3/23説教「群衆のいらだち」

はじめに
今朝の説教題は「群衆のいらだち」という題です。人間は誰でも状況によって苛立ちます。体調が悪い時、いろいろなことで精神的に追い詰められている状況の中でいらだつことがあります。わたくし事ですが、10年前に私が二宮に住宅を持った時、隣接する住人とどうもうまくいきませんでした。ゴミ出しの仕方が悪いだとか、どういうわけかクレームを付けられることが多かった気がします。苛立たせることを私もしていたのかもしれません。10年経った今は、幸いどことも良い関係になっています。共通の問題で理解し合ったり、組長を2度も務めてお互いに理解し会えてきた結果だろうと思います。国家や民衆との間や国同士の間でも苛立ちから争い、戦争が起こります。現に起きています。ウクライナを一方的に侵略したロシアが非難されるのは当然ですが、兄弟のような隣接の国、ウクライナまで資本主義陣営に入りNATO加盟の脅威に苛立ちが頂点に達したということなのでしょう。私たちの苛立ちはさまざまなところにあります。インターネットは便利で役立ちますが、オーストラリアではSNSを16歳未満の子供たちには規制するという法案を出すようです。日本でも子供たちにスマホの利用を規制したりしています。ネット依存の弊害、ゲーム依存の問題が言われています。使い慣れていない高齢者には縁がないことと思っていましたが、そうではないことに気が付きます。所得税の確定申告でも盛んにパソコン・スマホを使っての申告を勧めています。レストランに入ってもタブレットで注文しなければなりません。スーパーのレジでも慣れないと大変です。便利になっているわけだし、人件費削減のためには良いことなのでしょう。しかし、時代に乗り遅れている人にとっては苛立ちの募ることばかりです。先日、自動車運転免許の更新のはがきが来ました。スマホを持って行かないと不利になるし、今後はマイナンバーカードが運転免許証になるようです。今月あった西湘南地区の牧師会での発表テーマは「説教のAI活用です」ここまで来たかという感じいですが、私自身もすでにインターネットを活用して説教原稿を作っているのですから、苛立ちを無くすには、もはやAI、スマホの達人になるしかなさそうです。
受難節に入って、私たちはルカによる福音書から主イエスの受難について御言葉の恵みをいただいています。今朝もルカによる福音書23章13節からその説き明かしを与えられたいと思います。主イエスを十字架刑へと追い込んだ民衆の苛立ちはどういうものであったのか、その背景を知ることも大切です。早速御言葉の恵みに与りましょう。

総督ピラトの判断
主イエスはユダヤ教の最高法院で死刑の判決を受けた後、ユダヤを統治していた総督ポンティオ・ピラトのもとに連行され、尋問を受けられました。ピラトは主イエスをガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのもとに送り、ヘロデも主イエスを色々と尋問しましたが、主イエスは沈黙を貫かれました。それでヘロデは主イエスをピラトのもとに送り返したのです。すると今朝の箇所の冒頭13節にあるように、ピラトは「祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集め」て、このように言いました。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」と。
そして、その取り調べの結果、彼らが訴えているような犯罪は主イエスには何も見つからなかった、とピラトは説明しているのです。ピラトの説明は実に冷静で、理性的な、説得力のある説明です。さらにピラトはこの判断が自分一人の判断ではないことにも言及します。あのガリラヤの領主ヘロデも同じ意見であった、と言うのです。ガリラヤ出身のイエスを管轄している、あのガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスですら、自分と同じ意見であった。だからヘロデは主イエスを自分のもとに送り返してきたのだ、と説明したのです。このように丁寧に説明した上で、ピラトは結論を述べます。「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」。ピラトは主イエスの無罪放免を主張したのです。このピラトの判断は感情的ではない、あくまでも取り調べに基づいた理性的な判断であり、しかも自分一人の判断ではなくヘロデの支持を得た判断でした。ルカによる福音書は、ピラトが取り調べに基づいて理性的に判断したことを語ることによって、主イエスがローマの法に照らして無実であったことを強調し、また総督ピラトが主イエスの無実をはっきり認めたことを強調しているのです。
