はじめに
今日は新しい年度の最初の聖日礼拝ですが、受難節第5主日にもあたっており、今朝の聖書箇所は、主イエスが十字架の上で最も苦難を味わっている受難の個所でもあります。今年は4月20日がイースターです。それまでの期間(日曜日を除いて40日間)、この受難節に、私たちは主イエス・キリストが苦しみを受けられ、十字架で死なれたことを覚え、そしてその十字架の死の先にあるキリストの復活を見つめつつ過ごしています。しかしそう願いつつも、私たちはまことに弱い者であり、自分勝手な者であることを思わないわけにはいきません。慌ただしい日々の中にあって、私たちは受難節であっても、主イエスの十字架の死を忘れてしまうことがあります。そもそも受難節であることすら忘れてしまうこともあります。牧師館建築や、年度末で、総会の資料を作ったりで確かに忙しいのですが、それよりも自分の都合が最優先するのです。主イエスの十字架の死に目を向けるより、自分がやらなければいけないことばかりに目を向け、また自分の苦しみや悲しみ、あるいは喜びや楽しみばかりに目を向けてしまいます。キリストの十字架を見失い、軽んじてしまうのです。そのように受難節であってもなかなか主イエスの十字架に目を向けようとしない私たちに、まことにふさわしい聖書箇所が与えられています。今、まさに主イエスの十字架の場面を読み進めています。前回は、主イエスが十字架に架けられる刑場へと連れて行かれる場面を読みました。今朝は主イエスが十字架に架けられる場面を読みます。そして来週は、主イエスが十字架に架けられている最中(さなか)での場面を読む予定です。今年の受難節では、主イエスの十字架の場面をじっくり読み進めていいくことができることは大きな恵みです。早速、御言葉の恵みに与りましょう。
これはユダヤ人の王
主イエスは十字架につけられる刑場へと引いて行かれました。しかし主イエスお一人が引いて行かれたのではありません。32節に「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った」とあります。続く33節には、「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」とあります。十字架のてっぺんには、38節にあるように、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げられました。主イエスはユダヤ人の王を語った罪で十字架刑に処せられたのです。主イエスを中央にして、その左右で二人の犯罪人が十字架につけられたのも、王を自称した主イエスを侮辱するためであったのではないでしょうか。王を自称したけれど、実際は犯罪人の一人に過ぎなかった、という主イエスに対する侮辱が、二人の犯罪人を左右にして主イエスを十字架につけたことに込められているのです。もっともこの主イエスの十字架刑を決めた総督ピラトは、主イエスがユダヤ人の王を自称したと考えていたわけではありません。主イエスが王を自称しているというユダヤ人宗教指導者たちの訴えは、自分たちの宗教的な権威を守るためだということを見抜いていたからです。しかしこれまで見てきたように宗教指導者だけでなく、民衆も主イエスを十字架につけろと要求し続けたために、ついにピラトはその要求を飲んだのです。人々からユダヤ人の王を自称していると訴えられ、しかし王と言えるような力を何ら持つことなく、無力の中で犯罪人の一人として十字架につけられることになった主イエスを、ピラトは侮辱してこのような形で主イエスを十字架につけたのです。
主イエスの服を分け合う
34節の後半には、「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」とあります。十字架につけられる人は服をはぎ取られ、それは死刑執行人たちの役得となったのです。「人々」というのは十字架刑を執行したローマの兵士たちです。そしてこのことは、先ほど読まれた旧約聖書の箇所、詩編第22編の19節に語られていることの実現です。詩編第22編は、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とを予告している詩であると言うことができます。冒頭の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉はマタイ、マルコ福音書において、主イエスが十字架の上で叫ばれた言葉とされています。ルカ福音書はそのことは語っていません。しかしルカも今朝のこの箇所で詩編22編を意識していることは確かです。その一つの現れがこの、主イエスの服をくじで分け合ったということです。服をくじで分け合うというのも、その人を侮辱し、苦しめることなのです。主イエスはこの詩人が預言した通りの仕方で侮辱され、辱められたのです。
