4/13説教「神の子の死」

はじめに
今朝は受難週の礼拝です。棕櫚の主日とも言います。英語ではパームサンデーと言います。なぜ、そのように言うかといえば、主イエスがエルサレムに入城する時に大勢の群衆が棕櫚の葉を振って迎えたというところからそのように言われているのです。棕櫚の葉と言って思い出すのは、私が大磯教会に伝道師として招聘された15年前、3月の末頃、愛知県豊橋市にある自宅から大磯教会に引っ越してきたのですが、自分の車に生活に必要なある程度の荷物を積んでやってきたのです。その時、国道1号線から井上蒲鉾店の信号から曲がって教会前の道をきたのですが、教会が見つからないのです。当時、礼拝堂の前庭にはたくさん木が植わっていて教会堂が見えなくて通り過ぎてしまったのです。間口が狭いですからね。笑い話のようですが、それほど木が植わっていました。桜の老木もありました。電線に接触する程の高い木もありました。そして棕櫚の木がたくさんありました。礼拝堂の東側にも何本かの棕櫚の木があり、裏の牧師館の玄関に続く通路もやっと通れるほどでしたが、今、駐車場になっている裏の庭にも何本か棕櫚の木が葉を繁らせていました。大磯教会の棕櫚は印象的でした。先日、3月13日に前任牧師の鳥羽和雄牧師の葬儀に、教会員と共に横浜指路教会に行きました。ご遺族の御挨拶は長男の方でしたが、出口で妻の鳥羽徳子牧師にご挨拶いたしました。だいぶ足などご不自由な様子でしたが、いつもの元気な声を久し振りに聞きました。そして2週間ぐらい前に、徳子牧師からお手紙と一緒に棕櫚の葉を切って作ったたくさんの十字架の飾りが送られてきました。受難節の中でご自宅で丁寧に作られたものです。受付にまだあるかもしれません。小林長老によると、大磯教会におられる時にいつも作っていたようです。私たちも来年、作って伝道に使えないかなとも思います。私の二宮の自宅には棕櫚の木がたくさんありますから。さて、今週の18日の金曜日がキリストが十字架にお架かりになられた受難日ということになります。そしての20日の日曜日が復活日、イースターです。したがって今朝私たちに与えられた新約聖書の箇所は、イエス・キリストの十字架の死の場面が記された箇所です。今朝はルカによる福音書23章44~56節の個所から御言葉の恵みに与りたいと思います。
わたしの霊を御手にゆだねます
四つの福音書の内、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、お互いの間にかなり共通する部分があるのですが、主イエスの十字架の場面においては、ルカはマタイ、マルコとはかなり違った語り方をしています。マタイ、マルコにおいて、主イエスが十字架の上で最後にお語りになったのは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉です。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。マタイとマルコにおいては、主イエスはそう叫んで死んでいかれたと書かれています。しかしルカ福音書においては、主イエスの最後のお言葉は46節の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」です。これはマタイやマルコにはない、ルカが独自に伝えている言葉です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言って死ぬのと、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って死ぬのとでは、かなり印象が違います。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というお言葉は、主イエスが、父である神に見捨てられてしまったという苦しみ、絶望の中で死なれたことを示しています。この言葉は、詩編第22編の最初の言葉です。2節はこのように書かれています。
2わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻(うめ)きも言葉も聞いてくださらないのか。
主イエスはそれを死に臨んで語られたのだとも言われます。罪のゆえに神に見捨てられて死ぬ、その罪人の苦しみと絶望をご自分のものとして体験して下さり、そういう苦しみの中で死なれたことを語っているのだと思います。そしてそれはまさに私たちのためでした。私たちこそ、本来自分の罪のゆえに神に見捨てられ、絶望の内に死ぬしかない者なのです。その私たちの絶望を、主イエスが背負い、引き受けて下さった。そこに私たち罪人のための救いのみ業があるのです。それゆえに、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という最後のお言葉に私たちは、主イエスによる救いの恵みを聞き取ることができるのです。マタイ、マルコ福音書はそのように伝えているのです。