そして今日の箇所は、いよいよ主イエスに対して死刑判決が下される場面です。前回、私達は総督ピラトとガリラヤ領主ヘロデが主イエスを尋問する場面を読みましたが、そこには自己保身や責任転嫁する人間、身勝手で傲慢な人間の姿を見る一方で、二人の権力者の間で沈黙する主イエスの姿を見ました。主イエスの中に、真実の問いに対してのみ応える主の真実と二人の罪を負う救い主の憐れみを見たのでした。そして今朝与えられた聖書の場面では、その後ピラトがユダヤの指導者と民衆の前で主イエスが無罪であることを公言します。ところが、そのことに対して民衆が、暴動と殺人のかどで死刑判決を受けたバラバを釈放せよ、イエスを殺せ、と叫び出します。ピラトは主イエスの無罪を主張し、民衆を説得しようとしますが、民衆の叫びはますます大きくなり、ついに、ピラトは主イエスに対する死刑を認める判断を下します。そのようにして、罪なきイエス・キリストが十字架に架かるという理不尽な判決が下されたのでした。

聖書が語る3つのメッセージ
ここには3つのメッセージが込められています。第一のメッセージは、総督ピラトの判決を巡ってのメッセージです。それは、人は弱さとずるさという罪を抱えているということです。ここでピラトは「訴えているような罪は何も見つからなかった」「死刑に当たるようなことは何もしていない」と確信をもって主イエスの無罪を公言しました。ピラトは、祭司長らが主イエスを引き渡したのはねたみによってであることを知っていました。ところが、民衆が騒ぎ出し、「イエスを十字架につけろ」という叫びがますます大きくなっていった。それで、ピラトは民衆の要求に負けて、主イエスを死刑にすることを認めます。ピラトは最高権力者として法的秩序を、そして正義を守るべきなのです。それなのに民衆の理不尽な要求を受け入れた。それはなぜでしょうか。それは民衆の騒動・暴動が起きるのを恐れたからです。面倒なことは避けたい。事件を起こしたくない。それは治安の面だけでなく、総督としての責任を問われたくないという思いがあったからではないでしょうか。ここにピラトの弱さ、そしてずるさがあります。これは私たちも経験していることです。面倒なことに巻き込まれたくない、という想いです。このピラトの姿は、私たちの姿を表しています。福音書記者ルカは、ピラトの姿を通して、弱さ、ずるさという人間の罪を明らかにしているのです。
第二のメッセージは、民衆のとった行動を通して示されているメッセージです。それは「流されすい人間の弱さ、つまり罪」の問題です。ここで総督ピラトは「イエスは無罪だ」と公言しました。それに対して民衆は「バラバを釈放せよ、イエスを十字架につけろ」と叫びます。それはマルコによる福音書15章11節にあるように祭司長らが扇動したからです。民衆は背後にある力によって動かされ、ある方向に流されていったのです。民衆の心の中には「反ローマ」の感情、ユダヤの独立を願う民族主義的・愛国的情熱がありました。その思いに火を着けられ、バラバを支持する人々が叫び出したのです。そのように、ある感情、反感や憎しみ・憎悪、怒りに火が付くと民衆は暴走していきます。これは、実に、現代に起こっている出来事と重なります。2001年9月11日に起こった同時多発テロ。あの時、米国では「これは米国への攻撃だ、戦争だ」として国民の9割以上が支持をしてアフガニスタンへの攻撃、イラク戦争へと、一気に突き進んで行きました。それは多数の犠牲者を生み出し、新たなテロの温床を作りだしました。また1918年、第一次世界大戦で敗れたドイツではワイマール憲法が採択され、民主主義体制・ワイマール体制ができましたが、その後、ナチスが登場し、1933年、ついにヒトラーが首相となるナチス体制ができ、戦争へと突き進んで行きました。それは敗北感・屈辱感を抱えたドイツ国民にドイツ民族の優秀性を訴え、他方、ユダヤ人などに対する憎悪を増大させ、民心をつかんだからです。私たち庶民は流されやすいのです。特に集団となった時に理性を失い、扇動者によって先導されるとあやつられていく。そのような民衆のもつ弱さという罪を今日の記事は教えているのです。