徹底的な侮辱
35節には、「民衆は立って見つめていた」とあります。その「民衆」は先週の所にも出てきていましたが、主イエスを十字架につけることをピラトに要求した人々です。彼らが主イエスの十字架を見つめていたのは、決して同情や憐れみの思いをもってではありません。むしろ憎しみと嘲りの目で見つめていたのです。だからその次に、「議員たちも、あざ笑って言った」と続いています。最高法院の議員たちは、主イエスをピラトに訴えた人々です。ついにイエスに勝利し、十字架につけて殺すことができる、その喜びをもって彼らは主イエスをあざ笑ったのです。さらに36節には、十字架刑を執行している兵士たちが「酸いぶどう酒」を主イエスに突きつけたとあります。このぶどう酒は本来は十字架の死刑を受ける者の苦しみを和らげてやるための麻酔薬として用意されていたもののようですが、ここでは兵士たちも民衆や議員たちと一緒に主イエスを侮辱するためにぶどう酒を突きつけたと語られています。つまり、この箇所に語られていることは、主イエスが犯罪人たちのまん中で、その親玉のようにして十字架につけられ、その下では兵士たちがはぎ取った服をくじで分け合い、民衆たちは憎しみの目で見つめ、議員たちは「お前は神からのメシア、神に選ばれた者ではなかったのか」とあざ笑い、兵士たちは「ユダヤ人の王なら王様らしい力を見せてみろ」と嘲った、ということです。
自分を救え
議員たちと兵士たちが主イエスをあざ笑った言葉に目を留めたいと思います。人々を救う力のある神からのメシア、つまりキリスト、救い主ならば、自分をこの十字架の苦しみと死から救ったらよいではないか、と彼らは言っているのです。それができないということは、お前は神からのメシアでも、選ばれた者でもないということだ、お前が偽物のメシアだということがこれで明らかになったのだ、と彼らは言っているのです。また兵士たちは、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言いました。この二つの嘲りの言葉には共通点があります。「自分を救え」ということです。「自分を救うことのできないお前はニセモノだ」ということです。十字架につけられ、苦しみつつ死のうとしている主イエスは、そういう嘲りを受けたのです。このこともまた、詩編22編が語っていたことです。その8、9節にこうあります。「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」。この詩人が受けた嘲りの言葉と、今朝の箇所の「自分を救え」というのは同じことです。主なる神に愛され、選ばれ、遣わされた者なら、その主に頼んで救ってもらうことができるはずだ、主の力を受けて自分を救い、十字架の死を免れることができるはずだ、そういうことが起らないということは、お前は主に愛されてはいなかったのだ、自分が神に愛され、選ばれ、遣わされていると思ったのはお前の思い込み、幻想に過ぎなかったのだ、と言っているのです。詩編の言葉はまさに今、成就しているのです。
人々の嘲り、ののしりの中で
主イエスが受けたこの侮辱の言葉は非常に深刻であり、私たちをも動揺させます。主イエスは十字架につけられて殺されました。十字架は、今ではキリスト教のシンボルとなり、神による救いの印とされています。だから十字架を首から下げている人もいます。しかし十字架は本来は、とても残酷な死刑の道具です。極悪人が見せしめのために殺されるためのものです。主イエスはそういう極悪人の一人として、十字架の死刑に処せられたのです。鞭で打たれ、十字架を担いで運ばされ、服をはぎ取られ、手足に釘を打たれてぶら下げられ、その苦痛の中で死んだのです。そこには何の救いも感じられません。神の愛とか、守りとか、恵みなどというものが一切失われた現実がそこにはあるのです。主イエスを信じる信仰に生きようとする私たちも、このようなイエスを救い主だとか王だとか信じるのはお前の思い込み、幻想に過ぎない、イエスにそんな期待を抱くと必ず裏切られるぞ、という嘲りやののしりを受けるのです。そういう嘲りやののしりを生む思いが、今、ガザやウクライナの悲惨な戦場をニュースで見る中で私たちにも起きるのです。あるいは、あの東日本大震災や能登の地震による被災の現実を見る中で多くの人の心にあるのです。お前の信じている神は何をしているのか、恵み深い愛の神がいるというなら、なぜこんなことが起るのか、このように人々が苦しみ、死んだという事態のどこに、神の救いがあるのか、神が本当に神であると言うなら、力を見せてみろ、苦しむ人々を救ってみせろ、それができないなら、救いだとか恵みだとか偉そうに言うな…、そういう思いが今人々の心の中にうず巻いているし、私たちもそういう嘲り、ののしりによって動揺しているのではないでしょうか。十字架につけられた主イエスを嘲り、ののしった声は、今私たちの周囲にも溢れているのです。人間の歩みには、様々な苦しみ悲しみ困難があります。中にはいわゆる不条理、なぜ自分がこのような苦しみ悲しみを味わわなければならないのか、その理由が全くわからないようなものがあります。そういう苦しみ悲しみを前にして、私たちは、神が本当に神ならなぜ今救ってくれないのか、救いの力、愛や恵みの力を発揮しない神など本当の神ではないのではないか、とも思ってしまうのです。