神への信頼の言葉
しかし今朝ご一緒に読むルカによる福音書にはそのお言葉がありません。その代わりに、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というお言葉が語られているのです。これはどのように捉えたらよいのでしょうか。そのようにして息を引き取られた主イエスのお姿は、マタイやマルコ福音書が語る主イエスのお姿とは随分と違いがあるようにも感じます。この言葉は神への信頼の言葉でしょう。十字架上で死を迎えるまさにそのときも、主イエスが神への信頼を貫かれた、それを言い表しているように思えるのです。私たちもこのような言葉を語りたい。苦しみの中でも、たとえ死を迎えるときも、主イエスのように神への信頼に満ちた言葉を語りたいと思います。確かに神への信頼に満ちた言葉を語りたいのです。しかしそう思いながら、神に信頼することができない、信頼して自分の霊を、自分の命と人生を、自分の存在全体を神にゆだねることができない。それが私たちです。そうなると、この十字架上の主イエスのお言葉は立派な言葉ではあるけれど、私たちには真似のできない言葉ということになります。私たちの救いや慰めとは関わりのない言葉ということになるのでしょうか。いや、そうではないでしょう。この言葉は、もっと違うことを示しているのではないか。この主イエスの十字架上のお言葉は、私たちを「本当の人間」に回復する言葉、その道を切り開くための言葉だと思います。このことは、この言葉だけを取り出しても見えてきません。前後の文脈の中で読むことによって見えてくるのです。
暗闇が全地を覆った
この箇所の冒頭44節から45節の前半で、このように言われています。「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた」。原文を直訳すれば、太陽が光を失って暗闇が全地の上に生じたとは、何を指し示しているのでしょうか。日蝕が起こったとか、起こらなかったとか、そういう議論は、まったく的はずれな議論だと思います。ところでアモス書8章9節にこのようにあります。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ 白昼に大地を闇とする」。その日が来ると、つまり主の日が来ると、真昼に太陽が沈み、白昼に大地は闇に覆われる、と預言されています。そうであれば「太陽が光を失って暗闇が全地の上に生じた」とは、主の日の到来を指し示しているのです。「主の日」と聞くと、私たちはすぐに救いの日、救いの完成の日だと思ってしまいます。しかし「主の日」は、本来、神が私たちをお裁きになる日です。主の日に私たちの罪がすべて明らかにされ、その私たちの罪を神がお裁きになるのです。主の日は、私たち罪人にとって闇であって光ではありません。主イエスが十字架で死なれるまさにそのとき、主の日が到来し、私たち人間の罪の現実が露わにされました。それゆえ全地が暗闇に覆われたのです。人間の罪の現実という暗闇が全地を覆った、と言って良いかもしれません。いえ、普段は隠されている人間の罪の現実という暗闇が露わにされた、と言ってよいのです。暗闇は突然生じたのではなく、隠されていたのです。その暗闇が、神の独り子イエスを十字架に架けるという私たち人間の罪の極みにおいて、露わになり、世界を覆った。そのように理解できるのです。
暗闇に覆われている世界
この暗闇は、今も私たちの社会と世界を覆っているように思えます私たちの暮らす街は、人間の罪の現実という暗闇などどこにもないかのように、人工的な光で溢れています。しかしそれは、暗闇が隠されているだけに過ぎないのではない。私たちが自分たちの罪の現実を直視しなくて良いように隠されているだけに過ぎないのです。私たちが一度(ひとたび)、この社会と世界の悲惨な現実に、私たちの苦しみの現実に目を向けるならば、それらの現実の根本にある、人間の罪の現実を見ないわけにはいかないのです。