それでは、この時、主イエスはどうされていたでしょうか。今朝の御言葉の第3のメッセージは、主イエスが伝えているメッセージです。この時、主イエスはピラトと民衆のやり取りを静かにご覧になっておられたのです。ピラトと民衆の姿をじっとご覧になり、人間の罪を感じておられたのです。同時に十字架へと導いておられる神のご計画をお感じになり、十字架への道を引き受ける覚悟をしておられたと思います。ピラトの罪、また民衆の罪を引き受ける覚悟をし、死刑判決を受けたバラバの罪を担う覚悟をしておられたはずです。それは後に十字架上で祈られた「父よ、彼らの罪をおゆるしください」の祈りから分かります。特に、有罪のバラバの罪を無罪の主イエスが引き受けられたことに、私たちの罪が主に担われたことを教えています。主イエスはすべての人の罪を担われた方なのです。

イエスではなくバラバを
さて、16節の次に17節はなくて18節になっていることにお気づきでしょうか。そしてその間にメダカのような記号があります。これは実はメダカではなくて短剣なのだそうですが、この印は、今読んでいるルカ福音書の後ろのところ、162ページを見なさい、という意味です。そこを開いてみますと、「底本に節が欠けている箇所の異本による訳文」とあって、二つの節が並べられています。その二つ目が23章17節です。いくつかの写本を比較検討して、より元の形に近いものを求めていく学問があります。その成果として、現在のところ最もオリジナルに近いものと思われる「底本」が定められ、それをもとにして翻訳がなされるのです。ですからその研究の進展と共に少しずつ変化していきます。その変化において、以前は入っていた節が、今では後から付け加えられたものだと判断されて外されることがあります。外された節はそれぞれの書の終わったところに並べられているのです。23章17節がその一つです。162ページによれば、そこには以前は「祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった」という文章があったのです。
この17節は18節で人々が叫んだことの内容を理解するために必要です。人々は「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と要求したのです。なぜこのような要求が出てくるのか、それはこの17節なしには分かりません。「祭り」、それは「過越祭」のことですが、その時に総督ピラトはユダヤ人の囚人一人に恩赦を与え、釈放するならわしとなっていたのです。このならわしをバラバに適用するように人々は要求したのです。ルカ福音書のこの語り方ですと、ピラトの思いとユダヤ人たちの思いとの間にはずれがあることになります。つまりピラトは、主イエスが無罪だから釈放しようとしたのに対して、ユダヤ人たちは、ピラトが過越祭における恩赦を主イエスに適用しようとしていると考え、イエスではなくバラバを釈放するように要求したのです。そのように叫んだのは「人々」であると語られていますが、今ピラトの前には、主イエスを訴えた祭司長や議員たちという指導者たちのみでなく、「人々」つまり民衆が呼び集められているのです。その「彼ら」が、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだのです。その「民衆」はしかし、つい数日前までは、19章48節にあったように、「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていた」その人々です。だから祭司長、律法学者ら民の指導者たちも迂闊に主イエスに手を出せなかったのです。その民衆が今、イエスではなくバラバを釈放しろと叫んでいるのです。民衆は、暴動と殺人で捕えられていたバラバが生きることを求め、主イエスが十字架にかけられて殺されることを求めた、ということなのです。

ユダヤ人、神の民、私たち
