3/16説教「主イエスの沈黙」<動画>

真実の沈黙
私たちの信仰は、言葉を重んじる信仰です。キリスト教は言葉の宗教と言われます。私は長老教会で育ち、洗礼を受けましたが、長老教会というのは、教会政治の面からの言い方で、つまり教会にあっても物事を決めるには会議制度をとっているということであり、それは日本基督教団にあっても同様です。ただ長老制度は、教会総会で選ばれた長老による会議である長老会が教会政治の中心になるわけです。大磯教会が創立以来、日本基督教団の教会になる前までは日本メソジスト監督教会に属していました。その教会は教会政治的には監督制といって監督が牧師を派遣し伝道を行なった。そして教育・福祉活動にも熱心であったわけです。そしてもう一つ会衆派といって教会総会で主要なことを決めていくという日本では組合教会と言いましたが同志社系の教会もあります。この会衆派では信徒も牧師も基本的に同じ立場で決めてゆきます。つまり教会を運営する政治制度としては色々あるわけです。その一方で、私たちは福音宣教にあたっては「改革教会」とも呼ばれるのです。この「改革」とは何かといえば、「御言葉によって常に改革されていく教会」という意味なのです。聖書によって改革されていくということです。主イエス・キリストに対する信仰を、聖書の証言と信仰告白とによって明らかにする。そういう信仰の立場で大磯教会は礼拝を守ってきましたし、今もそうです。先週の13日の木曜日に横浜指路教会で葬儀があった鳥羽和雄牧師もそうですし、都留牧師もそうです。一方で他の教会の立場からは、言葉が多すぎる。説教の説き明かしばかりを重視している。祈りが足りない。伝道が足りない。聖霊の働きを求めていないなどの批判を受けることもあります。言葉を重んじる信仰ということは、私たちがいつでも心に留めておかなくてはならない大切なことです。しかし今朝の説教題にもなっていますが、「主イエスの沈黙」と言う言葉を聴きながら改めて問わなければならないことは、言葉を重んじるということが沈黙を軽んじるということになっていたら、それもまた困ったことなのです。沈黙とは言葉を発しないことですが、それは言葉を話さないというよりも、言葉を聴くために黙るといったほうがいいでしょう。一般にプロテスタント教会は沈黙ということをあまり意識はしていません。しかしカトリック教会には沈黙を重んじる生活があります。教会の歴史において沈黙がさまざまな意味で重んじられてきたのです。特に大切なことは礼拝における沈黙です。特に大切なことは聖餐における沈黙です。その中でも私たちも聖餐式の間は静かに沈黙して聖餐を祝いますが、この聖餐に与るときに黙ってその時を持つことは大切だと思います。
もともと現在の私たちの生活には沈黙の時間があまりありません。私たちは会話がないこと、音がないことを恐れているところがあります。どちらかというと、のべつまくなしに喋っている。それよりも、私たちは静寂に耐えられないところがあるのかもしれなとも思います。私たち一人ひとりの生活において、真実の沈黙が、どれだけ大切な位置を占めているかということを改めて問い直してみることが必要でしょう。そういう意味で今朝、私たちに与えられた御言葉、ルカによる福音書23章1~12節から、まことの沈黙、充実した沈黙とは何かを問いつつ、何よりも主イエスの沈黙に深く心を注ぎたいと思います。

総督ピラトのもとで
23章は「そこで」と始まります。最高法院における有罪の判決が下った、そこで、それを受けて次の行動が起されたのです。それが「全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」ということです。ポンティオ・ピラトは、エルサレムを中心とするユダヤの総督として、ローマ皇帝ティベリウスから派遣されていました。最高法院の人々は、このピラトのもとに主イエスを連行したのです。そして2節にあるように、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と言って主イエスを訴えたのです。先週も言いましたが、ローマ帝国の支配下に置かれている今、ユダヤ人の最高法院は宗教的な決定しか下すことができません。政治的な影響の大きい事柄については、総督の判断を仰がなければならなかったのです。彼らの願いはイエスを死刑に処して抹殺することですが、民衆の間で影響力の大きかったイエスを死刑にすることは、彼らだけの判断ではできなかったのです。それで総督ピラトに裁いてもらおうというわけですが、ローマの総督に訴え出るためには、それなりの理由が必要です。最高法院の思いにおいては、主イエスが自分を神の子であると言ったというだけで死刑に当る罪だということになるのですが、それは総督ピラトには通じません。ローマ帝国の総督は、そのようなユダヤ人の間の信仰の問題に口を出すつもりはないのです。ピラトに裁いてもらうためにはもっと政治的な、ローマの支配と権威に触れるような罪状でなければなりません。そのために彼らが持ち出したのが、「わが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っている」ということでした。この男はユダヤ民族を惑わし、ローマの支配にとって都合の悪い影響を与えているということです。具体的には、皇帝に税を納めることを禁じている、と言っているのです。しかし主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。それは皇帝に税を納めることを禁じているのではなくて、むしろ認めている言葉です。しかし彼らはこれを曲げて理解し、主イエスが皇帝に税を納めるのを禁じた、と言っているのです。さらに、「自分が王たるメシアだと言っている」ともあります。主イエスがメシア、つまりキリスト、救い主であることだけではピラトに訴える口実になりません。そこで彼らはそこに「王たる」という言葉をつけ加えたのです。主イエスを、ローマ皇帝の支配を否定し、自らが王となろうとしている者として訴えたのです。つまり、主イエスはローマに税金を納めることを禁じ、自分が王となろうとすることによってローマの支配を否定している、そのように人心を惑わしている者だ、と訴えたのです。主イエスを、ローマ皇帝の支配を否定し、自らが王となろうとしている者として訴えたのです。つまり全体としては、イエスはローマに税金を納めることを禁じ、自分が王となろうとすることによってローマの支配を否定している、そのように人心を惑わしている者だ、と訴えたのです。