主イエスの祈り
しかしルカはむしろ、主イエスが黙ってその嘲り、ののしりに耐えておられるお姿を語っています。その忍耐の中で主イエスがお語りになった一言が34節です。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」。十字架につけられた肉体的苦しみの中で、また徹底的に侮辱され、嘲られ、ののしられる中で、彼ら、つまり自分を十字架につけた人々への赦しを、主イエスは父なる神に祈ったのです。自分を救う力のないお前は救い主でも王でもないとののしっている人々、それら全ての人々の罪の赦しを、主イエスは祈り願われたのです。その祈りの根拠というか前提として、彼らは「自分が何をしているのか知らないのです」と言っておられます。主イエスを十字架につけた人々も、嘲りののしっている人々も、自分が何をしているのか、そして今何が起っているのかを知らないのです。だから彼らを赦してくださいと祈っておられるのです。十字架の死刑を受けなければならない罪人は本当は私たちであるのに、その私たちの身代わりとなって主イエスが十字架につけられたのです。それは全て、私たちのため、私たちの罪が赦され、神の祝福を受けて生きる神の子とされるためでした。私たちのこの世の歩みは、様々な出来事に翻弄され、思わぬ苦しみを背負うことがあります。震災のような自然の災害もそうですし、病気になったり、事故や事件に巻き込まれたりすることもあります。これでもかこれでもかと、災害は起き悲惨な事件は起きます。自然災害を引き金として起った原発事故によって、この社会の仕組みそのもの、国の政策そのものが原因である悲惨な事態に私たちは今も直面しています。それらの出来事の中で、いったい神の救いなどどこにあるのか、神が私たちを愛しておられ、恵みを与え、守り導いて下さると言うけれども、そんな愛や恵みや守りはどこにも見えないではないか、と思うことがあります。主イエスの十字架は、まさにそのような、救いも助けも恵みも愛も見当たらない現実のただ中に、神の独り子が身を置き、その苦しみ悲しみ絶望を自分の身に背負い、引き受けて下さったという出来事です。主イエスがこのように十字架にかかり、自分を救うことができずに殺されてしまう、その苦しみと死を味わって下さったからこそ、私たちがそのような救いの見えない苦しみの中で絶望を覚える時にも、そこに、十字架につけられた主イエス・キリストが共にいて下さるのです。主イエスが自分を救うことができず、いや救おうとなさらず、私たちの罪を背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さったからこそ、そして父なる神が愛する独り子主イエスを救うのでなく、十字架の苦しみと死へと歩ませて下さったからこそ、十字架の苦しみと死を本来受けなければならないはずの私たちが赦され、救われる道が開かれたのです。
十字架につけられた王
人を救うためには救うことのできる力が必要だ。自分が滅びてしまうようでは、人を救うことなどできない。それが私たちの常識です。しかし主イエス・キリストの十字架は、その常識をくつがえす出来事です。捕えられ、裁かれ、死刑の判決を受け、鞭打たれ、十字架に釘づけられ、人々の侮辱、嘲り、ののしりを受けつつ死んだ、この主イエスこそ、神の独り子、まことの神であられ、私たちのまことの救い主、私たちの罪を赦し、新しく生かして下さるまことの王であられるのです。このことを知らずに、主イエスを十字架につけ、嘲っている人々のための赦しを、主イエスは父なる神に祈って下さいました。それは私たちのための祈りでもあります。私たちは、この主イエスの十字架の上での執り成しの祈りによって、赦され、新しく歩み出すことができるのです。主イエスを信じて新しく歩み出す私たちは、自分が何をしているのかをはっきりと知っています。私たちは、十字架の死によって私たちの罪を全て赦し、苦しみや悲しみを共に担って下さる神の独り子イエス・キリストをまことの王としていただき、その王の下で、その恵みを喜び、キリストの父である神を礼拝し、ほめたたえつつ生きているのです。祈ります。