声でペトロは我に帰ります。そして主イエスが言われた言葉を思い出しました。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」(22:34)。その時「主は振り向いてペトロを見つめられた」(22:61)とルカは記しています。主イエスの悲しげな顔がペトロに迫って来ました。ペトロは「外に出て激しく泣いた」(22:62)とルカは記しています。これがペトロが主イエスを三度否認したあらましです。

主イエスの眼差し
ところでペトロはどのタイミングで主イエスの「今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」との言葉を思い出したのでしょうか。鶏が鳴いたことがきっかけとなって思い出したのでしょうか。おそらく違うでしょう。61節に「主は振り向いてペトロを見つめられた」とあります。「見つめられた」と訳された言葉は、ここでは「一瞥した」というよりも「目を注がれた」という意味に近いでしょう。主イエスは確かにまっすぐにペトロ自身を見つめたのです。この主の眼差しによってペトロは我に返って、主イエスの言葉を思い出したのです。「今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」との言葉です。自分はそんなことにはなるまいと思い、他の人がつまずいても自分だけは大丈夫だと言ったのに、主イエスの言われた通りになったのです。そして、主イエスの言葉を思い出した時、自分のしたことの重大さに気づき、彼は外に出て激しく泣きました。ペトロは激しく自分を責め、後悔し、自分を憎んだかもしれません。
この話において、マタイ、マルコによる福音書とルカによる福音書が最も大きく違っている点は、次の61節です。「主は振り向いてペトロを見つめられた」。ペトロが三度主イエスを知らないと言ったとたんに鶏が鳴いた。その声を聞いた主イエスは、振り向いてペトロを見つめられたのです。この場面に主イエスご自身を登場させているのはルカによる福音書だけです。主イエスはペトロがこの中庭に来ていることをご存じであり、鶏が鳴き、あの予告が実現したことを知ると共に、ペトロを見つめられたのです。その主イエスのまなざしを受けて、ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という主のお言葉を思い出し、外に出て、激しく泣いたのです。ところで、私たちは、ペトロのここでの心の動きについていろいろと自問自答するわけですが、しかしそういう自問自答よりも、聖書が、このルカによる福音書がここで何を語ろうとしているのかを正しく読み取ることが大事です。この箇所においては、主イエスが振り向いてペトロを見つめられた、するとペトロは主の言葉を思い出した、ということが大事です。ペトロが主の予告の言葉を思い出したのは、鶏の鳴く声を聞いて「そういえば主はああ言っておられた」と思い出したのではありません。「主は振り向いてペトロを見つめられた」、それによって彼は主の言葉を思い出したのです。この時、この大祭司の家の中庭で、主イエスとペトロの目が合ったのです。周りの人々は誰も気付いていない中で、いわゆる「アイ・コンタクト」が生じたのです。そのことが、ペトロに大きな衝撃をもたらしたのです。それこそが、ルカがここで語ろうとしている最も大事なことだと思うのです。
ペトロを見つめた主イエスのまなざしは、彼を叱責していたのではなくて、むしろ、22章31、32節のみ言葉をもう一度彼に語りかけていたのではないでしょうか。それは「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という御言葉です。シモン・ペトロは今、まさにサタンのふるいにかけられ、その試練の中で信仰の挫折に陥り、主イエスとの関係を否定し、弟子として従っていくことができなくなってしまったのです。そういうことが起ることを、主イエスはご存知でした。ペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言いましたけれども、そのペトロの覚悟など、サタンによる試練の中ではひとたまりもないことを主イエスは知っておられたのです。そういう弱いペトロを、主イエスは責めたり、断罪して見放そうとしておられるのではなくて、むしろ彼のために、彼の信仰が無くならないように、祈って下さっているのです。振り向いてペトロを見つめた主イエスのまなざしは、ペトロのためのこの祈りをこそたたえていたのではないでしょうか。ペトロは、主イエスのまなざしに、三度「知らない」と言ってしまった自分のためになお祈っていて下さる主イエスの慈しみをこそ見たのではないでしょうか。「信仰が無くならないように」というのは、ペトロと神との、そして主イエスとの、関係が失われてしまわないように、つながりが断ち切られてしまわないように、ということです。ペトロは、主イエスのことを「知らない」と言ってしまい、主イエスとの関係を、自分で断ち切ってしまったのです。しかし主イエスは、その関係を、どこまでも保ち続けようとしておられます。そのために祈って下さっています。その祈りの一つの具体的な現れが、42節の御言葉、オリーブ山で主イエスが祈られた「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りです。試練の苦しみの中で信仰を失い、神との関係を断ち切ってしまう人間の罪を、神の独り子である自分が背負って十字架にかかって死ぬことによって、彼らの罪が赦され、神との関係が保たれる、それが父なる神のみ心であるなら、そのみ心に従って十字架への道を歩み通そう、そういう祈りの戦いを主イエスは戦って下さったのです。これこそが、私たちの信仰が無くならないようにとの主イエスの祈りです。