私たちの罪の現実とは、私たちが自分の命と人生を神様にゆだねることができないということです。それどころかそれらは自分のものだと思っていることです。自分の思い通りにできると、自分の好き勝手にして良いと思っているのです。しかし自分の命や人生を自分のものだと思って生きるとき、私たちは神との関係を失い、神なしに自己中心的に生きます。自分さえ良ければ、自分の仲間さえ良ければ、自分の国さえ良ければ、そのような自己中心的な思いに駆られて生きるのです。今、私たちの社会や世界では、このような自己中心的な思いがますます肥大化しているように思えます。アメリカのトランプ政権が何をしようとしているのか、良く分かりません。世界は戦々恐々としています。国と国との関係が破壊され、人と人との関係が破壊されているように見えます。あるいは自然との関係も破壊されているのです。私たちは自分の全存在を神にゆだねることができず、自分の思い通りにしようとして、神との関係を破壊し、隣人との関係を破壊しているのです。そして環境も破壊しているのです。この私たち人間の罪の現実という暗闇が、この世界と社会を覆っているように思えるのです。
神殿の垂れ幕が裂けた
45節の後半には、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」とあります。このことはマタイやマルコ福音書にも記されています。「神殿の垂れ幕」というのは、神殿の聖所と至聖所とを分ける垂れ幕のことです。至聖所は神様が住んでおられるところではありませんが、しかし神が臨んでくださるところ、現臨してくださるところです。その意味で、神と出会い、交わりを持つところと言えます。その至聖所に、年に一度、大祭司だけが入ることができました。とはいえ罪ある人間は、そのままでは神のみ前に立つことができませんから、大祭司は自分自身と民の罪の贖いのために、犠牲の動物の血を携えて行く必要がありました。このように「神殿の垂れ幕」とは、私たちと神を隔てるものでした。この垂れ幕を通らなければ、神と出会い、交わりを持つことができないし、それが出来るのは、年に一度、大祭司だけであったのです。しかし主イエスの十字架の死によって、この神殿の垂れ幕が裂けた。それは、主イエスの十字架の死によって、私たちと神を隔てるものが取り除かれた、ということです。しかも私たちは神のみ前に進み出るのに、もはや犠牲の動物の血を携えていく必要はありません。主イエスが十字架で流された血によって、私たちの罪の完全な贖いを実現してくださったからです。しかしこのことは、マタイとマルコ福音書には当てはまっても、ルカ福音書には当てはまらないと思います。「神殿の垂れ幕が裂けた」という点では同じでも、マタイとマルコ福音書が主イエスの十字架の死の後に、このことを語っているのに対して、ルカ福音書は主イエスの十字架の死の前に語っているからです。十字架の死の前であれば、神殿の垂れ幕が裂けたことが、主イエスの十字架の死によって神と私たちを隔てるものが取り除かれたことを見つめている、とは言えないと思うのです。
それでは何を見つめているのでしょうか。44節、45節前半と結びつけて読むならば、人間の罪の現実によって、神殿が破壊されたことを見つめているのではないでしょうか。神殿というのは神と出会う場所、つまり神を礼拝する場所ですから、人間の罪の現実によって、神を礼拝する場所が破壊され、神を礼拝することが失われたこと意味しているのです。私たちは自分の命と人生を神にゆだねようとせず、自分自身で握りしめて離さないことによって、神なしに自己中心的に生きています。それは、神との関係の破壊であり、要するに神を礼拝して生きることの破壊であり、礼拝の喪失です。太陽が失われ、暗闇が全地を覆い、神殿の垂れ幕が裂けたということは、私たち人間の罪によって、私たちと神との関係が破壊され、神を礼拝して生きる道が完全に失われたことを意味しているのです。
父よ、わたしの霊を御手にゆだねます
しかし主イエスは、そのように人間の罪の現実が全地を覆い、神と人間との関係が破壊され、神を礼拝して生きる道が完全に失われたかのように思える中で、なお私たち人間を見捨てることがありませんでした。主イエスは私たちが滅ぶのを「良し」とされませんでした。滅んで行くのを放って置かれませんでした。私たちが神にゆだね、神を礼拝して生きることができるために救い出そうと、回復させようとしてくださったのです。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。それは、私たちを救い出し、回復させようとする主イエスの叫びです。人間の罪の現実という深い暗闇を切り裂く叫びなのです。私たちは主イエスがこの言葉を穏やかに語ったように思っているかもしれません。十字架上で神に信頼して、穏やかに、平安の内に、このように祈られたと思っているのです。しかし「イエスは大声で叫ばれた」とあります。叫ぶのですからそもそも大きな声です。