問いに答えない主イエス
この訴えを受けたピラトは主イエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と問いかけました。イエスが自分は王だと名乗るとしたら、それは総督としては見過ごすことができないわけです。主イエスはこのピラトの問いに対して、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。そして、主イエスは「お前がユダヤ人の王なのか」と問われて「それは、あなたが言っている」とだけ答える、それは否定でも肯定でもない、要するに答えになっていないのです。主イエスはピラトの問いに対しては答えておられないのです。

領主ヘロデのもとで
しかしピラトはこれを聞くと、主イエスを連行してきた祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いました。ピラトは、ユダヤ人の指導者たちが主イエスを訴えてきたのが、ローマの支配の安定のためなどではないことが分かっているのです。だから、主イエスが「自分はユダヤ人の王である」とはっきり言わない限り問題にするつもりはないのです。しかしユダヤ人たちはあきらめません。「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張ったのです。ピラトはこの「ガリラヤから始めて」という言葉に注目します。イエスがガリラヤの出身なら、ヘロデの支配下にある者だから、ヘロデに判断させよう、ということで、丁度エルサレムに滞在していたヘロデのもとに主イエスを送ったのです。「そちらの管轄だから」と言ってめんどうな一件を余所へ回そうということです。このヘロデはピラトから主イエスが送られて来たことを非常に喜びました。なぜなら8節に「イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」とあります。ヘロデがイエスを見たいと望んでいたのは、単なる興味本位ではなかったでしょう。ヘロデの心には、自分の罪におののき、主イエスを恐れる思いがあったのだと思います。恐れているがゆえに、相手がどのような者か確かめたいと思っていたのでしょう。しかしヘロデがいろいろ尋問したことに対して、主イエスは何もお答えになりませんでした。勿論、何のしるしも、つまり奇跡もなさらなかったのです。その結果ヘロデは、11節にあるように、「自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した」のです。こんなやつ恐れるに足りなかった、と思ったのです。恐れはあざけりの思いに変わり、「王なら王らしく立派な衣を着せてやろう」という侮辱を加えてピラトのもとに送り返したのです。

主イエスの沈黙
私たちがここで注目すべき最も大切なことは、主イエスが、ご自分を裁いているピラトの前でもヘロデの前でも、沈黙を守っておられる、ということです。ピラトの問いに対しては、「それは、あなたが言っていることです」という答えにならない一言を語るのみでしたし、ヘロデの前ではもはや何もお答えにならず、全くの沈黙を貫かれたのです。つまり、ピラトやヘロデが問題としているのは、彼らの握っている政治的権力のことでしかありません。主イエスはそのようなことについては何も語ろうとはなさらないし、問いかけることもなさらないのです。王となろうなどとは少しも考えておられないのです。これが、ピラトやヘロデの前で主イエスが沈黙しておられたことの第一の理由です。けれども、主イエスの沈黙をそのようにのみ捉えることは正しくありません。この沈黙は、興味のないこと、語る必要のないことについては黙っていた、というだけのことではないのです。

沈黙して神に向かう
沈黙する、ということは聖書において大事な、また積極的な意味を持っています。そのことを語っている代表的な箇所の一つが、今朝共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第62編です。その2、3節と6、7節はこの詩における折り返し、リフレインとなっています。2、3節には「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」とあります。6、7節には「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない」とあります。いずれにおいても、沈黙することは、ただ神に向かい、神による救いをこそ求め、そこに希望を置くことを意味しているのです。聖書において沈黙するとは、ただ語るのを止めて黙ることではありません。あるいは自分の内面を見つめ、いわゆる内省をすることでもありません。沈黙するとは、人間との関係、関わりから目を離して神に向かうことです。人間の言葉を語り、聞くことをやめて神の御言葉に耳を傾けることです。そこでこそ「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔」ということが示され、「わたしは決して動揺しない」という力強い歩みが与えられるのです。詩編の詩人は、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と言っているのです。この詩人の思いは、ピラトやヘロデの前で沈黙しておられた主イエスの思いでもあったのではないでしょうか。主イエスは沈黙して、ただ父なる神様のみを見つめつつ、神の独り子であるご自分を裁き、罪があるとかないとか、信じられるとか疑わしいとか言っている人間の空しい傲慢な言葉に耐えておられたのです。そしてただ我慢しておられただけではなく、それらの人間の罪をご自分の身に背負って、十字架の死への道を歩んでおられたのです。主イエスが罪のない方でありながら、人間の裁きを受け、その中で沈黙してただ神に向かい、神にのみ望みを置いて十字架の死へと歩み通して下さったおかげで、私たちは罪を赦され、新しくされて、空しい偽りの言葉ではなく、互いに愛し合う新しい言葉を語っていくことができるようになったのです。

わたしは決して動揺しない
私たち自身も、主イエスがピラトやヘロデの下で体験なさったように、人々に裁かれ、人間の言葉、口先で祝福し、腹の底で呪うような欺きの言葉によって傷つけられています。傷つけられる苦しみ悲しみを知っているはずの自分も、そのような言葉を語り、人を傷つけてしまうことを繰り返しています。そのような罪深い私たちのために、主イエスは罪がないのに人間による裁きを受けて下さり、その苦しみの中で沈黙してただ神に向かうという模範を示して下さいました。私たちも神のみ前に沈黙して、そのみ言葉を聞くことを追い求めていきたいと思います。

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