罪の重みがわかる時
私たちが自分の罪の重みがわかる瞬間というのはどんな時でしょうか。心の傷をそれぞれ持っているかもしれません。私は今でもドキッとする思い出があります。市役所を退職し、愛知県のある都市で不動産管理の仕事をしている時、同僚の社員がある工場物件の家賃の回収をしていたのですが、おそらく賃借人から脅かされたかなにかで自分で家賃を立替えていて、金額が大きくなって分かってしまい、問題になり会社を辞めることになりました。その際、会計課のある女子社員が、他にも立替えている社員がいます。と言ったのです。その時,私も締めに間に合わない家賃回収を立替えていたのです。その後、私は建築営業の部署に入り、一時、大きな契約を取ったりして優秀社員としてハワイ旅行にも招待されたりで、すっかり忘れましたが、自分の罪を知っている人がいたというその時の心の衝撃は今も鮮明に覚えています。自分の不正が暴かれそうになったケースです。しかし罪の重みがよくわかる瞬間というのはいろいろなケースがあると思いますが、以外にも厳しく責め立てられた時ではないのです。責められている時ではなく、自分の罪の問題に対して誰かが痛みを担って受け止め、自分のために心を痛めてくださっている愛に触れた時に、私たちは本当の意味で自分の犯した罪の重みや自分のした事に意味を知ることがあるのです。
ある方が、こういう話をしています。まだ小学校低学年だった頃、彼のほんの出来心から万引きをしてしまったのです。しかし、それから心がチクチクと痛んで仕方がなくなり、ついに勇気を出してお母さんに告白したのです。お母さんはクリスチャンでした。彼はお母さんにひどく怒られるだろうと覚悟しました。ところが、お母さんはひどく怒る代りに、一緒に神様に祈ろうと言いました。本当に胸を痛めて彼のために涙を流しながら祈ってくれたそうです。「神さま、この子は本当に大きな罪を犯してしまいました。どうぞおゆるし下さい」と。彼は自分のしたことが、こんなにも母親を悲しませ、神さまを悲しませるものであったことに気づきました。怒られ責められるよりもずっと自分の罪の深刻さを感じ、悔い改め謝罪に行くことができたそうです。
ペトロもそうだったのではないでしょうか。主イエスに厳しく叱られたのなら、彼は激しく涙することにはならなかったと思います。実際ペトロは主イエスに「下がれサタン、あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と諫められたことさえありましたが、その時は泣いた様子はありません。しかし、主の愛をその眼差しから感じられたからこそ、彼は心の底から自分の罪深さに涙したのでしょう。

主イエスの眼差しの中で
ペトロはそういう、とりかえしのつかない罪の悲しみの中で激しく泣いたのです。ある意味で彼はここで本当に絶望したのです。望みを失ったのです。自分の中にある、自分の力でどうにかすることのできる望みの根拠はもう何もなくなったのです。しかしそのように全ての望みを失った彼を、主イエスのあの祈りがなお支えているのです。彼がその祈りによって立ち直ることができたのは、この時ではありません。そのためには主イエスが先ず、十字架にかかって死ななければならなかったのです。そして復活しなければならなかったのです。次にペトロが登場するのは、主イエスの復活が告げられたその場面です。彼のために十字架にかかって死に、そして復活して下さった主イエスがもう一度彼と出会い、招いて下さることによってこそ、彼はこの涙から、絶望から立ち直り、主イエスを信じ、従っていく者として新たに立つことができたのです。ペトロがそうだったように、試練の苦しみの中で私たちはまことの弱い者であり、自分の決意や覚悟などすぐにどこかへ吹き飛んでしまう者です。とりかえしのつかない罪の中で激しく泣かざるを得ない者です。しかしその私たちの信仰が無くなってしまわないために、主イエスが祈っていて下さり、私たちとのつながりを保ち続けて下さるのです。そのことを語っている主イエスのまなざしの中で生きることが、私たちの信仰であり、そこにこそ、私たちの絶望を乗り越える救いがあるのです。お祈りします。

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