しかしさらに「大きな叫びで」という言葉が重ねられています。穏やかとは程遠い、激しい叫びです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。そう大声で、激しく叫ばれて、主イエスは十字架上で息を引き取られました。自分の命と人生を神にゆだねることができず、神との関係を破壊し、礼拝して生きられなくなっている私たちを救うためです。神の独り子を十字架に架けるという人間の自己中心の罪が極まり、暗闇が全地を覆っている中で、誰もが自分の命と人生を神にゆだねようとせず握りしめている中で、ただ主イエスお一人はご自分の命を、ご自分の全存在を父なる神の御手にゆだねられ、十字架で死なれたのです。主イエスはまさにご自分の息をすべて吐き出すようにして、ご自分の命、全存在を注ぎ出すようにして、神に完全にゆだねられたのです。そのことによって私たちが破壊した神との関係を回復してくださいました。この叫びをもって、主イエスが十字架で死んでくださったことによって、私たちが神にゆだねて生きる道が切り開かれたのです。神に造られた者として、「本当の人間」として回復されて生きる道が切り開かれたのです。
主イエスの埋葬
今日ご一緒に読む50節以下は、小見出しにありますように、主イエスが墓に葬られたという所です。アリマタヤ出身のヨセフという人が、総督ピラトのところに出向き、主イエスの遺体を引き取ることを願い出て許可され、十字架の上で死んだ主イエスを取り降ろし、亜麻布で包み、まだ誰も葬られたことのない、岩に掘った墓に納めたのです。この埋葬は急いで行われました。遺体を丁重に葬る場合には、香料と香油を塗り、そして布に包んで埋葬するのです。しかし主イエスの埋葬においては香料や香油を塗ることができませんでした。それは54節にあるように、安息日が始まろうとしていたからです。先週読んだように、主イエスは午後3時ごろに息を引き取られました。ユダヤの暦では一日は日没から始まります。ですから主イエスが息を引き取られてから、翌日の安息日、つまり土曜日が始まるまでの間は、午後3時から日没までの数時間しかなかったのです。安息日が始まってしまうと、埋葬などの仕事をすることができません。また、旧約聖書の律法には、木にかけられて死んだ人の遺体を翌日までそのままにしておいてはいけない、という掟があります。それゆえにヨセフは急いでピラトと交渉し、許可を得て主イエスを十字架から取り降ろし、亜麻布に包んだだけで埋葬したのです。
このヨセフの行為は大変勇気のある大胆なことだと言えるでしょう。彼は、自分の社会的生命を危険にさらしてまで、主イエスの遺体を丁重に葬ろうとしたのです。彼が心から主イエスを愛していたことが分かります。けれども私たちはそこに、主イエスを愛する人間の愛の限界をもまた示されます。これほど主イエスを愛していた彼も、その十字架の死を阻止することはできなかったし、死んでしまった主イエスを復活させることも勿論できないのです。人間にできることは、悲しみ嘆きつつ、主イエスの遺体を丁重に葬ることまでなのです。
今日の箇所はこのように、主イエスの十字架の死と、三日目の日曜日の朝の復活との間の時のことを語っています。この「間の時」、主イエスを心から愛していた人々が、深い嘆き悲しみの中で遺体を墓に納め、さらに本格的に葬りをするために備えていたのです。しかし主イエスの弟子たちはここに全く登場していません。彼らは皆逃げ去ってしまった、つまり主イエスを裏切ってしまったのです。それゆえに、人間が主イエスに対する愛をもってできる最後のことである埋葬に関わることができなかったのです。私たちは、自分の出来ることの限界を知り、そこにしっかり留まるという必要もあります。人間が努力して出来ることもあるけれども、どうしても出来ないこと、自分の力には余ることもまたあるのです。そこにおいては、私たちは自分の限界をわきまえ、その嘆きや悲しみの中にじっと留まらなければなりません。神の独り子であられる主イエス・キリストが、十字架の苦しみと死とにおいて、「言い難い不安と苦痛と恐れ」とを耐え忍んで下さったことは、私たちが自分の限界を知り、その悲しみの中に留まることによってこそ見えてくるのだと思います。そこにおいてこそ、主イエスが「言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みからわたしを解放してくださった」ことを、「最も激しい試みの時にも」確信する、そういう信仰が与えられていくのだと思うのです。お祈りします。

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