ピラトは明らかに主イエスを釈放しようとしたのに、ユダヤ人の民衆が「十字架につけろ」と要求し、その声によって主イエスの十字架が決定したのです。ユダヤ人の、しかも指導者たちだけでなく、民衆の声によって主イエスの十字架が決定した、ということをどう受け止めるかが私たちに問われています。主イエス・キリストを殺したのはユダヤ人だ、だからユダヤ人はけしからん、という思いを抱き、ユダヤ人への憎しみを募らせるというのは、この聖書の記述の受け止め方を全く間違ってしまっているということです。そういう間違いを、過去のキリスト教は犯して来ました。それがナチスによるあの大量虐殺の温床となった、ということを私たちはわきまえなければなりません。聖書の読み方を間違えると、このような恐ろしいことが起こるのです。それではこの箇所をどのように受け止めるべきなのでしょうか。聖書においてユダヤ人とは、主なる神によって選ばれ、神の民とされた人々です。神の救いの歴史を担ってきた民、主なる神と共に生きてきた人々です。信仰者の群れと言い換えることもできます。そして救い主イエス・キリストが来られたことによって、その神の民は今や、主イエスを信じる信仰に生きる者たちの群れである教会に受け継がれています。私たちも、洗礼を受けて教会に加えられることによって神の民の一員とされるのです。それは私たちの手柄によってではなくて、主なる神が選んで下さり、召して下さったという恵みによって実現することです。ユダヤ人が神の民とされたのもそれと同じ恵みによってでした。ですから聖書が「ユダヤ人」と語るところに、私たちは自分自身を置いて読まなければならないのです。ユダヤ人の民衆とは私たちのことなのです。一方ピラトは異邦人です。それは信仰者でない人、主なる神を信じていない人です。信仰を持たないピラトが、「イエスは死刑に当たるようなことは何もしていない。釈放しよう」と言っているのに、神の民であり信仰者である私たちが、「イエスを殺せ、十字架につけろ」と要求し、イエスではなく、強盗殺人犯であるバラバの方を釈放しろと求めている、私たちはここをそういう場面として受け止めるべきなのです。つまり私たちはここで、あなたがた自身がこの民衆と同じことをしているのではないか、という神からの問いかけを受けているのです。
主イエスの十字架による救い
主イエスの十字架の死が誰かの責任ではなく自分自身こそが「十字架につけろ」と叫んでいる者であることを知ることによってこそ、私たちはこの主イエスの十字架の死に、私たちのための救いの恵みをも読み取ることができます。その救いの恵みを示してくれるのが今朝共に読まれた旧約聖書の御言葉、イザヤ書第53章です。ここには、見るべき面影もなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もなく、軽蔑され、人々に見捨てられ、打ち砕かれ、死んだ「主の僕」の姿が語られています。そのように苦しみの内に死んでいったこの人を、私たちは軽蔑し、無視していた、また、彼は神の手にかかって打たれ、苦しんでいるのだ、つまり神に呪われているのだと思っていた、とも語られています。つまり私たち自身が、この人を排斥し、軽蔑し、苦しめていたのです。しかし実はこの人は、私たちの病を担い、私たちの痛みを背負い、私たちの背きの罪のために刺し貫かれ、私たちの咎のために打ち砕かれたのです。この人の苦しみと、神に呪われたように思える死は、実は私たちの罪のゆえであり、私たちが受けるべき苦しみと神に呪われた死を、代って引き受けて下さったのです。この人が私たちの罪を背負い、自らをなげうち、罪人の一人に数えられて死んで下さることによって、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをして下さったおかげで、私たちに平和が、癒しが、罪の赦しが与えられたのです。私たちはこのイザヤ書の「主の僕の歌」に、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死による救いの恵みの預言、予告を見ます。父なる神は、この主の僕として、独り子イエス・キリストを遣わして下さったのです。主イエス・キリストの十字架の死に、この預言の成就、実現を見、そこに救いがあることを信じるのがキリスト教会の信仰です。主イエス・キリストは、まさにこの私のために、私の罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そのことを見つめていく時に、この主イエスの十字架の処刑の決定と共に、強盗殺人犯だったバラバが赦され、釈放されたことの深い意味も見えてきます。本来十字架につけられて処刑されるはずだったのに、主イエスが十字架にかかって死んで下さったために赦され釈放されたバラバは、まさに私たち自身の姿です。「十字架につけろ」と叫ぶ民衆こそ自分であることを示された者は、自分が主イエスの十字架の死によって赦され、救われたバラバであることをも知ることができるのです。祈ります。

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